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手 を 伸 ば せ ば 届 く 距 離

 ほんのちょっと手を伸ばせばいいのだけど、お互いにそれをしないような。
 背中合わせに立っているわけではなくて、向かい合っているわけでもなくて。寄り添っているわけでも離れすぎているわけでもない。
 そんな微妙な距離がひどく心地いい。。



 久しぶりの宿屋。野宿が続いた身体には安宿の硬いベッドでさえ高級な羽毛布団のように感じられるのだということを、悟浄はいま痛切に受け止めていた。
 牛魔王討伐のため西へ西へと向かう旅の途中、毎日のように襲いかかってくる敵の刺客たち。毎度毎度バカみたいに多人数を引き連れてやってくる彼らは、大体が代えのきくような下っ端ばかりだ。つまり、弱い。数に幅を利かせて攻めてきても、こちらは別に連係プレーを得意としているわけではなく、与えられたノルマを淡々とこなしているだけであるから散り散りになっても支障はない。むしろ獲物を、誰に気兼ねすることもなく狩れるというのはある種快感ではあるのだ。
 が。
 いかんせん、こうも大量にノルマを課せられてしまうと精神的にも余裕がなくなるというものだろう。八つ当たりのように細かく切り刻んでも、次のときにはまた同量、いや、それ以上のショッカーが湧いて出てくる。だんだんと溜まるフラストレーションは身体の疲労に拍車をかける。何匹束になったところで敵いはしないということを好い加減学習して欲しいものだ。それとも嫌がらせのつもりなのだろうか。
 まあ相手がどういうつもりでもこちらは大人しく死んでやるつもりもないので、とにかくそれを薙ぎ倒し蹴倒しはっ倒し、一行がこの町にようやくたどり着いたときには、予定より丸三日も遅れていたのだった。
 つまりそのあいだはあの堅苦しいジープの中で四人仲良く寝ていたわけで。
「そりゃさすがの俺だって疲れもたまるってもんだよな」
 軽装の詰まったサックを床に放り投げ、着替えもせずにベッドに身体を投げ出して悟浄は、安らかに息を吐く。多くの人たちに使われてきたのだろう、人の重みに潰され弾力のなくなった布団が枠となっている木製ベッドの硬さを伝えてきたけれど、それすらもなにかマッサージのように身体を癒してくれるようで。そんなふうに感じた自分に苦笑しながらカチカチに凝った筋を伸ばすとぼきり、と小気味いい音がした。
 立ち上がろうとしたら貧血のように頭が揺れた。目眩を感じる目を細めてそのまままたベッドへと腰を落ち着ける。力の入らない身体の中の余分な力を抜いたらまた、簡単に横になってしまった。
 もう起き上がることも億劫な状態で。
 ベッドにうつ伏せて静かに呼吸を繰り返す。
 風が強い。宿に入る前、ジープからおりるときに突然吹いた向かい風にふらついたことを思い出す。雨が降らないだろうかと心配になって首を反らして見上げた窓に、黒いインクで塗り潰したがごとくに広がる夜陰の奥から、眩しいほどの月光が差していた。
 ちゃちな窓を壊してしまいそうな勢いでぶち当たる風の音と、宿にありがちな、階下の食事場兼酒場の喧騒が耳に届いた。
 そういえば各自荷物を置いて着替えたあと階下に集合という命令が生臭坊主から出ていたような気がする。食事をしながらこれからの予定を考えるらしいのだが、実のところ計画を立てているのは生臭坊主ことこの旅の先導者三蔵様と、八戒という見た目爽やかお兄さん中身真っ黒眼鏡豚のふたりで、あとの猿と河童さんは食べ物の取り合いとそれにともなう喧嘩をするためにいるようなものだった。
 それでも三蔵の命令は絶対だ。カリスマ性に付随する信頼とかそういうのじゃなくて。単純に逆らえば殺される、それが恐くて逆らえない。早く行かなければその似非坊主に銃をぶっ放されることになるだろう。
 早く行かなければならない、のだけれど。
「…めんどくせぇ」
「駄目ですよ」
 独り言のはずの言葉に思いがけずあった叱責、突然かかった声に悟浄は身体の疲れも忘れて飛び上がった。布団から三センチは浮き上がっただろうか、どこかに打ちつけた左肘が指先にまで痺れを伝えている。
 右手で肘をさすりながら振り返ると、閉めたはずの扉が開いていた。
「食事、行かないと」
 廊下の明りを背に八戒が言った。
 シルエットになって浮き上がっている彼はいつもよりもっと細くなったように見えて、視線を向けてもどこか霞んでいた。疲れにぼやける目を細めて、射抜くような逆光とそれに掻き消えてしまいそうな華奢な影を見詰める。明かりの点されていない部屋では逆光もここぞとばかりに強く、暗がりになった顔は表情まで見分けられないけれど、八戒のその声が、少しばかり疲れているように思うのは気のせいだろうか。常に笑顔を絶やさず疲れを見せない彼もさすがに今回の長旅は辛かったようで、やつも一応は人並みなのだと実感した。妖怪だけど。
「おどかすなよ」
 疲れと、八戒の気配に気づかなかったことの逃げから憮然とした調子で文句を垂れたら、痺れた左腕が、じんじん痛んだ。
「ノックしましたよ、あなたが気づかなかっただけで」
 いつもみたいにすべてをひとのせいにしながら、許可も得ずに軽々と部屋に入ってくる八戒。
「三蔵たち、もう下におりてますよ」
 壁にあった部屋の電灯のスイッチを押してベッドに近づく彼は、まさに不機嫌そのものの表情をしていた。点滅する無機なライトでコマ送りのように見える中、普段人前では絶対に見せないような感情を全面に押し出した、顔。笑顔など掻き消えていっそ悪人のような。
 いつものラフな服装に着替えて、いつものように腕を組んで壁に寄りかかっているのに、いつもとは違う雰囲気を纏って。
 その緑玉も微かに曇って見える。
「八戒、疲れてる?」
 なんか怖いけど、と正直に言えば、そうですかね? とわざとらしくとぼけた声で。
 しらっとした言い方が彼の不機嫌さをいっそう露わにしている。
「悟浄、食事」
 八戒が言う。その声に押されるようにベッドに倒れこみ、これもまた萎びたかけ布団を顔の上まで引き上げる。
「…めんどくせぇ」
 先ほどと同じ台詞を今度はくぐもった音で繰り返した。
 安易に布団に吸い込まれてゆく自分の声が少し羨ましい。同じように、この耐え難いほどの疲労もすべて吸い取ってはもらえないだろうか。そう思って全身の力を抜いても、まったく回復させてはくれないことが恨めしい。これでも吸い取ってみろと、嫌がらせのように疲労の色濃いため息をついたら、耳に二重に聞こえた空気音。どうやら八戒もため息をついたらしい。
「三蔵、怒りますよ」
 言うことを聞かない子どもを叱りつけるような調子だ。その勢いのまま、好い加減にしなさいまったく大体あなたはですね、とでも続きそうに彼が息を吸ったのがわかって、疲労の腹いせで八つ当たりを食らうのは真っ平だと遮るように布団の隙間から手をかざした。
 薄れた痺れがまたじん、と鳴った。
「放っといて」
 布団越しに弱々しい声を出す。
 とにかく寝たい。このまま眠ってしまいたい。
 二度目、八戒のため息が聞こえた。布団越しにもはっきり聞こえるということは相当大きなそれなのだろう。
「じゃあ、僕行きます」
「ああ、行ってらっさい」
 布団から突き出した手をひらりひらりと振る。
 遠ざかる気配と電気を消す音。安宿の立て付けの悪いドアが、特有の軋んだ音を立てて閉まるのがわかった。垂直にあげていた腕を布団に落とす。
 静まった真っ暗な部屋、布団の中で。
 悟浄はあがった心拍数を抑えようと必死に努力していた。
(あーもー、)
 胸中で毒づく。
 最近、八戒とまともに視線を合わせられない。
 馬鹿みたいに騒いだり軽口を言ったり、そういったことはできる。三蔵や悟空の前ではいつものように接しているつもりだ。四人の関係に影を落とすようなあからさまな態度をとったわけではないのだけれど。
 ふたりきりになると、どうしていいかわからなくなる。
 どきどきと鼓動が弾む、声も震えて。
 言いたいことがなくなるというのだろうか、喋りたいわけでもないのに、それでもなにかを話していなければいたたまれない状態、なのに言葉がうまくつげなくて。焦った思考が真っ赤に染まってそれに気づけば頬までも火照りだす。
 そうしてしまいには、身体が熱くなる。
 八戒のあの緑玉の眼差しを受け止めるだけで、欲求不満でもあるかのように抑制の箍が簡単に外れてしまうのだ。いかがわしい店の安い女に何度吐き出しても、その視線を思い出すだけで、安易に燃え上がる身体。
 近頃ではいつでも目が彼を追っていて、その仕草ひとつひとつに翻弄されてしまう。見なければいいのにと思っても、本当に、自分でも知らない間に視界に納めているから質が悪い。
「やばいだろ、俺」
 呟いた吐息の熱さに、薄く潰れた布団が湿った。疲れているはずなのに妙に強く脈打つ鼓動。
 これは危ない、気がする。
 理由などわかりすぎるほどに簡単だから。でも、それがわかったとしても所詮叶わないと、わかっているから。
 まったくどうにもならない。
 できることなら抱き締めたい、自分だけのものにしたい。誰にも手なんか差し伸べないで、誰にも優しくなんかしないで、その冷たい笑顔を自分だけに向けていて欲しいと思う。渇望する。我が儘でもいい、それができるならなにを犠牲にしてもかまわない。自分すら。
 できるなら。でも、できない。
 告げたあと失うものが、大きすぎる。いままでの八戒すべてがいなくなるかもしれない。告げるための対価は自分ひとりなんかで支払える額じゃないのだ。八戒自身を失ってしまう。
 それでも、きっとそれでも心のどこかで期待してしまっている。この微妙な距離のせいで。近くもなく遠くもなく、ずっとそこにいるのが当たり前になった関係。たぶん、いまのふたりの距離は危ない。一歩踏み込めば捕まえられる、そのぎりぎりのラインが、いつか悟浄を強行に走らせてしまうかも知れない、微かな期待と多大な絶望を抱えたままで。所詮叶わないのならばいっそ、と。
 でも、八戒がもしこの距離から遠ざかってしまったら、少しでも離れてしまったら、きっと自分はその空白に埋もれて窒息してしまう。
 もうどうしたらいいのか、自分はいったいどうしたいのか。それがわからない。
 傍にいるだけでいいと思いながら、傍にいればいるほど満たされない。
 堂々巡りだ。
「悟浄」
 呼びかける声と控えめなノックの音が聞こえた。外を駆け巡る風の音にすら掻き消えてしまいそうなくらいの音なのに、どうして布団に深く潜った自分の耳は敏感に聞き取ってしまったのだろうか、聞こえなければ無視もできたのに。
「起きてますか?」
 訊きながら、それでも起きていることを確信したような軽さで八戒が扉を開ける音、次いで締め切った部屋に外の空気と温度と八戒が入ってくる気配。いつも背後に立つときは、何度言ってもわざとらしくその気配を消すくせに、いまはあからさまに存在を提示しているそのオーラが無視することは許さない、と暗に語っていた。
 悟浄の心拍がまた跳ねた。
「悟浄?」
 呼びかける声。
 その声に呼ばれて無視などできるわけがない。
「悟浄、」
「うるせえ」
 布団から顔を出さず、わざとむっつりした声を出す。あるいはそれは自分の心臓に向かって言った言葉だったのだろうか、うるさく鳴り続ける心臓を抉り出してしまいたい。
「起きてたんですか」
 なんだ、と残念そうに漏らした言葉。起きていることなどはじめっからわかっていたくせに。たとえ寝ていたとしても、わざとらしく音を立てて必ず起こしていたくせに。
「おまえが起こしたんだよ」
 嫌味をこめて言った言葉にそりゃすいませんねと返した、その少しも悪びれない言い方に腹が立つ。
 誰のせいでこんなに苦しんでいると思っているんだか訊いたところでどうせまたすべてをひとのせいにするんだこいつはまったく本当にいい性格をしているその目だとかだって好い加減笑いながら人を射殺すことやめろって言ってるのにあと俺の前でしか見せない顔とかそういうのやめろっていうんだよ勘違いするだろ束縛されるだろ、嬉しくなるだろう?
 腹が立ったまま頭の中で文字を羅列する。むかむかと沸き起こる相手への不満と不平と苛立ちと、それでも自分はきっと許せてしまうんだろう、なんてふと思う自分へのむかつき。自分はもっと、容赦のない質だと思っていたけど。こんなに甘かったなんて思いもしなかった。
「悟浄?」
 自分に対する新発見と分析に大忙しで反応のなかった悟浄に、訝しんだ声音で八戒が名前を呼んだ。途端またも跳ね上がる心拍。生理現象みたいに、八戒の声が鼓動を速くする。頬を、身体を、熱くする。
 そう考えてますます跳ね上がった心臓をどうにか抑えようと悟浄は、シャツの胸元を強く握り締めた。
(なんかやべぇ、)
 心の中で呟く。
 早く、ここから、いなくなってくれ。
 しかしそう願う心を裏切って、部屋の空気がふわりと動いた。八戒の不機嫌な気配が近づいてくる。佇んでいた入り口をそっと閉めて、今度は電灯を点けずにベッドの傍らへと。
 無言のままそれが当たり前のように傍に感じる気配が今は恐くて。
 悟浄は、牽制の意味で素早く問いかけた。
「おまえ、飯は?」
 一瞬八戒の歩みが止まった。こちらの意図だとか、わかったわけではないのだろうけれど。
 思案するような小さな間を空けてのち、響いた、かたり、と木が床に擦れる音。そういえば壁際に古ぼけた椅子が一脚おいてあったか。
「僕も疲れたから今日は先に休むと言ってきました。どうせみんな疲れ切って当分はここに滞在することになるでしょうから、予定は明日にでも立てられますし」
 休むと言いながらも椅子に腰を落ち着けている八戒は相変わらず不機嫌な声だ。疲れているのならさっさと寝るなりなんなり好きにすればいいものを。
「じゃあ、部屋で休めよ」
 追い出すように、追い立てるように言うとまたも沈黙が返ってきた。
 不自然に空いた空白に心臓の音が響いてしまうような気がして悟浄は、胸元を握る手に力を込めた。着古して薄くなったシャツの布が引き千切られそうなほどの強さに痛そうな悲鳴を上げ、ぴんと張った皺を寄せるのが、真っ暗な布団の中でいやにはっきり見える。瞼を閉じて速くなる脈拍をなんとか抑えようとしても、そこに八戒がいると思うだけで穏やかになどなりはしない、どころか、潜めた呼吸のせいで逆に速くなったようにすら、感じる。
 早く出て行ってくれと切望する気持ちが焦って、冷や汗までも出てきた。
 早く寝ろよ。
 そう言おうと口唇を開いた、瞬間、だ。
 被った布団の上から異様な重さを感じて悟浄は心臓が止まったように、思った。
「最近、」
 頭の辺りを撫でるように動く重さ。八戒の声が間近に聞こえて。
「様子が変ですけど、なんかありました?」
 そっと布団を引っ剥がされた。
 月明かりだけが異様に眩しい部屋のなかで、覗き込むように八戒が見てくるのがわかったが、顔を上げられずに悟浄はうつ伏したまま。髪に感じる八戒の手を振り払いたいのになぜか身体が動かない。
 動悸は、今にも爆発しそうなほどに速くなって。
「なんも、ないし」
 丸くなるように、八戒の視線から隠れるように小さくなって悟浄は言った。自分でもわかるくらいに出した声が震えていた。止めていた息が言葉につられて不自然に漏れる。ため息に似たそれがその不自然さでもって悟浄を焦らせる。
「嘘」
 八戒が言う。
「本当」
 悟浄が言う。
「うそ」
「ほんと」
 駆け引きめいた言葉。掠れる声音では信憑性がないとわかっていても否定したかった。
 ここで言うわけにはいかないのだ。関係が壊れてしまえばいままでの努力は無駄になるどころか四人の関係を崩壊させかねない。
「嘘」
 なおも続けながら八戒がため息をついた。呆れたように腹の奥底から出した空気が、悟浄の髪を撫でて。
 なぜだか異様に腹が立った。
「本当だっつってんだろ!」
 浴びた八戒の吐息を払い落とすように頭を振って、疲労の濃い身体を無理矢理起こして。疲れているはずなのにどこにそんな力があったのだろうか、自分でも驚くほどの勢いで起き上がったら、またふらり、と身体が傾いだ。支えるように伸ばされた八戒の手が見えた。
 いつものように伸ばされた手。冷たい感触が気持ちよくて、下心を抱えながらもいつも身を委ねていた。
 でも、いまは恐い。
 ゆっくりと伸びる柔らかさ。
 触らないでくれ、頼むから。

 駄目なんだ、これ以上、近寄ったら。

 風音にもはっきりと響いた乾いた音で、悟浄は自分のしたことを知る。
 肘を打ちつけたときよりも、八戒を叩いた手のひらのほうが痺れていた。
「…あ」
 間抜けに響いた音。悟浄の咽喉の奥から大半が空気となって出た微かな音が、八戒を痛みとショックから呼び覚ます。
「僕には、」
 叩かれた手元を引き寄せながら。
「相談できないというわけですか」
 悟ったように言った言葉が悟浄の胸に刺さった。
 違う、おまえだから言えないんだろう?
 この距離を失いたくないから。
「もっと信頼されてるって、思ってたんですけど」
 だから言えない。
「頼って欲しいなんて僭越でしたね」
 その一言一言にこちらがどれだけ掻き乱されているか知りもしないで。
「じゃあ、おやすみなさい」
 冷めた言い方にどれだけ熱くなっているか、知りもしないで。
 胸が痛い。
 どうしたら乱れるんだ? どうしたら焦る? 抱き締めて接吻けて犯したら、泣いてくれるだろうか。

 自分だけ、にしか見せない顔が、欲しい。

 ほんのちょっと手を伸ばせばいいのだけど、お互いにそれをしないような。
 背中合わせに立っているわけではなくて、向かい合っているわけでもなくて。寄り添っているわけでも離れすぎているわけでもない。
 そんな微妙な距離がひどく心地好かった。
 そんな微妙な距離がすごく好き、だったのに。
 それだけでは物足りない。

 なら、壊してしまえ。

「待て、よ」
 みっともないくらい震えた声音で呼び止めた。先ほど恐怖から振り払ったはずの白の手を今度は逃がさないように攫って。
 強く握り締めたそれが冷たさでもって悟浄を縛った。
「悟浄?」
 顰めた目で純粋に、なんだと尋ねてくる彼がふと憎らしく思えた。もっと、違う顔を見てみたい。
 一瞬、月光が雲に隠れた。真っ暗になった室内、電気が消えていることに安心して、さらりと振り返った顔に赤く染まった顔を近寄せた。八戒の吐息を近く感じる。口唇にかかったそれの熱さに火傷しそうだ。冷血なやつなのかと思っていたのに、吐く息はやはり熱いのか。ならばその口中はどれだけの熱量が。
「っ、」
 歯止めなど利くはずはない。
「悟…」
 引き寄せた手元が震えた。名を呼ぼうと開いた口唇をうるさいとばかりに塞いで。
 軽く重ねただけですぐに離そうと思っていたのに、思いのほか柔いと感じた薄い口唇に、理性など吹き飛ばされてしまった。
 不意打ちに開いたままの入り口からいっそ残虐とも取れるくらいに舌をねじ込んで、一瞬強張った八戒のそれにそっと添えた。
 彼が低体温なのか自分が熱いのか、八戒の舌先は自分よりも格段に冷たくて、あの熱い吐息はどこから吐き出されたのだろうと思う。咽喉の奥か肺の奥か、あるいはもっと身体の奥底か。ほじくり出して調べてみたい、なんて詮のないことを考える頭を振り捨てるように、添えた舌先を擦りつけた。ゆっくりと摩擦して、熱を与えるように。
 ざらりとした生々しい感触すら、温い。
 どうして八戒は逃げようとしなかったのだろうか。強く掴んだ手元なんて、口唇を重ねた途端情けなく緩んだ。望んでいた水を注がれた瞬間、安心したようにだれそうになった手を逆に支えていたのは八戒の長い指だったように思う。沸騰する頭では、貪ることだけでなにも、冷静になんてなれなかったのだけれど。
「…っ」
 どのくらい重ねていたのか、擦りあった表面が痺れてしまうまで屠って、それでも名残惜しいと思う身体をゆっくりと離した。こちらから仕掛けたはずなのに乱れた呼吸をなんとか抑えて、濡れた口唇を拭う。酸欠か過呼吸か、はたまた単に長旅の疲れだろうか、こめかみのあたりが激しく疼いて頭がぐらぐらと揺れた。体中の血管が痛いぐらい脈打ってうるさい。
 いっそ止まってしまえばいいのに。
 ともすれば倒れそうになる脚を踏ん張って立つ自分を、八戒の目が真っ直ぐに見ていた。
「…どうして」
 あがった呼気に乗せて訊いた。
 どうして逃げない?
「それはこっちの台詞でしょう?」
 ゆっくりと口を開いた八戒の、なんの感情も窺えない声音。
 八戒の口端を湿らすどちらのものとも知れない唾液を雲のヴェールから逃げ出した月光が射して、濡れた色を撒き散らした。それを親指の腹だけで軽く拭く八戒の淡々とした仕草が浮かび上がる。厚い前髪に隠れた眼元に影が落ちて。
「どうして、こんなことするんですか」
 晒された口元が言葉を刻むのを見惚れるように見詰めたまま、しかし悟浄はなにも言えない。
 だって、理由なんて。
「…悪かった」
「謝罪が聞きたいわけじゃありません」
 謝るしかできない自分に諭すように言う八戒。まるで子どもに向けて言っているようだ。いたずらをしでかした幼子を、叱るのではなくただ宥めるような。
 情けない。
「ごめん」
「悟浄、」
「ごめん、」
 好き、なんだ。
 八戒に聞こえたかどうかなんてわからない、けれど、微か口唇から温い空気が漏れたことでかろうじて音にはなっていたのだと知る。ため息に似た告白。諦めを乗せて、呟く。
「好き、だから」
 もうたぶん、ずっと前から。
 人を想うのに時間なんて関係ないのだと知った。思えば出会ったころから惹かれていたのかもしれない、なにかを思い続ける一途な瞳に、自分と重なる自嘲の笑みに、この赤を血のようだと囁いたあの冷たさに。自覚したのは最近でも、たぶんずっと前から。
「どうして?」
 不躾なことを訊く八戒のその口唇をもう一度塞いでしまおうか。そんなこと、
「知るかよ」
 月光はただ射している。晒された無感情な八戒の面を眺めていることができずに悟浄は俯いた。長旅で痛んだ髪の毛がさらりと流れてみっともなく歪んだ顔を隠してくれた。
 もう、馬鹿みたいだ、こんなの。
「そんなの、ずるいですよ」
 もう、
「うるせえっ、好きだから好きで好きなんだよ、悪いか!」
 なにが悪いって、自分がひどく、格好悪い。
「悪いですよ」
 ため息のように呟かれた言葉。きっと、こんな情けない自分に対して呆れているのだろう、そう思ったら、俯いたままの顔を上げることなどできなくて。
 なのに。
 伸びてきた八戒の白の右手だけはなぜかはっきりと見て取れた。ゆうるりと弄ぶように、髪を滑る感触だけはしっかりと感じた。
 もう片方の手が伸びて、引き寄せられた強さだけは。
「僕は、いっぱい挙げられるのに」
 理由なんて。
「簡単ですよ。悟浄の全部が」
 好きで、
「欲しいんですけど?」
 包み込むように纏わる温もりに安心すること。情けなさなんて吹き飛ばしてしまうそれが月光に晒され続けて冷え切った身体の奥を、痺れのようにじんと温めてゆく。
 泣くかも。
「お前のほうが、ずりいじゃんかよ」
 緩んだ芯を支える強さに身体を預ける。拗ねたように呟いた言葉は子どもみたいな響き。
「当然」
 笑んだ声音で。
 だって僕のほうがそう仕向けたんですから。
「あなたから言ってもらえるように」
「最低」
 笑ったのだろう、揺れた身体が悟浄の側にもすべてを伝える。
 不似合いに高鳴っている八戒の心音が、自分だけが陥っているのではないということを克明に伝えてきていた。

(20030917)(20070902改定)
どっちが告白するかで私の中のふたりがすこしもめた。
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