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「今日は随分冷えますね」 コーヒーを注いだカップをふたつ、手に持って台所から戻ってきた八戒が小さく呟いた。 冬に入って間もないころ、それでも今日は例年よりも冷え込みが激しく、吐く息はすでに白かった。木枯らしが吹きつけてお世辞にも頑丈とはいえない家屋が微かに音を立てるのを、まるで寒さに身震えている音のように聞いて、それだけで肌に感じる冷気が増した気分だ。 高体温体質のこの身体は体外と体内の温度差が激しく、お嬢は冷え込みの激しい冬が苦手だった。 八戒の手にしたコーヒーから立ち昇る湯気がゆらゆらと、視界を薄靄に染めてゆく。 「そうだな」 目の前に差し出された陶器のカップを受け取る。わざと熱めに淹れられたそれが、包んだ手のひらの血管を伝って身体の芯をほんのりと暖め、寒さに強ばっていた身体の緊張を少しずつ解してゆくように感じた。一口啜れば咽喉から胃へと落ち込む熱が心地好い。 ソファから横、四角く区切られた窓から見える灰色の天蓋が引かれた空は薄暗く、まだ夕刻だというのに、いつもは鮮やかに照り輝くはずの緋色の夕焼けがいまは欠片も見えない。遠く飛ぶはずの鳥の黒がなぜか大きく、見渡す空がとても低く見えた。重い雲の幕に押し潰されて軋む音が聞こえるように、いまにも落ちてきそうな空。 「さむ、」 珈琲から奪った熱を、さらに冬の冷たさが奪ってゆく。寒がりであるくせに薄手のトレーナーを一枚羽織っただけの悟浄は、肌に感じる外気にぶるり、と肩を震わせた。項辺りから背中まで鳥肌が這ってゆくのを、気持ち悪さとともに自覚する。 「そんな薄着だからですよ。上着、ちゃんと着てください」 八戒に叱るような口調で言われて、悟浄はむっと唇を尖らせた。 この同居人は、なにかにつけて自分を子ども扱いしている気がする。口調のせいもあるのだろうが、逐一ひとに指図されるのが嫌いな悟浄にとっては反抗の種でしかないわけで。 「わかってるっつの」 ついつい尖った言い方をしてしまう。 「まったく、」 拗ねたような悟浄の態度に八戒は小さく吐息を漏らす。冷えた部屋ではこっそりと出した息すら白く濁って見えてしまうから、隠すのが大変だ。子ども扱いをやめて欲しいと言うのならまずはその態度をなんとかしたらどうなのだ、と。 詮無く考えて八戒は、自分の着ていた厚手の上着を脱ぐと悟浄の肩へと羽織らせた。 「これ、着てていいですよ」 「え、いいって」 別に八戒の身包みを剥ごうと思っていたわけではない悟浄は、拗ね始めていたことも忘れ慌てて上着を八戒に押し返そうとする。ソファの上と下との押し問答。立ったままである八戒のほうが明らかに有利な位置にいて。 「いいんですよ、僕はそんなに寒くないんで」 でも、としつこく講義する悟浄。 緋色の瞳が困惑したように八戒を見ていた。 ああ、とため息。まったくこういう目をするから。 (苛めたくなるんですよね) 「そーですね」 顎に手を当ててなにやら考え込むようなポーズをとりながら、口元の微笑を隠して八戒は言う。 「やっぱり、僕もちょっと寒いみたいです」 「あ?」 八戒との同居を始めてからだったか、だだっ広いだけで殺風景なリビングに少しはアクセントになるだろうと購入したシンプルなデザインのツインソファ。ふたり用にと買ったはずなのになぜだかやたらと気に入ってしまったらしい悟浄は、日がな一日そこににそっくり返って座っている。 今日も今日とて偉そうに、ひとりでその場所を占拠していた悟浄に、唐突にずずずいっと歩み寄ると八戒は、悟浄の左隣に無理矢理座った。 「な、なんだよ」 いきなり引っ付いてきた八戒に悟浄は罵声を上げ小さく身じろいだ。 通常サイズに規格されたスプリングが通常よりもガタイのでかい男ふたりの体重にぎしぎしと悲鳴を上げる。雁かなにかの遠い声が混ざって不協和音となったそれを耳にした、次の瞬間。 狭いソファで、さらに密着するようににじり寄ってきた八戒は、悟浄の長く伸びた赤の頭を左手で抱えると、渾身の力を込めて引き寄せた。 「う、わっ」 ばふっ。 見事、八戒の膝枕に悟浄の頭がミラクルフィット。 「なにすんだよっ?」 じたじたと暴れまくる悟浄をやんわりと押さえつけ、瞳と同じ緋色の髪に指を絡め優しく梳いてゆく八戒。 さらさらと流れる感触が気持ちいい。 「はーなーせ、って」 「なんでですか」 「恥ずかしいだろが」 「僕は構いません」 「俺が構うんだ!」 そんなやりとりを繰り返しながらそのあいだにも甲斐のない抵抗を続ける悟浄だが、すでに悟浄の行動パターンを見切っている八戒は苦もなく彼を拘束する。 一瞬間の隙を突いて、素早く、掠める程度に口唇を奪った。 「こうしてふたりでくっついてれば、あったかいでしょう?」 「…っ」 とてつもなく恥ずかしい台詞を真顔で、瞳を覗き込みながら言う八戒に、悟浄の顔が朱に染まる。 丸く見開いていた目を鋭く細め、一瞬の不意打ちに忘れていた抵抗を再び開始する。腹筋の要領で起き上がろうとしてみたり、肩口に止まっている白の手を引き剥がそうとしてみたり。しかしいくら振り払おうと力を込めても、八戒の手は一向に外れなかった。華奢に見える体のどこにそんな力があるのか知らないが、押さえつけている腕は押そうが引こうがびくともしない。身体への圧迫はまったく感じないのに、だ。 数分後、ついに。 悟浄は諦めたように全身の力を抜いた。 八戒の痩せぎす過ぎる膝枕に身を沈めると、深い深い、底なし沼なんか敵わないようなため息を漏らす。 「まったく…」 白濁に乗せて呟いた。 「甘いよなぁ、俺も」 頭上から八戒の、なんです? というスッとぼけた声が聞こえてきたが、さあねとこちらもはぐらかしてやった。 八戒の体温が沁み込んできて。 安心する。 「はじめっからひとつだったら、いちいちこうやってくっ付いたりしないでいいんでしょうね」 苦笑するように囁かれた言葉に、八戒の顔を見上げる。 緑の瞳がいとおしそうに悟浄を見ていた。 「そーだな」 でも。 でもふたつだからこそ感じられるものもあるのでは。例えばこの温もりだって。 「悟浄?」 優しく耳に落ちるその声だって。 思いつつ、急に襲ってきたまどろみに目を閉じる。 「おやすみなさい」 外は曇天。 もうすぐ雪が降る。 |
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