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声が壊れた。 「八戒、」 昼日中いつものように不精な格好でのそりと起き出したこの家の家主に名前を呼ばれて、八戒は困惑の表情を晒してキッチンで立ち尽くした。応えを出そうとして咽喉奥を襲った焼けるような熱さに辟易したように眉を顰めて。 呼びかける彼に応える声が出せない。 目覚ましが鳴る前の早朝に目が覚めたのは、咽喉元を熱く彩る痛みのせいだ。声だけでなく、息すら拒むそれに無意識に逃げを打った呼吸のせいで息苦しくて目が覚めた。なんだろうか、風邪だろうか、と訝る前に額に浮かんだ嫌な汗がわずらわしくてシャワーを浴びて、そこで丹念にうがいもした。 なのに痛みは一向にひかない。 作りかけの料理が火にかけられたままじゅーじゅーとやかましい音を出している。いつもはうるさいばかりで苛立ちを募らせるその音も、今は羨ましいとすら感じることの腹立たしさは通常の比にならない、そう思って、八つ当たりをこめて乱暴に火を止めた。 「…」 短い同居人の名前すら吐き出せないことの歯痒さ。 「八戒?」 キッチンからはいつもの雑事をこなす音がしているのに自分から返事がないからだろう、幾分不審がっている声音でリビングに現れた悟浄の顔は不安という色を、塗りたくった平静でどうにかこうにか隠しているように思えた。うまく塗りきれなくてまだらになった部分から不安が溢れてきている。 その様子におかしさが込み上げる。 声が聞こえないだけでこんなにも不安になられても。 「どうした」 近寄ってきた足取りのまま気遣うように訊かれても答える術がない。 「…、…」 口を動かして空気だけで伝えようとしても無駄だろうか、大げさな身振りで咽喉元を指差してから、彼が好きと言った美貌をこれ以上ないほど歪めて痛そうな顔を作る。テレビでよくやるジェスチャークイズのような。 「痛いのか」 伝わって安堵すること。ああ、言葉とはなんて便利なコミュニケーションツールだったのだろうか。今更ながら気づいて出すことのできない自分の音色を懐かしんだ。 「喋れない?」 頷く。 「そうか」 残念そうな声音で聞こえた相槌に、罪悪感と痛みでどこか切なくなった。 「…」 こちらの顔を不躾にもしげしげと眺めて不似合いな思案顔を作る悟浄になにか言葉を投げつけてやりたいのに。 悔しさだろうか虚しさだろうか、怒りだろうか、なんとなく落ち込んで頭を垂れた、そのつむじに。 不意に、子ども体温を含んだ骨太くしなやかな手が乗せられた。 「じゃあとりあえず、喋んな」 上から、名案だとばかりに降ってきた声。 「俺も今日は、喋らないから」 馬鹿じゃないですか。 いつもなら照れ隠しに投げつけることのできる台詞。でも今日は出せない。隠せなかった照れが溢れて頬を熱くした。 気づかないままうんうんそれがいい、と勝手に頷き、無言を決め込んでリビングソファに座ろうとする背中を睨む。 まったく、いつものようにうるさく喋ってくれないと。 高鳴る心音が響いてしまうじゃないですか。 いつもとは違う静寂が包む空間。 秋を匂わせる涼しい風がまどろむようにそこに居座った。 |
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