←戻 |
暑い、暑い、暑い。 どうして夏はこんなに暑いのか、無意味だろう暑くたって、水は枯れるし作物も枯れる。人だって枯れちゃったらどうする、正直種なしはつらい。 「なにくだらないこと言ってんですか、うるさいですよ」 暑さにかまけて口元が緩んでいたらしい。脳内崩壊中の独白が漏れた口唇はひどく乾いていて、笑ったらたぶん皮が裂けるだろう。舐めても舐めても湿った感じのしない口唇を無理に動かして悟浄は声のしたほうに向けて掠れた音を出す。 「あつい」 正直ちゃんと声になっているのかどうかもあやふやだ。涸れた咽喉は昨夜の情事の後遺症も伴ってひどく掠れている。自分の耳に聞こえた声音はまるで他人の声のようで、今ならばきっとどこぞにいたずら電話をかけてもばれないだろう。 「やめてくださいよそんなこと」 渇きなど感じさせないほど冷たい八戒の声。どうやらまた独白が漏れてしまっていたらしい。意識としては声を出すのもつらい状態だというのに身体のほうは喋っていたくて仕方ないようだ。喋って、このうだるような暑さを少しでもやり過ごしたいのか。 「あついんだけど」 「知ってますよ」 なんだろうかこのやたら涼しげな声は。普通、体温が低いやつというのは暑さに弱いはずじゃないのか? 俺は高体温、コイツは低体温、ならば必然的に弱るのは八戒のほうじゃないのか? なのにコイツはやたらと平然且つ冷静且つ冷たい顔してやがっていや待てよ、蛇やなにかといった爬虫類系は気温に合わせて体温を変えるといっていたか、では八戒の体温は今この気温と同じくらいで俺よりも断然高いというこ 「そんなわけありますか」 今日は、口のネジが少し壊れているらしい。 「なんでお前、涼しげ?」 「そりゃ、我慢強いですから」 「俺は我慢弱いってか」 ぶつくさ文句を垂れながら、そっくり返っているソファからなんとか腰を立て直し(昨夜の後遺症だこれも)、ガラス製のローテーブルの上に置かれたエアコンのリモコンを取った。 電源を入れた途端勢いよく稼動する。機械臭い風が、顔に当たって気持ちいい。 「温度下げすぎ。でんこちゃんに怒られますよ」 背後でまた声がした。そういえば八戒はいまなにをしているのだろう、夕暮れ少し手前の時間、いつもなら夕食の買い物にでも出かけていそうなものなのに今日はなぜか家にいる。なんで出かけないのかなんて訊いてもきっと答えてくれないだろうけど、大方暑いからとか日焼けするからとかそんな子どもっぽい理由なんだろうな馬鹿め。 「なんか言いましたか?」 「いーえー?」 はぐらかすように笑ったら文庫本が飛んできて角がつむじに当たった。痛い。 「ってかでんこちゃんて誰よ」 ソファに落ちた文庫を拾ってぱらぱらとページをめくる。なんだか恐そうな描写だ。ホラー小説? 夏だからって。 「まあ、みんなの地球を大切にってことですよ」 台所にでも立ったのだろうか、声が遠ざかってグラスの触れ合う音がする。ビールよろしく八戒さん。 「じゃあまずはおまえ自身が消えないとなあ」 腹の中で注文をつけながら口ではひどいこと言ってんな俺。まあいいや、どっちも聞こえてんだろうし。 開き直りとはこういうことだというような見本を見せ付けて、暑さをやり過ごすための軽口に乗じる。 八戒との遣り取りはこれでいてなかなか面白い。お互い一歩も引かないジャブの応酬が留まることを知らないままに乱れ飛ぶ。ガードしてかわして、なんとか相手の隙を突いてノックアウトまで持ってゆくのだ。ひとりでいるときには気づかなかったかもしれないそういった言葉の楽しみ方を感じさせてくれる彼がひどく、愛しい。なんてことまでさすがに口には出さないけれど。 「なんで?」 沈着に訊いてきた八戒に、緩んだ口元を呪った。一瞬焦ったがしかしそれは先ほどの「消えないと」に対する質問であって決して「口には出さない」に対してではないのだと、今までの流れから察するにそう理解する。だってきっとそうであったら、返ってくる言葉は「気持ち悪いですよ」だ。 「いるだけで、有害」 思考を会話にはさまないように注意しながら言葉を選ぶ。この瞬間が楽しい。 「そんなこと言ったら拾っちゃったあなたも同罪ですけど」 いつもはグラスの音なんて耳障りなだけなのに、こう暑いと澄んだその音が心地好く聞こえるから不思議なものだ。風流とやらを妙に実感する。今度は風鈴でも買ってみようか。窓辺にたれる涼しげな音色に包まれて眠るのも悪くないかもしれない。 「俺は、いるだけで世界に華を添えてんだよ」 氷でも入れたのだろうか、からんからん、と音が散った。 「匂いは強烈ですけどね」 冷蔵庫のドアがそろそろいかれてきている。旧型のそれは野菜室が一番下にあるのだが引き出しタイプの車輪の部分がどうも絡んでしまっているらしくて開けるのも一苦労だ。一度思い切り引っ張ったら巨大な大根が飛び出してきたことがあった。八戒曰く「コツがあるんですよ」とのことなのだが何度教えてもらってもそのコツをマスターできない。最近ではビールを出すのも面倒ですべて八戒に任せきりで。上の扉のほうに入れたら八戒が「邪魔」と言い腐ったのが悪いんだから、と言い訳をして。 「なに臭いって?」 ビールのプルトップを引く音がして、発泡の飛び散る様が目に見えるようだ。早く飲みたいと咽喉が鳴いた。 「イカ的ななにか」 端的に言う八戒の足音が聞こえてくる。わざわざスリッパなんか履かなくても、毎日自分で綺麗に掃除しているのだから素足でいたって埃ひとつつかないだろうに。見ているこっちが暑苦しいからやめて欲しい、と何度も言ったけれどまるで嫌がらせのように履き続けている彼はまったくもって八戒様だ。 「てめえもだろ」 寝転がって安定していたら腰の後遺症など忘れてしまっていたみたいだ。八戒がガラステーブルに置いたグラスを手に取ろうと起き上がったら鈍い痛みに襲われた。無理させすぎなんだよ馬鹿。 「僕はジャスミンです」 汗をかいたグラスが涼しげで、飲むのも躊躇われるくらい綺麗だ。持った手元から伝うひんやりとした堅い感触に手放してしまうことの惜しさを思う。まあいいや、飲み干したらまた八戒に注いでもらえばいい、そう思い直して一気にあおる、その前に。 「嘘こけドリアン」 会話を続けるのも忘れない。 「その匂いにメロメロなのはどこの誰ですか」 背後の八戒もまたなにかをあおったあとなのだろう、少し息切れた吐息が漏れるままにからかう音色を混ぜて言い返す。八戒の飲むなにかの、氷がとけて滑ったらしい。小さく鳴る音。 「そのまま返す」 この一杯のために生きていると言っても過言ではないほどに、真夏のビールは最高だ。暑い最中に飢えた咽喉を満足させるには水やお茶、などといった柔らかさでは物足りない。勢いよく流し込んで、食道を滑り落ちるときに微かに引っ掛かる刺激が心地好い。一気飲みは身体に悪いのだろうが、こればかりはやめられない。 「僕は匂いにメロメロなわけじゃないですよ」 「じゃあなに」 言葉の応酬の流れとしてはこう訊ねるのは当然のはずだ。なにか答えを期待してのものではなくて、自然に任せたら出た言葉。だから、八戒の答えなんて予想、していなくて。 「もちろん、」 故意に間を空けた感じが、あとから考えれば本当にわざとらしい。この間のせいで、なにを言うのかと耳をそばだてた自分が間抜けだ。 氷が、また滑って。 「悟浄自身?」 さらりと聞こえたその言葉。 疑問にして返したということは続きを期待しているのだろうけれど。…いや、違うか。これもきっとわざとだ。「返せるものなら返してみろ」、と。 なのに、 「…」 自分は沈黙しか返せない。氷の滑る音、エアコンの稼動する音、それだけが八戒の言葉に反応を示した、そんな安っぽい沈黙だけしか。 続く言葉が浮かばないということは、負けだ。完敗。 「あーいいやもう、なんでも」 誤魔化すように頭をかいた。 「逃げましたね」 「駄目?」 「いえ、」 否定したあと、でも、と言葉を繋げる八戒。この、でも、が曲者なんだと。 「逃げても追いかけますけど」 コイツはずるい。わかっていたけど、やっぱりずるくて。 「逃がしてください」 本当は追いかけて欲しいなんて。追ってくる八戒を想像しただけで幸せだなんて。 「駄目」 その爽やかな笑顔が憎らしいくらい眩しい。白の面に貼りついた黒髪を機械臭い風がなびかせる。それを見ていたら涼しいはずなのになぜか熱くなって、無意識にリモコンに手を伸ばしたら八戒がその手を掴んできて驚いた。また電気代だのなんだのと怒られるのかと思ったら。 「寒いくらいにしてくれれば、」 怒るでもなく、かといって笑うでもなく平然と。 「くっついてきても構いませんよ」 素っ気なく。 「…」 こちらはまたも沈黙を返しながら。 自動運転のエアコンが、温度設定の急な下落に急いで稼動する音が聞こえた。 |
←戻 |