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午前中狂ったように降った雨など欠片も見えないほど、夕暮れの空は澄み切って晴れていた。流れる雲の形も遠く飛ぶ鳥の形も、はっきりと明示するほどの広さと確かさで悠然とそこにある空の、まぶしさで目が眩む。 赤とオレンジ、金と白、どこにどんな色があるかもわからない不思議な光を見ていると先ほどの鈍い色を放っていた雨が嘘のようだ。 光も影もなにも見えない豪雨を家の中で見ていてもうっとうしいだけなのにカーテンを閉めても音ばかりが耳についてわずらわしくて、窓際で見るともなしに雨の流れを目で追っていた。そろそろと小銭も尽きてくるころだったので賭場に行かなければならなかったのだけれど、濡れるのを覚悟してわざわざ外に出て店に行ってもどうせこれでは開店休業だろう、と決め付けて布団に籠もって。 それなのに気づけば雨雲も涙雨もなく空は耀いている。 まったく気まぐれな天気だ。 そう思いながらも晴れた夕暮れに惹かれるように外に出て煙草を吹かしている自分にいささか苦笑を禁じえないけれど。 裏腹な天気をその広さいっぱいに抱えた空が、なぜか悟浄にはいつも笑っているように見えるのはなぜだろう、と思いつつ。 「広ぇ」 我が家の、決して広いとはいえない庭に佇みながら空を見上げて呟く。白い煙に隠れながら乱反射する光が目に刺さるのも構わずに。 遮るもののなにもない視界に広がるそれに手を伸ばして、案外と近くにあるように思えても届かないことの不思議さと、指先だけでもなにかに引っ掛かりはしないかと希望する得体の知れない感覚は、子どものころに味わった切ない気持ちと似ている気がした。あの、届かない思い。 「嫌になったり、しないもんかね」 雲と風と気温と湿気と、気分屋で我がままなそれらを抱擁するがごとくたおやかな夕暮れを眺めながら思う。どうしてそんな風に笑っていられるのだろうか、抱き締める腕に気づかずに勝って気ままに泣いたりする雨と怒ったりする風と、雲と太陽と。 自分ならきっと耐えられない、追い出そうとする。どこへでも行け、遠ざかれと憎らしくも切なく思いながら、そう突き放すだろう。 そう、あのころの自分はそうだった。耐え切れず蹲ることしかできなかったから。 庭に中途半端に突き出した石に腰かけて。雨に名残に微かに濡れている、それ。 「するんじゃないですかね」 背中で声がする。いつもみたいに酸素が漂うほど小さな気配で当たり前にそこにあった彼のたおやかな存在感。 いたのか、とも牽制することなくつがれる言葉を待つ。 「僕だってむかつきますから」 振り返って見詰めたらあちらも視線を注ぎながらそう言われた。 「…誰によ」 「もちろん、」 言いかけて、はぐらかすように視線をこちらに向けたままくすくすと笑みを流す八戒に小首を傾げながら、なにが、と訊いてもやはり答えは返されない。ただ優しく笑むその顔がなんだか。 「いいんですよ」 自分の中で答えが出る前に彼がそう呟く。 「いいんです」 「だから、なにがよ」 言い募ってもやはり返されない答。ただそのたおやかな存在感のまま、いいんです、と。 「…」 穏やかに見詰める彼の緑玉を不思議に見ながらふと思い出す。 そう、あのころの自分も。 泣いて喚いて、あまつさえ殺されそうになっても。 なにか、なぜか、許せていた。 そうか。 「いいのかもな」 つぶやきながら空を見詰めた。隣で八戒が、同じように空を見詰めている。 空の、抱える理由はわからなくても、それでもよいのだと言えるなにかがきっと、ある。 それはきっとあの頃の自分が思っていたなにかと同じものなのだろう。 だから、それでいいのだと。 |
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