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穏やかに流れる風が気持ちいい。 桜が永々と降り注ぐ中での酒盛りは、なににも代えがたいほどの至福だ。はらりはらり、と薄紅が撫でるよう滑り落ちる様を眺め、時間を忘れる。桜の微か香る匂いに、芳香の強い酒すらも掻き消えてしまう不思議。降り注ぐその残像が、優しく美しく照る陽光を反射させて不自然なほどに撒き散らす耀きの粒子。 綺麗。 手酌など気にならない。むしろ誰かに注いでもらったなら、桜も酒も味がぼやけてろくに味わえもしない。 誰か、などいらない。個人、ひとり。ただ自分だけがいればいい。 至福を味わう。 「美味い、な」 綺麗が美味を醸し出す。 「本当、綺麗ですね」 ふと流れた呟きに意図せず返ってきた声。命の花弁をひたすらに注ぎ続ける幹に預けた背中に流れた涼やかな声音。名など呼ばなくても、誰の音色かなんてわかりきっている。先ほどから背後に感じていた気配だって。 「いたのか」 わざとのように問いかければ、記憶の中声もなく笑う様子が、桜の中に映像として浮かび上がる。きっと、煙草を片手に腕を組んで。 見上げれば、寄りかかっていた幹の反対側からゆっくりと姿を現したその人物は、想像と同じ容。 「またひとり、ですか」 「またひとり、だよ」 穏やかに笑い合う様が似つかわしい空気感。 白衣に流れた薄紅の花弁にゆるりと手を伸ばす天蓬のしなやかな動きが、時を止めるような錯覚でもって静かに動いた。 「邪魔ですか」 訊きながら、それでもさして伺うでもなくそこにある存在は、あるのが当然という雰囲気で静かに。 ただ静かで。 「…さぁ?」 呷った酒に問いかける。 どうなんだろうな。 「わかんねえから、」 「から?」 「そこにいれば?」 「じゃ、遠慮なく」 またふわりと、視界に花弁が舞う。 耳元を穏やかに流れゆく風が、小さく囁いた。 ひとりを感じるにはふたり、いなければ。 美味を知るには不味いことも知っていなければいけないように。 「なるほど、」 「なんですか?」 「知らねえ」 「なんですか」 桜が一片、美酒に浸った。 |
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