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寒い夜には決まって抱き締めてくれる。 こんなにも安堵を覚える温もりなんてきっと、彼以外にはほかに見つけられない。 今年は冬の到来が早い、気がする。単に自分が寒がりだからかとも思うが、まだ十一月であるというのにテレビの予報やなんかで「本日は全国的に小春日和になりそうです」などというあからさまに冬を提示する言葉を聞くと、やはりこの寒さも全国的なものなのだろうと思うのが当然だ。 寒くなると外に出るのも億劫で、この時期自分は引き篭もりがちになる。外の空気は吸いたいし馴染みの酒場に飲みにも行きたい。しかし春や秋よりも幾分どころか万分、億分も遠くなったように感じる酒場までの道のりをこの寒さに耐えながら歩いてゆくというのは、目的地へと着いたその後の楽しみよりもそれこそ万分も億分もつらいことのように思えるのは気のせいだろうか。それとも単に出不精な自分のせいだろうか。 「…なにしてんですか」 「んー」 哀しいかなこの数年と数ヶ月ですっかり自分の定位置となってしまった窓際でぼんやりと物思いに耽っていた悟浄に、いつものように洗濯を終え一服しにきたらしい八戒が声をかけてきた。 悟浄の薄汚れた指先を興味深そうに覗きこむ視線が纏わりついて。 「見てわかんない?」 灰皿を見詰めたままそんな風に言えば、わからないから訊いてるんですけど、と相変わらずナメた口調で小ばかにしたように言ってくるのに可愛げのないのはお互い様だと知りながら、可愛くねぇ、と笑いながら返す。 「教えて欲しいときはなんて言うんだっけ? 元先生」 「…」 ナメた口調をそのまま真似て返してやれば苛立っているのだろうか沈黙に棘を含んで差し出してくる八戒が、可愛くないですね、と不機嫌に言うのに笑みの濃くなった口元でハイライトを燃やした。最近気づいたことだ、彼をからかうのは意外に面白い、ということ。 (ある意味命懸けだけどな) 吸い込まれるたびに長くなってゆく当然に哀しそうに焦げた音を残して先がぽろりと零れ、灰に塗れて煤けた指先に重なった。 「なにをしてるか、教えてくださいませんか」 さらに笑みが深くなる。謙った言い方がここまで似合わないやつも珍しい。これで元教師というのだから笑わずにはいられないだろう。もしかしたら自分が謙って教えを請うのが嫌だから教えを諭す立場になったのかもしれないなこいつは。 「にやけてないで答えてくださいよ」 これも最近気づいたことだが。彼は気になることがあるとその場で確認しないと済まない質らしい。好奇心旺盛というより彼の場合は神経質といったほうが正しいかもしれない。しかも妙な部分に関してだけ意固地に知りたがる。自身はといえば徹底した秘密主義のくせに。 「俺、にやけてる?」 「気持ち悪いほどにやけてます」 「むかつく」 にやけ顔で言っても説得力のない罵詈を吐いて汚れた手元を持ち上げてみた。手に纏わりつかずにはらりと落ちる灰の残滓がそれよりも小さい埃のような粉を舞わせて灰皿へと落ちてゆくのを、普段であればカーテンを開け放したままの窓から差し込むはずの陽の代わりに昼間から灯された電灯がきらりと反射させた。 曇天の重く圧し掛かる窓の前にかざした空と同じく薄灰色に汚れた指先を眺めながら。 「灰、潰してる」 「そんなの見りゃわかりますよ」 自分と同じように、多分彼の目もこの薄汚れた手指を眺めている。視線の気配がそう語っていた。 「だからわかるって言ったろ」 八戒のほうに振り返ってわざと見せ付けるようにほれ、と手のひらをかざした。曇天と同じく灰色の天井にも混ざりそうなくらい汚れた指先。こうやって見るまで気づかなかったけれど八戒にかざした手のひらの反対、手の甲まですっかりと煤けてしまっていた。 「普通、なにしてるんです、って訊かれたらその行動の目的や理由まで話すもんですよ」 「理由なんかねぇな」 「…あ、そ」 こちらのはぐらかすような態度に呆れたか諦めたか、気の済んだ様子で溜め息をついてキッチンへと去ってゆく八戒の後ろ姿と指先を交互に眺めて、また視線を窓に切り取られた空へと向ける。 晴れのあいだは伸ばした手など届かないくらいに高いと感じる空もいまは重い雲が折り重なるようにしていて随分と低く感じる。この灰色をした指先でも伸ばせば簡単にその雲と同化できそうだ。薄灰色の雲がこの指先を見たらきっとその重くて柔い手綱でも下ろしてくれるのではないだろうか。地上に落ちてしまった仲間を空へ釣り上げる。 「なんてな」 「なんか、機嫌よさそうですけど」 柄にもなくロマンチックなことを考えてしまったことを笑いながらそう呟いた声に、刺々しい八戒の声が温かそうなコーヒーの香りとリビングテーブルの椅子を引く音と一緒に聞こえてきた。こちらは不機嫌なのに、とでも言いたげな皮肉を含んだ言い方だ。どうやらまだ気は済んでないらしい。ここでまた生意気な口を利いたら言葉の棘が、今後は皮肉などというものに包まれることなく、直に刺し込まれることになるのだろう。わかっていて八戒をからかい続ける気は更々ない、ので今度は理由もくっつけて答えてやる。 だんだん、彼の扱いに慣れてきた自分に苦笑しながら。 「んー、雪が降るからじゃね?」 自分のことなのに訊いてどうするんですか、と怒られそうな口調で最後に疑問符をくっ付けたら案の定思ったとおりのことを言う八戒にもうちょっとボキャブラリーを増やしたほうがいいぜ、なんて内心指摘しながら苦笑ではない笑いを漏らした。 「雪、好きなんですか?」 好きと言われればそうではない気がしてくる。 「いや、嫌いだけど」 「嫌い?」 そう言われれば嫌いじゃないような気もしてきて、あーたぶん、と曖昧に誤魔化したらなんですかと怒られた。 「だって寒いから、ヤじゃん」 寒いの苦手だし。 灰皿の中身を漁って潰し残した塊はないものかと探したら粉々になった灰の山から小さな小さなそれを見つけた。どうやらそれが最後の一塊らしい。 「子どもは風の子ですよ」 「…俺、立派な大人ですけど」 「ガタイだけじゃないですか」 「下半身だってそうよ」 「僕より小さ」 「黙れ」 力を込めて制したところで灰の最後の一塊が握り締めた手の中でぽろりと崩れる。 こいつはまったく、そのお綺麗な面でそういう下劣な台詞を吐くんじゃない。 溜め息を手のひらで隠そうとしたらそういえば手が汚れていることに気づく。このままじゃ八戒を殴ることもできないかと立ち上がって灰皿片手にキッチンへと足を向けた。 リビングテーブルの横を通るとき八戒の淹れてくれたらしいコーヒーの湯気をが温かさを運んだ。早く洗わなければ冷める。 「雪、ですか」 背後で呟く八戒の声が聞こえる。 「八戒は?」 「はい?」 「雪」 単語で問いかけないでくださいよ、と文句を言いつつも思案するように唸る声が聞こえる。そんなに考えることかと思うほど唸っているのでとりあえず灰皿の中身をゴミ箱に空けて肝心の手を洗う前にふと八戒のほうを振り返った、ら、当然のように背後に忍び寄っていた彼がにやけた顔で唸っていた。 そのまま灰塗れの手を捕まれて引っ張られる。 「僕は結構好きですよ」 そう言って抱き締められる腕の温かさに毎度思う。抱き締められてこんなにも安堵する腕なんて、八戒の他に見つからない。 「こうやってくっ付けるし」 「お前は、またそれか」 溜め息なんてつき飽きた、けれどそれ以外にこの呆れを表現する方法が見つからなくて、それと一緒に言葉をぶつける。このいまだ灰塗れの手のひらで殴ってやろうかとも思ったが彼の綺麗な顔が汚れてしまうのが嫌でやめておいた、のに、その顔が灰で汚れるところを想像したらなんとなく興奮するのもおかしな話だ。 「あれ、あったかくありません?」 「精神的には非常に寒い」 複雑な心中を誤魔化すように呟いたらひどいな、と言いながら体重を押しかけてくる八戒の重みに潰されるように自然に脚は折れてゆく。がさがさと耳障りな音で流し下の収納棚に髪が擦れて散らばった。 「コーヒー冷める」 「また淹れてあげます」 「汚れっぞ」 「見りゃわかりますよ」 「あ、そ」 生意気な奴。 先ほどまではこちらがリードを取っていたはずなのにいつの間にか形勢逆転だ。もしかしたらからかわれる振りでもしていたのかと疑ってしまいたくなるような艶やかでふてぶてしい笑顔が暗い室内で浮き立っている。 コンクリートや灰にも混ざらない緑色が綺麗。 「…、」 笑みが引かれたまま被さる口元に自然と落ちそうになる瞼を、薄くではあるがなんとか開けたまま八戒の目を見詰める。同じようにこちらの目を覗き込んでくる八戒の手のひらが厚着した衣服と引き締まった素肌のあいだをからかうように撫でて、持ち堪えていた瞼が一瞬で、落ちた。 満足げに放された口唇が熱い息を吐く。 「あったかくなりました?」 「…熱くなりました」 熱いと言いながらなんとなく寒さを凌ぐように身体を摺り寄せたら機嫌のよい音で笑う声が聞こえた。 こちらが不機嫌なときは八戒の機嫌がよくなる、いたちごっこのようなからかい合い。 「やっぱり僕、雪好きですね」 「俺は嫌いになりそーです」 言いながらも、まあいいかと諦め気味の心中。 どうせ今夜も出かけられない、寒い夜には出かけられない。だってこの腕の温かさを感じられるのはこの寒い夜だけだと思うから。 もういっそ、この手にこびり付いた灰のようになってしまえるほど熱くしてくれればいい。そうすれば燃え尽きて空に帰れるのに。 でも優しく纏わるこの温かさは燃え尽きるには少し足りなくて、逃げるには惜しいほど気持ちがいい。ただ焦がれるばかりの熱量なんて、少しばかり残酷だな、なんて思うけど。 「八戒、」 「はい?」 「俺が寒がりでよかったな」 だんだんと熱が増す。額にかいた汗が頬を滑ってくすぐったくて、それを拭う振りをしながら熱に潤んだ目を隠した。 「なんでですか?」 そう訊いてくる八戒に答えようとしても声がうまく出ない。掠れた息が高い音で咽喉奥から吐き出されて、せめて喋るあいだだけでもその手を止めてくれれば、と汚れた指で八戒の手首を掴んだけれどなんだかまったく意味がなかった。駄目だ、力が入らなくなってきている。 焼けて渇いた咽喉がひくつくから何度も唾を押し込んで。この咽喉を潤してくれるのならば冷めたコーヒーでもなんでも構わない。 「大義、名分」 途切れ途切れにそう、告げて。 「…なるほど」 「礼は?」 「それはこれから、たっぷりと」 「…できることなら、遠慮したい」 「人様の好意は素直に受け取るもんです」 好意という言葉を辞書で引いてもらいたいような台詞だ。元教師のくせに言葉の使い方をまったく悟っていない。それともわざとだろうか。 「悪意、だろ」 そんな風に嫌味を言いながらもこの温もりに安堵している自分を、彼はたぶん見抜いているはずだから。 「悔しい」 八戒の笑い声が重い曇天の中で軽やかに響いた、それに目眩。 これだから悔しい。 「悟浄のほうこそ、僕がこうやってくっ付くのが好きでよかったですね」 「なんで?」 「大義名分」 言い返そうと口を開いたところさせまいと強く擦られて思わず高い声が漏れた。瞼の裏にちらちらと火花が見える。 熱い。 「あつ、い」 そう言いながら吐き出した息も冬場とは思えないほどに熱い。今度こそ灰になってしまいうのではないかというくらいに攻められて、もしかしたら今度は自分が灰になって彼に潰される番なのかと思案した。それはそれで幸せかもしれない。 身体の奥から燃え上がる火に炙られてじりじりと焦がれて、煙草のように。 瞼に被せていた灰色の手をそっと剥がされた。寒さではないものに震える瞼をうっすらと開ければ、八戒の面は自分の汚れた手のひらとは比べ物にならないくらい白くて、燃えている様などこれっぽっちも見受けられない。悔しいので灰にまみれた指先を彼の頬に滑らせた。汚れた彼の顔は先ほど想像した容よりもよほどぞっとする。 そのまま襟首を掴んで引き寄せ、口唇を重ねた。 「なに、考えてます」 なんか。 なんだろう、なんか。 混乱し始めた思考を押し留めて薄く微笑んだ視界の中で、こちらも微笑んで返してくる八戒の顔が拉げて見える。 「八戒、」 焦げ臭い息で名を囁いて気づいたそれ。 ああそうか、お前のことしか考えてない。 お前のことしか考えられない。 「悟浄」 自分もそうだと言われるように名を呼び返されて。 そして互いに燃え尽きるまで、貪りあう。 |
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