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「そういえば今日、誕生日でしたっけ」 今日という日ももうそろそろ終わろうかという時間、キッチンで明日の下ごしらえを済ませたらしい八戒がなんの気なしに呟いた言葉に、悟浄は眺めていた紫煙から視線を逸らせてそちらを振り返った。ソファの背もたれにそっくり返って逆さまに見える八戒の姿はいつもそう、なにを考えているのかわからない。 そっくり返ったまま考える。誕生日? いつだったか、八戒の誕生日にも同じような遣り取りをした覚えがある。今と同じように紫煙を眺めながら考えて、今と同じようにひっくり返ったまま八戒を眺めて。そのときは確か、「俺の?」と訊いたのだったか。そして間を置かずに「僕の」と返された。自分の誕生日をこうも簡単にそういえばと言ってしまえる根性に脱帽した、はずだった。 だから今回は。 「お前の?」 「悟浄の」 ふーんと唸ってから。 悟浄は吸い込んだ紫煙を肺に流し込む前に思い切り吹き出した。 「お、俺の?」 むせながら訊く。 「そうですよ、他に誰がいるんですか」 水仕事を済ませ濡れた手を拭きながら馬鹿にしたように八戒は言った。 言われるまでは忘れていたけれどそういえば確かに今日は自分の誕生日だった、かも知れないけれどしかし自分ですらうろ覚えのことをどうして八戒が知っているのだろうかとかいつの間に話したのだろうかとかいや、自分は一言も今日が誕生日であるなんて言った覚えはないのにどうしてどうしてどうしてとか。 「自分の誕生日も忘れてるなんて馬鹿ですね」 いろいろ考えることが多すぎてうろたえていることなど気づきもせずに八戒が言葉を続けてくるものだからそんな疑問などどうでもいいように怒りのほうが上回ったりもする。 だからなんでお前がそれを知ってんだよ。大体、出だしが八戒自身のときと同じだ。誰の誕生日でも同じなのか、だったら三蔵でも悟空でも同じように言うんだな、わかった、今度からは気をつける、誰の誕生日でも、一発で当てられるように。 「聞いてるんですか」 相変わらずに気配を消して近寄ったらしい八戒が背後で呟いた。いつもより数倍ドスが利いたような声音に思う。 っつーかなんでお前が怒るわけ? 「聞いてますけど?」 八戒の口調を真似て憎たらしく言い返せば「耳までボケたのかと」とかなんとか嫌味を突きつける八戒に、どうして自分の誕生日にまでこんな扱いを受けなければならないのだろうかと不満に思う。 別に祝ってもらいたいわけでもないけれど。 大体、自分が生まれてきたことになんか意味はない。卑屈になっているといわれようがそれは紛れもない事実だ。 自分が生まれたことで失われた幸せという名の無形物を思うと、祝われてもそれは偽善でただの社交辞令でしかないと思えるから。そしてそんな皮肉なことを考える自分もいやだ。 そんなふうに思わせる誕生日なんて。 「で、」 思考を振り払うように気を取り直して八戒のほうに身体ごと振り返った。 「で?」 「優しい八戒さんは一体なにをしてくれるのかしら?」 いまだ皮肉に引き攣った笑いを貼り付けた表情で睨むように見た八戒はさっきのドスはどこへやら今の自分と違って穏やかに微笑んでいた。まるですべてわかっているからと言っているような表情で。 「そうですねえ。生憎とプレゼントもなにも用意してないので」 その表情のまま思案をめぐらす声でそっと腕を伸ばしてきた八戒の手のひらの重みを感じた頭が重力の重みと相俟って簡単に悟浄を項垂れさせた。赤の髪を優しく滑るように流れて撫でる手のひらが穏やかで。 この髪のせいなのに、この髪のおかげなのだと、意味もわからず思った。 「生まれてくれて、ありがとう」 降ってきた言葉にすらも。 皮肉な自分が流れて溶けてゆくように。 「これで、どうですか?」 にこりと笑んだ顔が容易に想像できる蕩けそうな声で八戒が訊いてきて。 「…おまえそれ、お祝いじゃなくて感謝だろーが」 「あ、そうですね」 咽喉を震わせて笑った声が流せないままの涙を誘った。 「悟浄?」 いつまでも顔をあげない悟浄に訝るでもなく名を呼んで、撫でる動きを止めた八戒になんと返していいのかわからない。「ちょっと、待て」と情けない声で言うしかできない。 だって、今の自分はきっと、本当に情けない表情をしているから。 「なんでですか」 「いいから、待っとけってっ」 不躾に覗き込もうとする八戒から逃げるように顔を背けていつの間にか燃え尽きた煙草の薄く漂う残り香を深呼吸とともに吸い込んだ。 こんなの、変だ。 おめでとうよりも嬉しいなんて。 「悟ー浄」 「放せっっつーの!」 後ろから抱き付いてきた八戒がいつもよりも暖かく感じて。 「放せよっ」 「嫌ですー」 このときばかりは、八戒の底意地の悪さに感謝をしよう。 我がままで子どものような自分を受け止めて抱擁してくれるこの温もりがいつまでも傍を離れないでいてくれることを本当に、切に願った。 |
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