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 鬼は外、福は内。
「…ったって、鬼のいない家だってあるじゃんな」
 リビングでテレビを観ながらそんなことをひとりごちれば、口から不規則に煙草の煙が流れ出す。テレビで流れる豆まきの合図がなんだか白々しく浮き上がって聞こえるほど部屋が広く感じるのは、同居人が日々日課としている買出しに出かけているせいか。
 相変わらず八戒が出かけた家の中身は空っぽで、やる気が出ない。居間の空気は滞って、悟浄の吐く煙った息に掻き回されるだけの存在だ。
 淋しいとかではないけれど、どこか物足りないのが本音。
 鬼は外、福は内。
 相も変わらずテレビからは間抜けた掛け声が響いてくる。どこかの祭りの中継だろうか、数人の子どもが逃げ惑う鬼に対して舛に入った豆をこれでもかというほど強く投げつけている場面が先ほどから繰り返し繰り返し流れていた。それと共にまた上がる、先ほどの掛け声。子どもがはしゃいだように豆をぶつける鬼は、無論誰かしらが面を被って演じているだけだろうけれど。まったく感心する。いじめだなんだと騒がれる世の中の割りに、弱いものいじめのような場面をこんなにも堂々と、行事銘打って行なってしまえるその滅裂さに。
 ついでに鬼役をやっている人にも乾杯だ。そんな役をわざわざ買って出てまで痛い思いをしたいなんて。昨今では豆まきをするときに鬼役のほうが人気が高いらしい。主役的立場とでもいうのだろうか、鬼がいなければそもそも成り立たない行司であるからこその人気だろう。そう思えば、意外にも鬼というのはなくてはならない存在なのかもしれない。これもまたいじめられる対象が必要なのと同じように。
 まあ、どうでもよいことだけれど。いじめだなんだと、今更騒ぎ立てる年齢でもなくなったことだし。
「あー、暇だー」
 くだらないことを考えた、と無駄に使った時間を後悔するよりも、くだらないことしか空いた時間を有効活用できない自分に腹立たしい気持ち。ひとりの部屋では声も響いて、さらに虚しい気持ち。
 吸殻を空き缶に入れても怒られることはない、まだ夕刻前だというのに酒を飲んでも、なにを注意されるわけでもない。それが当たり前ではなくなったのはいつの日からだろうか。
「あーあ、詰まらん」
 いっそ玄関の前で体育座りでもして帰ってきたところに思い切りしがみ付いてでもやろうか、とか。
 いまいち自分でもよくわからない思考に割いた時間の終焉を告げるように、玄関のドアが軋みと共に開いた。テレビの音にも消えてしまいそうな小さなものなのに。
 犬みたいに、その音に反応する自分の耳にも、鬼と同じような乾杯を。
「また吸って飲んでますね」
 ああ、帰ってきた途端の嫌味攻撃。
 これだから、飽きない、のか?
「鬼のいぬ間になんとやら、」
「満喫できました?」
「…さぁ?」
 とりあえず無駄な思考の中でただひとつ明確なこと。我が家に豆まきなど必要ないということ。
 鬼がいたほうがなにかと、楽しいわけだし。

(20040301)(20070902改定)
節分くらい鬼をいじめてやろうとかおもわない悟浄。
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