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こ の 手 中

「手に入れたら、手放したくなくなりそうなんです」
 重い曇天が圧し掛かるような冬の空の下、林草に囲まれた小さな灰色の我が家でコーヒーを啜りながら、情緒不安定な薄倖美人の同居人はそう、なんとはなしに呟いた。
 独り言なのかなんなのか、翠玉をコーヒーの茶褐色に染めてぼんやりとカップの底を見詰める八戒の意図が読み取れなくて。キッチンで煙草を蒸かしていた悟浄はそんな彼の様子を見詰めて思案顔になる。
 ともに暮らし始めて何日が経っただろう。
 遂げられなかった思いを、抱いたままの過去を振り捨てるため名前を変えて、彼はここに来た。
 再会は思うほど呆気なく、彼がいなくなったと聞かされてからひとりで過ごした空白の時間の存在すら嘘のように、彼が生きていたという現実をあっさりと受け入れている自分がいた。
 ともに住みたいと申し出てきた八戒に拒否はなかった、むしろ歓迎して住まわせてやったといえよう。理由など思いつかないけれど、そうたぶん、多少なりとも興味を示した人間が、自分というひとりを頼ってきてくれたのが嬉しかったのではないだろうか。
 そんな彼が、たまに見せるこんな顔が、しかし悟浄にはいまだ理解できない。
 どうということのないときに、なんの感情も窺えない表情で途切れ途切れに、小さく語る八戒。隠した癒えぬ傷に不意に過去へと連れ去られ、虚ろな視線を燻らすその目が、八戒、としてではなく悟能、として時に静かに笑うから。
 深く吸い込んだ濁った煙を肺いっぱいに溜め込んで悟浄は、八戒に注いでいた視線をついと逸した。ヤニにくすんだコンクリートの天井を見上げて、幾分濃く汚れた部分めがけて限界まで止めた煙を思い切り吐き出すけれど、肺の中で思う様転がしたそれは強く吹いても少しも白くならない。それが悔しくてもう一度吸い込んだところで、八戒がまた、ぽつりと。
「手放せなくなる」
 それはきっとすべてを失くした者にしかわからない恐怖。
 執着することが恐い、そうして陥って、またも失うことが恐い。
 そういった彼に、いったいなんと言葉をかければよいのか、なんてわからない。
 わからないから。
「手放さなきゃいいんじゃねぇの?」
 目を閉じて、ため息に似た呼気を吐き出しながら悟浄は言った。

 どうしたらいいかわからないから、だったらどうにもしてやらない。

 言葉やなにかで癒せる、そんな簡単なものじゃないとわかっているから。同じような傷を共有する自分では癒せないことも、わかっているから。
 いっそどうにでもなれと、言葉を選ばすに投げつける。
「ずっと、つかんでりゃいい」
「でも、」
 薄い口唇を微かに動かして八戒が否定する。
「逃げてしまうかもしれない」
 窓ガラスを、不意に風が打った。安い造りの我が家はそんな軽い衝撃にすらかたかた、と鳴いて、入り込んだ隙間風が狭い家の中、ふたりの広く空いた空間を駆け巡っては冷やしていった。
 その音が去るまでの数分を押し黙ってやり過ごすふたりの、傷ついた心にも、同じように冷えた空気が蟠っているのだと。
 長くなった灰が、ぽろりと落ちた。
「つかんでいても、振り払われたら?」
 はじめて八戒が問いかけてきた。
 答えが欲しいのか、もうすでに個人の中で出している答えを確信したいのか。
 視線はあくまでカップの底に注がれていて、もうとうに冷え切ってしまっているだろうに微かな温もりすらも逃がさない、というよう手のひらで覆い包んで。縋りついているように見えないでもないそれが、八戒の答えを如実に語っている。
「それは、最初から、手に入れたって言わないんじゃね?」
 わざとゆっくり、区切って言った。質問に質問で返す、挑発的な。
 つまり、なにかを手に入れることなど永遠に、不可能と。
 燻らす紫煙はまだ白くならない。いっそ外に出てこの寒空の下ため息でもついたほうがよっぽどうまく染まるのに。
「それに、」
 空き缶を灰皿にするなと言ったのは八戒だった。そんなふうに他人のやることに遠慮がちながらもうるさく干渉してくる彼は、しかし自分のことは頑なに口には出さない。そんな彼に反発するように、わざと、ビールの空き缶をゴミ箱から拾ってそこにフィルター近くまで燃えたそれを押し付けた。
「失くしちまうことだってあるだろ」
 そう、まさにこの煙のように、そこにあるのにどうしてか、見失ってしまうことだって。
 自分たちはずっと、そうやって生きてきたのではなかろうか。
 あるべきものが見えなくて、逃げてしまったんだと勘違う。
 見失ってしまった自分への言い訳を必死に叫んできたのだろう。
 冷えてしまった空間はどうにも温もりを回復せずにただそこにある。そろそろ暖房を入れなければ凍えてしまいそうだ、と二本目の煙草に点火した足取りのまま八戒の腰かけているダイニングテーブルに近寄った。
 あたたかそうな木目のテーブルに置かれたリモコンをつかんだ瞬間、その見た目とは嘘のように違う冷たさに凍えた手元から、するりとそれが落ちた。
 かたり、と床に弾んで。
「あ」
 屈んで手に取ったそれは真ん中からひびが入ってしまっていた。
「…壊れた」
「壊したんでしょう」
 しゃがんだままぽつりと言った悟浄に先ほどまでとは違う意志を持った八戒の声が聞こえた。
 ゆっくりと立ち上がって見れば、カップから手を放した八戒のあげた目がそこにあって。
「…うるせぇ」
 文句を垂れつつ笑ってやる。
「コーヒー淹れ直せよ」
「あなたはそれ、直して下さいね」
 軋んだ椅子音を立てて八戒がキッチンへと足を向け、そうしてこう呟いた。
「落し物預かり所、みたいなのはないんですかね?」
 スイッチを押しても反応のないリモコン。
「お礼一割くれるなら、俺が預かってやるよ」
「…それはなんとも、不安」
「不安なほうが失くさないだろ?」
 叩いてみたらいやな音がしてひびの広がったリモコン。
「まあ、それもそうですね」

(20031024)(20070902改定)
「セルフサービス」の続きみたいになった。
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