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薄日がやわく耀く午後3時、いつもより遅く目が覚めてこれまた遅めの昼食をとりながら。 「八戒、好き」 悟浄が突然そんなことを言った。 「…は?」 食事を先に済ませていた八戒にしてみれば、コーヒーを口に含んでいなくてよかった、というところだ。テーブルに置いてあるカップを見ながら、もし飲んだ直後にでも言われていたら茶褐色の液体を噴き出しかねない、と危機を脱したことに安堵する。 たっぷり空いた間のあとにその空白よりも間抜けな音を出した八戒を見向きもしないで、悟浄はひたすら口へと昼食をかきこんでいる。犬食い箸はみっともないと怒ったのは確か昨日の朝だったか。たぶん、彼は忘れているのだろう、いまもこうして白い米粒を勢いよく口へと運んでいるのを見れば。 ついでに迷い箸もやめろといったはずなのに。 「好きで、好きでたまんねえ」 皿の上、右手の指でしっかりと挟んだ箸を彷徨わせながらそう言った悟浄の目はどのおかずを突き刺すべきか狙って釘付けで、八戒のほうなど見向きもしない。あのとき刺し箸もやめろと注意しておけばよかったかと、突然突拍子もないことを口走ったとは思えないほどあまりに普通な悟浄のせいでこちらもそんなことを思ってしまうが、いや、そうじゃなくて。 一体なにがあったのだろう、そんなこと、滅多に言ったことなどないのに。というか告白めいた言葉など、もしかしたら悟浄の意志で言ったことは一度もないのではなかろうか、下世話だが情事の最中ですらも強要してやっと、聞きだせる程度なのに。 こんなにもあっさり言われてしまったら困る、というかなんとなくもったいないような。 「悟浄?」 突然の告白に嬉しいどころか多分に戸惑いつつ名前を呼んで、どうしたんですか、と訊く前に、八戒は? と言いながら悟浄がやっとこおかずから目を離し、こちらを見たのにどきりとする。 なんか、かわいい、んですけど。 「好き? 嫌い?」 そんなこと小首を傾げながら言わないでもらいたい。 ああ舐り箸も行儀が悪いのに、かわいくて注意ができないではないか。 「好き、です、けど?」 「ふーん、」 悔しいけれどちょっとばかりびびった声で途切れ途切れに答えれば、気のない相槌を打って、そりゃよかった、と溜め息をつく悟浄に、酔っているのか、と訊きたくなった。それとも寝惚けてでもいるのだろうか、目の焦点はばっちりと合っているし呂律に怪しいところはないけれど、発言が十二分に怪しい。 というか正直、素直すぎて怖い。 「つわけで、」 先ほどまで舐めていた箸を置いてテーブル越し、赤子のように両手を差し出しながら。 「抱き締めてくれませんか?」 そう言った悟浄を見て、確信は深まった。 寝惚けているのだ。そうに違いない。それとも自分が夢でも見ているのか、幼く微笑む彼の顔は確か先週末あたり夢の中で見た顔と同じもののような気がする。 いつもならこんなこと頼まれたってしないだろう。そうだ、これは、夢だ。 (でもまあ、) 素直な悟浄も見ものではあるな。 と思いなおし、どうせ夢ならいつもできない分思い切り抱き締めてやろう、ついでによこしまな行動でも起こしてやろう、と椅子から立ち上がって伸ばされた手を取ってやった。 座ったままの悟浄の身体に腕を回して。 そういえば先ほどシャワーを浴びていたか、悟浄の髪からふわりと漂う石鹸と微かな煙草の香にうっとりと目を細めた。夢というのは匂いはしないはずだったような、とか思ったけれど、なんかどうでもよいほど、気持ちがいい。 春は、いいなあ。 「ところで八戒さん?」 「はいはい」 夢心地で生返事をしている八戒には、胸にうずもれた悟浄の楽しそうに笑う顔など見えず、腹の底から溢れてくる笑いを堪えても堪えきれず揺れる悟浄の身体を不思議に思うこともなかった。 「今日が、なんの日か知ってる?」 「?」 突然に流れと関係のない質問をぶつけてきた彼にふと、そういえば何日だろう、と抱き締めた悟浄に視線をやれば、俯いたままくすくすと揺れていてなんだこの人はと思いつつ、ちょうどよく視線の先、壁にかかっていたカレンダーの数字を読んで八戒は唖然とした。 四月、一日。 「悟浄?」 「はいはい」 「誰にそんな姑息な技教わったんですか」 八つ当たりのように、意外と細い身体に回した腕に力を込めた。 お前だよ、ととろけそうに笑う彼に、たまには負けてやるのもかまわないかな、と思ったのはまあ、秘密にしておこう。 |
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