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疲れていた。 はあ、と深いため息を漏らして悟浄は背中に感じていた太い木の幹に寄り添うようにしてずるずると地面に落ち込んでゆく。ここ数日でだいぶ嗅ぎなれた土の匂いを胸いっぱいに吸い込んで。 相変わらず、今日も野宿。 大量の妖気とともに現れる刺客たちのせいで、さすがの三蔵一行の足も停滞気味だった。 十日前の夜中、なんとかたどり着いた小さな町でようやくまともな食事を摂れたと思ったのも束の間、妖怪特有の邪悪な気配を察知した一行はよくよくと惰眠を貪ることも許されず追い出されるように街を出た。それから今日まで、まともな食事も睡眠も許されることはない生活が続いている。暇を見つけては無節操に襲いくる敵をどうにか振り払い、それでも一時の安堵もないこの数日は結構、堪えているというのが本当のところだ。 それでも次に予定している町まではまだまだ道のりは程遠い。…いや、というより、わざと町を避けて歩いているのかもしれない。地図上ではここからほんのちょっと進んだ先に小さな集落のようなものが記してあったはずだ。しかしそれには上から大きなばつ印。以前確認したときにはついていなかったそれ。きっと、自分たちが寄る街では必ず騒ぎがあるから、と考慮したのだろう。まあ予定を立てているのは自分ではないのだから真相はわからないけれど。 そう思って、悟浄はまた、小さい代わりに疲労の色濃いため息をついた。 「疲れてますね」 不意に聞こえた声に、疲労を含んだ身体が小さく竦んだ。背後に現れた気配に聞かれていたかとばつの悪い思いをする。 「いたのか」 そう問いかければ「いました」、とそのままな答えを返す八戒が、気配ではなく目に見える形として現れる。 「疲労困憊、って感じですが」 「まあ、な」 「大丈夫ですか」 そう訊ねる彼だって疲れた顔をしているくせに。 そう、みんな疲れている。自分ひとりが弱音を吐くわけにはいかない。 「大丈夫デス」 言って、気合とともに硬くなった身体を伸ばして立ち上がる。体のあちらこちらで節々がぽきぽきと鳴った。 湿った空気がわだかまるここは小さな小さな森。 見上げる空は木々に遮られて切り絵のようにまろい夕陽を注いでいる。 「あいつらは?」 自分たちにとって「あいつら」と言えば限定的に三蔵と悟空を指す。一緒に旅をしている仲であるというのもそうだが、今まで暮らしてきた中でふたりの共通の友人が彼らしかいないというのも理由のひとつだろう。 「野営の準備。力仕事してくれる人がいなくて怒ってましたけど」 あえて誰がいないからとは言わずに笑いながら皮肉を垂れる八戒の髪を、土臭く湿った風が撫でてさらりと舞った。艶のある黒髪は優しくまろいはずの夕陽を強く反射してくる。眩しいのだけれどここで目を瞑ったらなにかに、具体的になにかはわからないけれどなにかに、負けてしまいそうで悟浄は笑う振りをして瞼を眇めただけに留まった。 「そら、当分戻れねえな」 生臭坊主に銃口を向けられたときにとるポーズをしながら八戒の艶から目を逸らす。刺激された瞼の裏がちくちくと痛んだ。 「お前は手伝い、しないわけ?」 しぱしぱと、八戒の見えないところで疲れた瞼をしばたかせながら訊いたセリフに「か弱いもので」とそらっとぼけて言ってくる八戒の、疲れた声。 「どーこが」 笑い返した声も疲れて掠れた。八戒の艶に焼けたように、咽喉が痛んだ。その痛みに、どうでもいいのに思い出す。そういえば最近、触れていない。 湿り気を帯びた風が纏わりつくように吹いて草木が軽くしなる、その音に眩しさが混ざった。太陽を遮っていた枝がどこかに引っ掛かったのだろうか、不意に視界に真っ赤な夕陽の光が刺さる感覚は八戒の眩しさをどこかへと消し去ってはくれたが瞼の痛みは増しただけだった。 視野の広がった世界に真っ赤な太陽。 薄く雲のかかったそれが雲本来の色を混ぜ返すように耀いているのがなんだか馬鹿馬鹿しく思えた。明日もまた燈るのにどうしてこうも懸命に耀くのだろう、どうしてこうも無意味に瞼を刺激するのだろう。その痛みでもって明日も自分を見てくれとある種の呪いをかけているのだろうか、確かに忘れようもない、刺激的な。 「紅月」 悟浄の思考を遮るように沈む前の太陽を指差しながら唐突に八戒がそう言った。先ほどまでは少し離れた場所にいたというのに、いつの間に隣によりそったのか、なんてことは今さらだろうが、疲れているときくらい素直に移動出来ないものか思ってしまう。 「紅月?」 「沈む前の太陽をそう、呼ぶらしいですよ」 ふーん、と悟浄は唸る。知らなかった。 「お前って、そういう無駄知識豊富ね」 視線を空へとやったまま素直な感想を述べたら無駄は余計ですと笑われる声に思う。いつもの距離のはずなのに無駄に遠く感じるのはこの無駄に燈る夕陽のせいだろうか、無駄に我慢を重ねて触れないようにしてきた日々をやたらと喚起させるのも。 「ってゆうか、」 左の頬に視線を感じた。先ほど太陽が消し去ってくれた痛みを思い出す種類の視線だ。 「悟浄みたいだな、と思って」 だから覚えいたんです。 視線を剥がさず注いだままいつものようにさらりと、まるで独り言のように呟いた八戒の声に、足下の地面が揺れたような感覚を覚えた。地震かと疑うくらいなのに隣の八戒がなにも言わないということは揺れているのは自分だけなのだろう。なにに、誰に揺らされているのだろうととぼけて思っても、見返すことができないままでいる自分には答えなんてわかりきっている。 「お前、そういうのやめろよ」 眼前の太陽に染まった顔色を見られたくなくて俯いて、熱いそれを手のひらで押し隠した。 「なんでですか」 「聞いてるこっちが恥ずかしい」 「わざとですから」 笑う声音に疲れとは違う脱力。 「…だろうな」 諦めとともに呟いた声は疲れと八戒の言葉に焼かれた咽喉ではうまく音にならず、土臭い風に流されてどこかへと消えていった。 またひとつ、強い風が吹いた。さらりと悟浄の長い髪を薙ぎ払ってその一房が今度は嗅ぎなれた土の臭いを色濃く薙ぎ払う。 「痛、」 不意に掴まれた髪が、八戒の指先を鮮明に伝えてきて。 いつも思う、髪を誰に掴まれたって髪がなにに触れたって全然なんとも感じやしないのに、八戒の指先に触れるだけでどうしてこんなにも敏感になるのかと。撫でる動きすら見えているように。寄せられる口唇だって、リアルに。 「土の匂い」 僕と同じ。 耳元で蕩けるほど甘く囁かれてそれだけで不覚にも腰が落ちそうになった。ぎりぎりのところでなんとか耐えたけれど足が不安定に揺れているような感覚は消えない。今なら疲れているから、と言い訳もできるだろうか。ふらりふらりと視界も溶けて夕闇の赤一色に染まりそうだ。それも疲れて焦点が合わなくなっているからと。決して八戒の熱に浮かされているわけではないと。 心の中で言い訳を羅列していたらそれを見透かしたように八戒が笑ったその空気が、風とは違う温みで赤髪を靡かせた。まるで心臓とリンクしたようなその動き。 これは、危ない。 「…八戒、」 「なんです」 「放せ」 「なんでです」 「って、…」 本当に不思議そうに訊いてくるから、本当にわかっていないのかと吐き出す言葉にも迷ってしまう。左を振り向き八戒の表情までも見てしまったらここまで築いてきたものが崩れてしまいそうで恐くてできない、けれどその不思議そうな声をどうのような顔で呟いたのかと見てみたい気もして。でも。 だって、なんの為に今まで我慢してきたのか。 この旅は当然ながら八戒と悟浄ふたりだけのものではないのだ。仲間というものがいる、目的というものがある。恋だの愛だのにかまけている暇などはっきり言ってない。こうしている今だって刺客はすぐ傍で息を殺して獲物を狙っているかもしれないのだ、そんな危険な状況で。 だから旅のあいだはなるべくなら離れていたほうがよいと、そう決めた。 別にふたりのあいだに確約があったわけではない。今から考えれば悟浄が勝手に決心をして、言い出したことだったかもしれない、八戒の答を聞いた覚えがないから。 悟浄にとってはすべてが建前だった。本音を言えば三蔵や悟空に知られたくなかったから、というのが最大の理由。 そんな悟浄の気持ちを知ってか知らずか、三蔵たちの前では必要以上に近寄ってはこなかった八戒。彼らの前以外では不必要に近寄ってきてもそれ以上を強要してこなかった八戒。だから彼もわかっているのだろうと。 しかしそう思ったのは買い被りだったのだろうか、と思う。こんな口説き落とすみたいな甘い声で囁く彼の意図がいまいちわからない。 「悟浄」 名前を呼ばれただけでずり落ちそうだ。 「やめろ、っつの」 これまでの我慢を無意味なものにしたくなくて。 髪を弄ぶ指先からするりと抜け出して八戒を振り返った、ら。 切なく微笑む八戒の顔を直視してしまった。 「やっぱり無理なんですよ」 なにが、とも誰が、とも言わずに髪ではなく今度は手首を捕まえられて。 「触れたいんです」 だってこんなに近くにいるのに。 泣きそうに囁かれる言葉に逃げられない。食い込むほど強く掴まれた手首が夕陽に焼かれたように熱くて火傷しそうだった。じくじくと脈打ってるのは押さえつけられた血管か、はたまた焼け爛れた皮膚だろうか。 「好きなんです、あなたが。我慢なんてできるわけないじゃないですか」 馬鹿みたいだ。安心している。 自分だけが欲しているのではないと。 今思えば、これが確認したくてあんな条約を決めていたのかもしれない。 「なあ、」 「はい?」 「触っても、いい?」 「…それは、こっちのセリフなんですけど」 願わくば、この土臭い風と夕焼けがうまく隠してくれないだろうか。 熱くなる吐息と声と、焼け爛れた手首の傷跡を。 |
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