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シ ケ モ ク

「ねぇ悟浄、」
 夜も更け、真丸い月が中空にかかる。食事を終え一日のなかで一番うまいと感じる煙草に火を点け、一日のなかで一番ゆったりと寛いでいられるであろうときに、リビングでテレビを観ていたはずの八戒が突然声をかけてきた。ダイニングテーブルのほう、点火したばかりの煙草の煙をいままさに肺いっぱいに吸い込んだところの悟浄は、呼ばれたことに驚いて思わず咽る。
 普段のこの時間であればお互いにあまり干渉せず、個人、自由な時間を過ごしているのだから、不意に八戒に呼ばれたことに悟浄が必要以上に驚いたことも肯けるのだが。
「やだな、そんなにびくびくしないで下さいよ。可愛いから」
「お前、マジ死ね」
 自他共に認める悟浄馬鹿の八戒には、悟浄のそんな仕草さえも可愛らしく見えるらしい。大の男、しかもどう見てもガテン系に分類されるであろう悟浄に向かってそんなことが言えるのは世の中広しといえどもこの男しかいないだろう。
(…なんてことは知りたくなかったかな)
 などと悟浄が胸中で思いを巡らせ、ひとり涙を流していることなど知らず、八戒は用件を切り出した。
「煙草、やめませんか?」
 八戒は煙草を吸わない。
 対して、八戒と出会ったころすでにチェーンスモーカーと化していた悟浄は、一日にふた箱ぐらいは軽く空けてしまう。それなりに重い種類の銘柄を吸っているはずなのに満足できないのは、比較的幼いころから吸っていたために身体が慣れてきてしまっているからだった。
 そんな悟浄に、いままで煙草の処理の仕方に文句をつけてきたことはあっても、決して「吸うな」とは言わなかった八戒がいまになってどうしてそんなことを言うのだろうか。
「なんで?」
 理由も聞かずに、はいそうですかとやめられるわけもなく、というかもとよりやめるつもりなどまったくこれっぽっちもないのだけれど、八戒がやめろという理由が気になって悟浄は訊いてみた。
「部屋が臭い咽喉が痛い部屋が臭い目に染みる部屋が臭い部屋が臭い」
「お前ね…」
 捲くし立てるように即答してきた八戒に怒りと呆れと、それらを軽く上回る疲労を感じながら悟浄は深いふかいため息を吐いた。どうしてこの男はこんなにこんななんだろう、などと訳のわからない疑問に頭を悩ませ、微かに頭痛を兆し始めた米神を両手で覆う。まったく、答の出ない疑問ほど質の悪いものはない。
(ってか、いちばん質悪いのはこいつだこいつ!)
 胸中で思い切り叫び、ソファに転がる八戒を睨もうと視線を送ると、いつの間にかすぐ傍に八戒が佇んでいた。びっくりしてまたも煙を噴き出す。
「だから、そんなに驚かないで下さいってば」
「じゃあ、驚かすんじゃねぇよ」
 煙の苦さに涙眼になりながら睨みつけた。気管に入った煙を咳で追い出す。
 長く落ちそうになっていた灰を、先ほど空けた灰皿代わりのビールの空き缶に落とす。
 と、八戒の視線が気になってちらり、と上目遣いで覗き見た視線の先で、案の定、にこやかな笑顔の下に怒りを宿して八戒が言った。
「空き缶を灰皿にしないで下さいって、僕、何度も頼みましたよね?」
 背中に雷雲が見えた。
 すぐさまキッチンに駆け込み、空き缶を捨て、代わりにきちんと磨かれた灰皿を持ち帰ってきた。椅子に背筋を伸ばして座りなおし、恐るおそる八戒を見た悟浄は満足そうなその顔を見てほっとしたのも束の間、ふとある言葉が浮かんで非常に虚しくなった。
 飼い馴らされている。
(どこぞの馬鹿猿じゃあるまいし)
 某最高僧にペット扱いされて牙を剥いている某少年を思い出し、自分の今の状況を彼らが見たらいったいなにを言われることだろうかと不安になる。笑い飛ばされるか、一生からかわれ続けるかはたまた、それをネタに強請られるかも知れない。なんにせよ自分の恥にしかならないことは確かだ。
 そんなことを考えながら、癖のように次の煙草に火を点けようとすると、突然八戒にその手を掴まれた。
 本日三度目。
 煙が気管に入ることは免れたものの、咽るより質の悪い生理反応が悟浄を襲った。
 血管が収縮する。心臓がばくばく言ってる。
「…なんだよ」
 出した声が震えた。身体が火照っているのがわかって、掴まれた手首から熱が伝わってしまわないか不安になった。
 やばい。
「だから、」
 八戒が言う。
「可愛いって、悟浄」
「ば…」
 浴びせようとした罵声はすべて八戒の咽喉の奥へと吸い込まれていった。被さる唇口は抗うことを許さない支配力で悟浄を包んで。
 自然にきつくつむった赤の目が柔らかく閉じた形になるまでゆっくりと接吻けを交わし、そしてまたゆっくりと離れていったその温かさと、濡れた感触。
 乱れた息を不思議と心地よく感じる。
「キスも苦いですし」
 甘い余韻と微かな名残惜しさに浸っていた悟浄に、八戒が言った。なんのことかわからず首を傾げると、八戒が、いつの間にか落としていた点火していない煙草を指差した。
「だから、やめて下さいね」
「…死ね」
 精一杯の雑言。それすらもあっさりと受け流し八戒は転がった煙草をごみ箱に投げ捨てた。
「これで最後でしたよね?」
 相変わらずのにこやかな笑顔で八戒は言った。
 鬼だ。
「また買ったりしたら怒りますよ」
 捨て台詞を残し「お茶でも淹れますか」とキッチンに消えていった八戒の後ろ姿を見送った悟浄は、心に、吹き荒ぶ生温い竜巻に自分が捲かれている様子をイメージしてがくりと項垂れた。心地よいその竜巻から抜け出すことができる日はいつになるのだろう。
(もしかして、一生無理ってやつ?)
 空笑いに乗せて涙を流した。八戒の風に流されて、自分はいったいどこまで行くのだろうか。
 なんにせよ。
 この男には、一生かかっても勝てそうにない。



 余談だが、悟浄の禁煙は三日と持たなかったらしい。
 彼は、怒った八戒にどんな仕置きを受けたのか。
 それは、また、別の話。

(20030726)(20070902改定)
悟浄にひたすらかわいいといいたくて書いた。
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