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致し方ない。 だって本当に突然、襲われたのだから。 「ん、」 降りてくる口唇から逃げるように顔をよじれば積み重なった本のタワーが見える。少しでも触れば雪崩れてきそうな積み方だ。そこここに立てられたそれが四方を囲むような、そんな小さな隙間の中で押しかかられたから、狭い床板の上雪崩れてきた重いハードカバーに押し潰される恐怖を思えば、激しい抵抗もできないのは当然だろうに。 「捲簾、」 優しく名を囁く人影はどうして逃げないのかと訝って眉を顰めた。でもたぶんわかっていて嵌めた、のだろう。 「この、策士が」 褒め言葉のような悪態をついて、夜間の暗がりとろくに掃除もされていない埃塗れの空気に霞む目を凝らす。あるいはそれは与えられ始めた熱にまみれているのか、自分にははっきりと区別がつかない。そんなことはこの場合どちらでもいいことだろうと、諦めているのかも知れない。 顔を背けて、積まれた書籍の背に描かれた誰かの肖像がにやけた顔をこちらに向けているのを見て取ってなんとなくばつが悪くなる。その二段下には、憮然とした表情をした美しい女性。描かれていることに抵抗があるのだろうか、それとも描いていた人物を毛嫌いしていたのだろうか、その切れ長の眼差しには嫌悪という名の鋭さが混ざってこちらを睨んでいる。まるで絡む自分たちを汚いと罵っているような、表情。 押しかかる人影の首から垂れるネクタイが暗い赤さで胸をくすぐった。肌蹴られた素肌に直接触れる赤い布の感触がむず痒い。次に感じるはずの熱い吐息と濡れた口唇の感触とは違う純粋な痒さは、そのもどかしさとは違っていつも次、という瞬間を暗示させる重さを孕んでいた。 苦手だ。 この瞬間と、この瞬間を与えてくる人物が、ことのほか苦手だ。 つい先日戦場で、血に塗れた娼婦が必死に腹を抱えながら息絶えていた光景を見た。 ひとのよい妖怪の青年。それがなんらかの変化を遂げて残虐にひとを喰らうようになる前に討伐しなければならなかったのに、自分は間に合わなかった。駆けつけたのは、すでに何人も殺して喰ったあとだった。娼婦もその何人かのうちのひとり、いや、ふたり。その切り刻まれ抉られた腹からはまだ形成されて間もない小さな小さな手が覗いていた。 それを見ておぞましいと感じた瞬間よりも、この瞬間のほうが苦手だと。 そんなことを思う自分は下界の人物が尊く崇める天上人として、果たして立派にいるのだろうか。そもそもこのような行為を強いられいていることだって。 「っ…、」 熱い吐息が腹を撫でた。散らばる埃を吸わないように、声を出さないように、瞬間的に息を詰めた。 「…ぁ」 その我慢も、小さく鳴る濡れた音を耳にしただけでやすやすと解れてしまう。固く引き結んだはずの唇がはらりと緩む。下肢に感じる直接的な快楽にだってこんなにも、呆気ないほどに。 これだから、苦手だ。 自制すらも利かないなんてと、いっそ恐怖を感じる。 「捲簾」 優しく名を呼ぶ涼やかなその声も。皮膚の上を躊躇いもなく滑るその手も。綺麗な顔で乱れないその顔も。すべてが苦手だ。 「僕が、嫌いですか」 快楽に直結する箇所をその熱い舌先で弄りながら照れるでもなく焦るでもなく、訊ねるでもなくて、確認のためだけに言われるその平坦さに思う。 たとえば苦手という感触がすべて嫌いという感情に直結するのだったら、そういうことになるのかも知れない。 苦手だと思う。出会ったときからそうだった、廊下で擦れ違うときにだってなぜだか緊張するし、最近では見ているだけで目眩がするくらいの、貧血のような酸欠のような鼓動に襲われる。たとえばこの緊張や鼓動が嫌いという感情から襲いくる系列のものなのだとしたら。 この目の前の男が、自分は大嫌い、なのだろうか。 「…知りてえ?」 自分でも答えが出ないことだから、あえてはぐらかすように問いかけた。天蓬のように確認の平坦ではなくきちんと語尾を上げて言ったのは、きっと答えを確信しているからだ。 「別に、なんとも」 言うと思ったそのままに声を、感情を殺して囁く声音に含まれた下肢が震えた。痛みのような悦びに体が逃げようともがく。振りかぶった頭が横に居並ぶ本たちにぶつかって四方を囲んでいた砦の一角が崩れた。 開ける視界。それでも暗い部屋はやっぱり暗く、遠く詰まれた本の背が乱立する光景はそのままに。 たくさんの目がこちらを見ている。 「天蓬…」 熱い吐息に塗れた声を、聞いている。 「天、蓬っ」 ああ、頭が痛い。 解けない疑問と蕩けそうになる思考に挟まれた自身が熱い欲望を滾らせて、爆発しそうな悲鳴を上げた。 そういっそ、嫌いになってしまえればいいのに、と。 |
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