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年が明けたあとよりも年が明ける前のほうが忙しい。 師走、というだけあって街中はなにかに追い立てられるように通り過ぎる人波に溢れていた。八百屋も魚屋も花屋だって、商品が旬で大売出しをしているときよりも混み合って、あとから訪れたひとが踏み込める余地もない。大柄なおばちゃんや力強い男性ならまだしも、年若いセレブのような奥様がその荒波に埋もれたら怪我どころでは済まないかも知れない、そう思いつつもたった今魚屋へと果敢に挑んでいった奥様を庇う気力は今の八戒にはなかった。だって自分も疲れている。ひとを庇っている場合ではないのだ生憎と。 年末年始の買出しに来ていた八戒はその荒波に飲まれまいと踏ん張って、ずり落ちそうになる戦利品を気合と共に抱えなおした。 やはり手伝ってもらったほうがよかっただろうか。 玄関先で見た赤髪の男の後ろ姿を思い描く。頑なに雑誌から目を離そうとせず俯いたまま、伸びかけの髪の毛に隠れきれずに曝されたうなじが寒そうだった彼。 しかし出掛けに小さいとはいえ小競り合いをしてしまった身としては、いくらこれから激流にその身を投じようとも助けてくれとは言いがたいものがあって。 「大体なんで、天ぷら蕎麦ごときで」 原因は本当に些細なことだった。 大掃除をしたそのあとで今日の夕飯はなにがよいかと訊ねたら年越しはやはり蕎麦だ、となぜか自慢げに煙草を吹かしながら命令してきた悟浄にちょっとした苛立ちはあったものの、まあ彼がそう言うのなら仕方がない自分は下宿させてもらっている立場なのだからと諦め気味に苦笑しながら「じゃあ天ぷらもつけますね」と軽い気持ちで言った、ら。 「蕎麦に乗っけんじゃねぇぞ」 「なんでですか」 「なんでも、だ。乗っけたら食わねえ」 つん、とそっぽを向いてぞんざいな物言いで言い捨てた悟浄に、なぜだか無性に腹が立った。一瞬でその胸倉を掴んで顔を近づけてそのまま殴り倒そうとしたところで、はっと目が覚めたのだけれど。 伸びかけの赤い髪の毛が衣服を掴んだ右手をさらりと撫でなかったら、きっと殴っていただろう。 赤い糸に擽られた拳には小さな切り傷がある。悟浄には皿洗いをしていて傷つけたと言い訳をしたがそれは嘘で、本当は三蔵に言いつけられた仕事をしているときにしくじって切ったものだ。怪我をしたときには結構な血液が垂れ流されていたが傷口を見てみれば別に気孔を使って治すほどでもなく、数日も経てば小さなカサブタに隠れたそれが偶然にも赤い髪に撫でられたことで、なんというか、血が滲んでいるように見えて。 突然恐くなった。また赤く染まるのか、と。 どうして彼は避けようとしなかったのだろう。やめろ、と牽制の一言でも言えば頭に上った自分の血などすうと引いていっただろうに。なにもいわないままただ目を閉じて。 殴られようとしているみたいだった。 「…ごめんなさい」 「知るか」 八戒の謝りに対して怒るでもなく諭すでもなく笑うでもなくいつものようにそう素っ気なく言って、放された襟首を正しながらソファへと沈み込む悟浄の髪の色はどう見ても血の色などではかったのに。 「買出し、行ってきます」 へこんだ空気にいたたまれず家を後にした自分を一度も振り返らなかった。 「なんで、あんなに怒ったのかなあ」 冬に曇った鈍色の空を見上げながら白い息に乗せて呟いても答えは浮かばない。 自分でも自分の怒り出したところの要因がわからない。悟浄のわがままは今に始まったことではないし。好き勝手やっている彼に対して怒るのは筋違いというものだろう。 だって自分は下宿させてもらっている立場だから。 家主が自分の家で好き放題するのは当たり前のことだ。きっと悟浄は八戒を体のよい家政婦のような存在とでも思っているに違いない。それでも構わないと思って同居を申し出た自分に偽りはない。いまでもその気持ちに変わりはない。それである限り、彼の要望には出来得る限り応えてゆこうと、そんな風に思ったのは確か秋の初めだ。そう遠くない過去であるのにどうして忘れてどうしてあんなことをしてしまったのかと、不可解で仕方なかった。 自分のことなのに解せないことが多すぎる。 八戒という名前になってから富にそう思うようになった、気がする。自分自身が八戒としてあることをまだ受け入れられていないのだろうか。 「…とりあえず、帰りますか」 街中で茫洋と考え事をしていても答えが出るわけでもなし。 人波は夕方にかけて荒波どころか戦争になりかねない勢いでごった返している。ぶつかり合う人々の悲鳴のような怒号のような叫びが耳に刺さってうるさいし、それよりなにより寒い。じっと動かないでいたからか凍ったように硬い感じのするつま先を地面から無理やり剥がし歩き出そうとして、靴の底が剥がれてはいないか確認するために一度後ろを振り返った。 先ほど激流に身を投じたセレブ奥様がそのお綺麗な顔を鬼のような面相に塗り替えて魚屋から出てきたところだった。 年末は、恐ろしい。 「お帰り」 山の奥深くに佇んでいる悟浄の家にたどり着くにはまず、町を出てからすぐそこにある橋を渡って、左手に見える細い山道を歩いて、その道の途切れにある2本の針葉樹を今度は右に曲がり、枯れた木々ばかり生える荒れた林を抜けて、そこに見えた小さな石碑を跨ぎ越して、更に奥にある大きな石碑を迂回して、それを守るように林立する太い樹木の枝の下を潜り抜けなければならない。その最後の難関を通り抜ければもうそこは悟浄の家の玄関先なのだが、いかんせん立ち並ぶ木々に遮られて家の明かりなど見えず最後は枝を潜り抜けようと頭を項垂れさせているために前は見えない。増してや今、八戒の手元には年末年始のための戦利品が大量にぶら下がっているわけで。 だから玄関先に座っていたらしい悟浄の姿なんて、声をかけられるまで気づかなくて。 「…ただいま」 思わず返してからそういえば悟浄に「お帰り」などと声をかけてもらったのは初めてかもしれないな、と変なところに感動した。 煙草を買いにでも行こうとしていたのだろうか、しかし出掛けに掴みかかった薄いTシャツの上にこれまた薄手のコートをぞんざいに羽織った格好はたった今自分が通ってきた道を町まで逆走してゆくには不適合だ。マフラーも手袋もしないでどこに行くというのだろう。寒がりのくせに薄着しかしない。風邪を引くからと控え目に暖を促しても勝手だろ、と一蹴される。変なところで頑丈なのかそう勝手なことをしていてもなかなか風邪を引かないのも付け上がる要因だ。まさか、その足元に落ちているハイライトの吸殻はこの寒い中で燃したものなのだろうか、数えなくてもわかる数十本は落ちているだろうそれに八戒は、吸いすぎだと怒るよりも馬鹿じゃないのかと呆れてしまう。 きっと、たった今点火したばかりの煙草を挟んでいるその手は寒さで冷え切っているに違いないのに。 「出かけるんですか」 本当はなにをしているんだ、と訊きたかったけれどそれはなんだか失礼な気がして言葉を選んでからそう言った。 枝を潜るために腰を曲げたまま固まっていた体が不自然な体勢に痛みを訴える。荷物の重みと寒さと痛みで思わず座り込んでしまいそうになったがここで座り込んだらなにかに負けてしまうような気がして、もう一度気合と共に荷物を抱えなおした。真っ直ぐになった関節が間抜けな音を立てて曇天に響く。 玄関先で突っ立ったままの悟浄は八戒の質問に対してなにも言わない。お前には関係ないだろうとでも言いたげに一呼吸紫煙を吸い込んで、八戒の吐き出す白い息と同じくらい濁った煙を吐き出した。 それから。 「荷物」 単語だけ言い置いて寄越せとジェスチャーで示す。 「重いだろ」 「あの、?」 「早くしろよ寒いんだから」 まるで人をおちょくるときのように左手のひらを空に向けて指先だけで来い来いと手招きをする。右手は煙草で塞がっているから右手ではそう出来ないのだな、と見当違いに思っていたら「早く」とどやされた。その声に慌てて、荷物でよろけているからうまく走れはしないのだけれどなるべく慌てて近寄ったら咥え煙草に切り替えて右手も空けた悟浄にひょいと米を抱えあげられた。それが一番重いものなのに。 「他は」 米を左手に抱えなおして空いている右手で荷物をねだる。大丈夫です、と言う前に「持ってくぞ」と今度は餅と野菜の入った袋を腕に引っ掛けて、だからそれも重いものなのに手首なんかに引っ掛けたら血が止まると忠告する前にさっさとドアを開けて中に入っていってしまった。 よっぽど寒かったのだろう、荷物を受け取った彼の指先は死人もびっくりするほど冷え切っていた。 まさか僕を待っていたんじゃないですよね、とまではさすがに訊くことが出来なかったけれど。 そんなわけねーだろ、と煙草の煙と共に白々しく言われるのは、わかりきっていたし。 室内に入って荷物を適材適所詰め込むところまで悟浄は手伝ってくれた。普段の彼からは想像できない不可解な優しさに理由が見つけられないまま八戒は「これはどこに置く」と逐一訊ねてくる悟浄に的確な指示を飛ばした。洗剤は流しの下に、野菜は冷蔵庫の野菜室で入りきらなかったらその横のダンボールにでも、お米は米びつに入れて余りは口を縛ってその下の棚に入れて。こと細かく指定する自分に文句を言うでもなく悟浄はてきぱきと行動した。彼が歩くたびに折角大掃除で綺麗にした床がハイライトの灰塗れになるのだがそれを注意するよりも驚きのほうが上回って。 指示に忠実に動く彼が可愛いとさえ思った。なんとなく。 「コーヒーくれ」 作業がひと段落着いたところでいつものように悟浄が言う。相変わらず咥え煙草でどこぞの亭主のように新聞を片手にうろうろと歩き回り結局いつものようにソファへと落ち着くその姿はまるでオヤジだ。そう思いこそすれ言わない自分はかなり我慢強い。 手伝ってもらった恩からかきちんと豆から淹れようとした自分に「インスタントでいい」とあっさり好意を無碍にされて。 つくづく、尽くしているな、と思う。 別に尽くすのが苦なわけではないけれど。 ため息を吐いてインスタントコーヒーを淹れる。カップに粉を入れて湯を注ぐだけだから簡単だ。ミルクでも入れてカフェオレ風味にすれば冷えた身体も温まるかと、冷蔵庫から取り出した牛乳を鍋に入れようとしたところで「それいいから」と灰皿に溜まった吸殻を捨てに来た悟浄に言われた。 「温まりますよ」 「いらんて」 遠慮しているわけでもない素っ気無さでカップをするりと抜き取られる。 カップを受け取った手はまだ冷えていたのに。 なんだか、なんていうか、腹立たしい。 「まあ、別にね」 ため息と一緒に小さく呟く声が聞こえていただろうに無視を決め込んだ様子でずず、とコーヒーを啜る音でそれを掻き消していった悟浄の背中に思い切り舌を出してやりたい気分だ。 とりあえず自分も一旦休むかとコーヒーを淹れようとして、とその前にとりあえずでも夕食の下ごしらえをしておかなければならないことに気づいた。というかとうに夕食の時間は過ぎていて。 「お腹空いてますか?」 そういえば自分は朝からなにも食していない。起きた途端に大掃除を始めたために食べる時間がなかったのだ。慌しく立ち動いているときには空腹を感じなかったもののふとこうして暇を見つければやはり腹の鳴る音を紛らわすことはできない。 悟浄の分は一応のように用意はしたのだ。悟浄が起き出すのは年越しだろうがなんだろうが関係なくいつも昼過ぎで。自分は食べなくても彼の分だけは作らなくてはと自分の中で最も手間のかからないトーストとスープを作ってそれで済ませた。しかしなんといってもパンは腹に溜まらない。そう考えると彼もそろそろ空腹を感じる時間だろう、と。 「あー…減った、かも?」 「…どっちなんですかそれは」 「じゃあ減ってない、かも」 「わかりませんよ」 言葉遊びをしているのではないのだからまったく。 ふざけているのかからかっているのかおちょくっているのかなんなのか、どれもあまり大差ないほどのよい意味では捉えにくいイメージの動詞しか出てこないような行動ばかり取って、どうしてこの人はこんなにも僕を邪険に扱うのだろう、と被害妄想しか浮かばない。自由と言えば聞こえはよいが彼の場合はそうではない、ただの自己中な子どものようだ。甘えているのともまた違って。 まだ甘えられたほうがよかった、そうすれば素直に可愛がることもできるのに。 (…可愛がる、って) 大の男に向かって可愛がるもなにもないだろう自分。 自分で自分の考えにむずむずとしたものが湧いてきたことでそれを振り払うように思考を食事のことに切り替えた。とりあえず食事を済ませなければ戦うこともできない、と誰と戦うつもりなのかわからないまま腕まくりをする。 「なにか作りますけど、なにがいいですか?」 「天ぷら蕎麦」 むずむずを吹き飛ばすことに必死でなんの考えもなしに訊いたら、意外にもあっさりと喧嘩の原因となったものを提示されて少しばかり焦った。コンロにむいていた体を悟浄の座っているソファのほうへと向けて一体どんな顔でその名詞を吐いたのか拝んでやろうとしてもキッチンに対して背中向きに設置してあるソファでは悟浄の顔色は読み取れない。しくじった、大掃除のときにラグを敷き替えたついでに、ソファの向きも変えればよかったか。 挑戦的なのかなんなのか、はたまた本当に食べたいだけか。 だったらこちらも仕掛けてみようと。さて、どう巻き返してくるか。 「…天ぷら、お蕎麦に乗せますか」 「乗せんな、って言っただろ」 やっぱり。 よくわからない部分で妙に納得した。 やっぱり、この人は。 音量を消したテレビを観るともなしに観ながら蕎麦を啜るふたりに、これといった会話はなかった。 結局蕎麦と天ぷらは別盛りにした。さすがにいまから揚げているのでは時間がかかってしょうがないし、掃除やなにやと疲れ果てている自分にそれをやる気力ももはや残ってはいないし、と、既製品をそれらしい皿に盛り付けただけで済ませてしまった。 律儀にも、買出しのときにきちんと揚げ物屋まで足を運んだ自分が偉いと思う。 「テレビ観えない」 ずるずると音を立てながら器用に喋る悟浄。どうして零さないで話すことができるのだろうか、きっと咥え煙草で鍛えてでもいるのだろう。無駄なことにばかり神経を使って。 駄目だ苛々が治まらない。 年末だからと特番ばかりを流すテレビの音量を消しただけではそのうるさい画面ばかり目に付いて少しも落ち着かない。だからこそその苛々を抑えるために話でもしようと思っているのに悟浄は黙りこくったまま。テレビが観えないと言うのなら丼の底を覗きながら蕎麦を啜っているその格好はなんなのだ、テレビになどまったく無関心のくせして。 まだ怒っているのか胸倉を掴んだことを。案外根に持つタイプなのかもしれない。 しかして確かに悪いのは自分なのであるし。悟浄にしてみれば天ぷらを乗せるなという希望を言ったに過ぎないだけなのかもしれないし。だのに突然胸倉を掴まれれば誰だって「なんだこいつ」と思うだろうし。 ここは潔く謝ったほうがよいのかもしれない。 来年に持ち越すのも嫌だし。 「あの、」 息を吸おうとして口から空気を吸い込んだら、歯に詰まっていたらしい天ぷらの衣が咽喉に引っ掛かってむせた。 「さっきは、ごめん、なさい」 むせながら言うことではないけれど。 「さっき聞いたそれ」 「えと、じゃあ…すみません」 謝り方が気に食わないのかと言葉を選んでそう言ったら、丼の底から目を放してこちらを覗き込む悟浄の赤の目が蕎麦汁の色にゆらゆらと光っていた。そういえば久しぶりに見たかもしれないその目になぜかどきりと心臓が鳴った。 「…あのさ、」 不躾だとは思いつつもなぜか視線を剥がすことができずにまじまじと見詰めていた八戒の視線から逃げようともせず同じように見詰め返して悟浄がゆるりと口を開く。なぜだろうか、躊躇うように間を空けて。いまから言うことの重大さを推し量ることのできるような重みがあるそれに、もしかしたら、出てゆけ、とでも言われるのかもしれないと一瞬、思った。そこまでのことをした覚えはないけれど、悟浄にとって胸倉を掴まれるという行為はそこまでのことに値するのかもしれない、と。 今更後悔した。どうして胸倉なんかを掴んでしまったのか。少しくらい我慢すればよかったものを。 「お前ちゃんと勉強とかしたわけ?」 最悪の場合を想定して悟浄になにを言われても平静を保てるように構えて。それなのに悟浄が言ったセリフはあまりに突飛で。 八戒はむせた口元を拭うのも忘れて呆けたように開口したまま。 「本当に悪いと思ってる?」 「…?」 彼がなにを言いたいのかわからない。いつも突飛で掴み所なく飄々としているけれどいまほど理解できないと思ったことはないかもしれない。 疑問を顔に浮かべながら眉間に皺を寄せた自分にまたも躊躇うような間を空けた悟浄が場違いな音を立ててずず、と蕎麦汁を啜った。お代わりをするかと、そんな場合でもないのに席を立って手を差し伸べたらこちらも場違いに「いや、いらんけど」と言って悟浄は空になった器をテーブルに音を立てて置いた。その音に、浮かした腰を元に戻すのがなんとなく、引けてしまって。 「だからさ、なんつーか、」 言葉を選ぶように接続詞ばかりを継いで次の言葉を出さない悟浄になにが言いたいのだ、と詰め寄りたい。なんなのだ、怒るのならさっさと怒ればよいものを。 「なんですか」 詰め寄る、まではゆかなかったけれど充分棘を含んだ言い方でそう言ってしまった。途端、堰を切ったように苛つきが溢れ出す。なんだろう、止まらない。 「なんなんですかあなたは、なにが言いたいんですか」 「だからっ」 ふたりしてなにをこんなに苛ついているのだろうか、傍から見たら馬鹿みたいなことこの上ない。大の男が年明け差し迫った時間にテーブルを、テーブルの上の天ぷら蕎麦を挟んであーでもないこーでもないと喧しく言い合いをしている。冬の夜は早くて窓の外はすっかりと陽も落ちているのにカーテンも閉めないで。ここが街中じゃなくてよかった、こんな薄いコンクリートの外壁では外に怒鳴り声が漏れて内容まで丸わかりだ。 だけどもここまで来たらこちらももうあとには引けない気がして。勢いに任せて継ぐ言葉を口にする。 「言いたいことがあるならはっきり言ってください!」 「そりゃこっちのセリフだろ!」 自分でも思いがけず大きな声で怒鳴ってしまったら、あちらも思いがけず怒鳴り返してきたことで二倍どころか二乗の驚きになりぴたりと閉口した自分に、今度は悟浄が反撃を開始しようとして思い切り息を吸い込んだ音が聞こえた。同じように天ぷらの衣が咽喉に引っ掛かってしまえ、と思わないでもなかったけれど息を接いで言われた次の言葉にそんな思いもどこかへ吹き飛んでしまった。 「お前なんでも謝りゃ済むと思ってねえ? 謝りたくないときに謝ってどうすんだよ、ってかなんも悪いことしてないのに謝る必要ねぇだろが!」 謝る必要もない、って。 どうしてそうなる。苛ついてたのはこちらで、殴ろうと胸倉を掴んだのもこちらなのにどうして。怒るのなら彼のほうだろうに。 「大体お前もっと怒れ」 どうして睨みつけながらそんなことを言うのだこの男は。 馬鹿みたいに同じ言葉しか浮かばない。 なんで。どうして。 「下宿してるからとかなんとか言い訳こくな。怒りたきゃ怒れ殴りたきゃ殴れ怒鳴りたきゃ怒鳴れ苛ついてたら吐き出せ。ここへきて何日経ってっと思ってんだよ、遠慮なんかいらない、お前は家政婦なんかじゃないし増してや使い走りでもない。一緒に住んでんだからここはもうお前の家だろが。もう少しくらい、わがまま言いやがれっ」 開いた口が塞がらないとはまさにこのことだ。 怒っていると思った彼は実はそんなに怒っていないらしい、なんて。 しかもひとに、自分を怒れなんて言っている。 馬鹿じゃないのかこの人は。 ほとんど勢いで喋っていたらしい悟浄が息切れしていて、このまま放置していたら酸欠になりそうなほどに見えたので茶を淹れたほうがよいかと浮かしたままだった腰をキッチンに運ぼうとしたら「だからいらんて」と怒鳴る合い間に言われて余計に酸欠にさせてしまったかもしれないと呆れながらも心配した。どうしてよいかわからず柄にもなくおろおろとしながら宥めるように背中をぽんぽんと叩いたら小さい声で「サンキュ」などと言われる。 「だからな、」 呼吸の収まるまで数秒を待ってから悟浄がゆっくりと口を開いて。 「俺のわがままなんて聞かなくていいんだから」 小さく囁いた悟浄がなんだか酷く幼く見えて。 怒りか酸欠かで真っ赤に染まった顔を恥ずかしそうに髪で隠して。「あーもーだっせ」などと呟くにつけても。 可愛い、とか思ったりなんかして。 先ほどはあまりといえばあまりな思考に気のせいだ、と思うことにしてしまったけれど今度ばかりは、認めるしかなさそうだ。 いや、そうじゃなくて。 とりあえず悟浄が可愛いかどうかはあとで検討することにして、今は目先の疑問のほうが先決だ。 「だからわざとわがまま言ってたんですか?」 わざとむかつくような態度で怒らせようとしていたのだろう、か。 「ってわけでもねえけど」 そう言いながらも照れたようにそっぽを向く彼は嘘が下手だ。きっとそういうなにがしかの意図を持ってやっていたのだろう、子どものような拙い手段。 「年末、忙しかったから疲れてたんだろーがよ」 八戒は三蔵に恩がある。新しい自分として転生させてもらった恩と、生活費の少しばかりの工面と。 それに漬け込まれるように、というわけではないけれど。年末に暴れる妖怪の退治やその他雑務に追われていた三蔵から手伝いの要請に呼ばれた。ひとが慌しくなるとそれにつられて妖怪も暴れだす。忙しなさに苛ついている人々に取り付くようにつけ込むように、そしてその苛つきを喰らうように人里近くまで降りてくるのだ。その手伝いをやらないか、と。 しかしそう簡単に言ってもやはり妖怪を退治するにはそれなりの労力とひとにはあるまじき力を要する。 その度に人ひととしてない力を使って。その度に、今は仲間となってしまった者たちを殺して。苦ではない、けれどつらくないと言えば嘘になるような微妙な心境。 断りたいと思った、けれど彼への恩を考えるとはっきりと言えなかった。そんな八戒は、本当にいいように使われるだけであったが、これは三蔵の意志ではなく、多分上からの命令だったのだろう。彼自身もそこについては珍しく謝罪の意を述べた。でも、だからこそ逆に断り切れなかった。 知らぬ振りをしながら、悟浄はそれを見て感じていたのか、八戒の苛つきと悩みを。 「だって、怒ってるんじゃないんですか」 「なに怒るっつんだよ」 「でも僕、悟浄のこと殴ろうとしましたよね」 「殴ってないんだからいーじゃん」 「でも、胸倉掴みました」 「そんなん酒場行けばスキンシップよ」 「でも、」 謝る必要もない、と言われているのにどうして自分を悪者にするような言い訳をしているのだろう。謝らなければならない為の理由を探して自分の非を曝け出す、なんて意味のないことをしているのだろうと思いつつなぜか止まらない。怒って欲しいのかなんなのか、さっきまであんなに怒られることを恐れていたのに。許してくれるのだからそれでよい、のに。怒って出て行けと言われるほうがつらいはずなのに。 そんなことを思いながら思案するように悟浄を見詰めていたら先ほど掴んだ悟浄の胸元のシャツが伸びていて。 「服、伸びましたよね」 「ああ、まあそれは」 気に入ってたしなこのシャツ、と。 わざとらしく怒った表情で、でも心なしか緩んだ顔が優しかった、から。 なぜだかこちらも、笑ってしまっていた。 なんだ、簡単じゃないか。 気が抜けた。なんだろう、自分が思っていたよりも物事は簡単だ。ただふたりとも、腹の中を見せ合いたいだけだった。相手の腹の中が見たいだけで、自分の内を知ってもらいたかっただけ。それが叶わなくて苛ついていただけ。 初めて、悟浄と暮らし始めてから初めてこんなに笑ったかもしれない。 先ほどまで怒鳴りあっていたふたりとは思えないほどに腹を抱えて笑い合いながらテーブルに乗せた空の器を片そうと立ち上がって、ふと。 「ところで、なんで天ぷら蕎麦嫌いなんですか?」 そうそう、それが残っていた。どうして天ぷら蕎麦ごときであんなにも頑なになるのかと。こちらを怒らせようとした以前になにか理由があるようだった様子に今更ながら疑問に思う。 「悟浄?」 「…汁に浸かって萎びた天ぷらの衣、嫌いなんだよ」 促すように名前を呼んだらためらうような間を空けて後言われた思わぬ子どもっぽい理由に笑いたくなった、けれどまた喧嘩になりそうだからやめておこう、そう思ったが、まあいいか少しはわがままを言えと嬉しい言葉も貰えたことだし。 「だったらそう言ってくださいよ」 「言えるか、」 「なんで」 「だって、餓鬼くせえじゃん」 「そんなの今更で驚く気にも笑う気にもなりません」 「なんか、性格良くなってねぇ?」 「光栄です」 「うわむかつく」 時計を見たらもうすぐ年越しの時間。わだかまりを新年に持ち越さないでいられたことになんとなくほっとしつつ。 遠く聞こえる鐘の音が静かに森に響いているのを聞いて。壁が薄いのも、案外捨てたものじゃない、なんて思って。 なんにせよ。 「来年も一年、宜しくお願いします」 「ああ、宜しく」 「末永く、でもいいんですけどね」 「…どういう意味よそれは」 訝しそうな声で訊かれてから、思わずポロリと出てしまったらしいセリフの内容と、残っていた重大な問題に気づいたけれど。 まあこの問題は来年に先送りにしてもよいだろう、むしろ来年の抱負にでもすべきかもしれないと頭の片隅で誓いながら、「さあ?」と誤魔化した。 |
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