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あのとき失った右目は、実をいえばほとんど見えてはいない。鏡に映った自分の顔も半分だけぼんやりと霞んで見える。 「別になくても支障はないんですけどね」 「なきゃただの穴じゃん」 狭い家の中では扉のある脱衣所やきちんとした洗面台など夢のまた夢で。脱衣所と洗面スペースを簡単にカーテンで仕切っただけの狭い場所で、その薄いカーテン越しに会話を交わす。朝風呂派の悟浄が風呂から出たばかりだから洗面台の鏡も湯気で曇っている、けれどそれは果たして湯気で曇っているのかそれとも単に目が曇っているだけなのかわからない。 「お風呂場のドア閉めてます?」 「開けてますー」 「締めてください、鏡曇ります」 それすらもこんな風に訊かないと判別できないなんて不便極まりない。 「見えてんの?」 「かろうじて」 「ならあったほうがよくね?」 「まあ折角治療していただいたものですからねえ。でも」 あのときぷつりと抉り取ってしまったそれはそのままあの場所に置いてきてしまった。拾って持ってでもゆけば、もしかしたら繋がっていたのかもしれない神経。元の目でまた世界を見ることができたのかもしれないけれど。 別に後悔はない。あれはあの哀れな妖怪に差し出した人身御供のようなものだと思うし。あんなちっぽけな、しかも片方だけでは殺した罪は償えないけれどそれでもあれはもう拾うべきものじゃない。あれは悟能としての自分の生や罪や、すべてを持っていってくれているはずだから。 三仏神の好意から日常生活に差し障りない程度の視力を持った生態義眼を入れてもらった。それは確かにありがたい、そう思う。こうして人並みの生活を与えてくれたことには感謝をしている。 ただやっぱり結局は義眼であって。 「ぼやけて見えるくらいならいっそ見えないほうがいいんですよ」 あなたの色も霞んで見えるから。 なんてなことは言えないから曖昧に、笑いながら「鏡もなんで曇るか判らないし」なんて誤魔化して。カーテン越しならわからないだろう、なんて。 隠し事は得意だ。嘘をつくのなんかにためらう必要はないと思う。だって自分の生は、嘘の塊だから。 この目のようにこの仕切られたカーテンのようにこの曇った鏡のように、嘘という膜のかかった生き物なのだと、自嘲ではなしにそう思う。大体自分を嘲るのなんか飽きたし、「ふーん」とやる気なしに唸る声が聞こえたりするし。納得したのか流しただけか、鼻歌交じりに「そうなんかなー」とか言われるから誤魔化した自分が馬鹿みたいに思えたりするし。 鏡なんて拭けばいいじゃん、とか言われたらどうしようかな。 「知ってる?」 「?」 悟浄の言いそうなことを先読みして勝手に答えに窮していたら鼻歌の延長でリズムをつけながら機嫌のよい声で訊かれた、けれど「知ってる?」だけではなにが、としか答えようがないからカーテンに向けて疑問を浮かべた視線を動かして。 「フィルター掛かってたほうが綺麗に見えるんだぜ」 そう言いながらカーテンを引いて出てきた悟浄は薄く立ち昇る湯気にぼやけて霞んで見える。身体の線が微妙に隠れて輪郭が定かじゃない、のに目の色だけが湯気に負けず光る。 嘘に負けず光った。 「俺も視力悪いけどな、」 頭に被ったタオルが邪魔だ、髪の色が見えない。 「お前の目の色、すげぇ綺麗だと思うけど?」 例えば朝靄に浮かんだ新緑の色。例えば薄い雲のかかった山の色。例えば朝の光に霞んだキッチンの色。 例えば湯気に曇った、彼の赤色。 熱気に蒸されたように熱い様子で微笑む彼は、例えようもないほど目が眩む。 卑怯だ。そんな言葉は予測していない。 「ええと」 想像ではなく現実に投げつけられた言葉に窮している自分がなんだか悔しい、から。 「僕は、口説かれてるんですかね」 慌てて「違う」と口にしようとした彼の手を引いて火照った身体を思い切り引き寄せる。違う、の最初の音が出る前に口を塞いだ。 まあ。 見なくてよいものまで見えてしまうのは、確かにつらいことかもしれないし。 こんな風に言ってもらえる相手が見つけただけでも、この目も少しは役立っているのだろうし。 押さえつけられて必死にもがく彼を可愛いなんて思ってしまうのは、視力のせいだけではないのだろうけど。 まあ、いいか。 |
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