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街から遠く離れた密林に潜むように建つこの家には、昨今のクリスマスムードなど届くはずもなく。 「今日、クリスマスイブなんですって」 「ふーん」 八戒不在の暇を持て余すように気になるでもない雑誌のページをはらはらとめくり、戻し、また開きしていた悟浄に、買出しから帰ってきた八戒が荷物をダイニングテーブルに大仰な音を立てながら置いて言ったセリフは特に好奇心を刺激するものでもなかった。 「興味ないですか?」 「興味ないですね」 がさがさとビニールを漁って所定の位置にものを収めてゆく八戒の背中に素っ気なく言う。慌しく動く片手間にコンロに火を点けたのを見てコーヒーがいい、と八戒が訊く先を見越して答えて自分も煙草に点火した。 「クリスマスねぇ」 紫煙を吐き出しながら呟く。 「そんなの今更だろ」 大体そんなことは賭場に通っていれば嫌でもわかることであるし。カウンターの横に場違いなほど輝くライトをつけた樅の木が飾ってあって、まだ十一月に入って間もないというのに気の早いマスターだな、と仲間内で忍び笑いを漏らしたこともあった。店に行くたびに嫌でも目に付くそのライトがうざったいと感じ始めたのは十二月も半ば過ぎたころ。日に日に増してゆく電飾の数に樅の緑色など隠れてしまっていて。 折角綺麗な緑なのに。隠さなくても飾らなくても、そのままの色でよいのにと。 「そうですか?」 八戒はコーヒーに対して特にこだわりはないらしい。時間があるときなどはきちんとソーサーを使って淹れるがそれ以外大抵がインスタントだ。沸いた湯を、粉を入れたカップに注いで銀製のスプーンで掻き混ぜてそれでお仕舞い。確かに豆から淹れたものや店で出しているものに比べれば味は落ちるが、八戒が出してくれるものならばなんでも美味しく感じるから不思議なもので悟浄はそれについて文句を言ったことはなかった。家事全般を請け負ってくれている彼に対してそこで不平を言うのは間違っているような気もするし。 テーブルに置かれたインスタントのそれから湯気が白く立ち昇って悟浄の吐いた煙と混ざってどこかへと流れてゆく。ドアや窓は閉まっているのに空気は止まらず動いているのだということがわかるその動きを目で追って、白が消えたその先にエアコンを見つけた悟浄はふと背中に薄ら寒さを感じてエアコンのスイッチを入れた。寒い。 「僕は今日気づきましたけど」 「おっせーよ」 毎日のように町に出かけているのにどうして気づかないことができるのか。町の飾り付けだって当日に近づくごとにクリスマス一色に染まっていっているのに。 「なんか最近街が賑やかだな、とは思ってたんですけど」 そう思って馴染みの八百屋のおばちゃんに訊ねたらなにを今更という顔でクリスマスだと教えられたと言う。イベントごとに疎い自分でさえ気づいたというのに。 相変わらずどこか抜けている。 「そうそう、」 まめなくせに間抜けな八戒のギャップの激しさを思って苦笑しながらハイライトを灰皿で揉み消した悟浄が熱いうちにとコーヒーカップに手を伸ばしたところで、八戒がふと気づいたように言った。背中のすぐ後ろで聞こえたそれにまたいつの間に背後に寄ったのかと、思うでもなく思う。 「僕らクリスマスカラーだって言われました」 赤と緑、そういえばそうだ。 ふーんと唸って両の手のひらでくるんだカップの温かさを感じていた悟浄は背後で笑いを堪えた調子でにやける八戒の顔など見えていない。寒さにも弱いくせに所謂猫舌である悟浄はどの程度の熱さかを確かめるために一口、カップに口をつけた、ところで。 「ふたりでひとつだって言われました」 コーヒーが咽喉に詰まってむせた。 「き…っしょいこと言うなバカ」 誰がこいつにそんなことを言ったのだ、例の八百屋のおばちゃんか? 恨むぞこのやろう、とネタを吹き込んだ顔も知らないおばちゃんを恨めしく思いながらコーヒーの熱さとセリフの恥ずかしさで火照った顔を俯いて隠す。背後から感じる視線で眺める八戒の目が悪戯っぽく光っているのだろうと予想をつけて。きっとあの賭場の、電飾に隠された樅の木を思わせる色で光って。 だから、隠す必要などないというのに。 「ああ、髪の色で言えば三蔵もクリスマスカラーですね」 相変わらず掴み所のない様子でふわふわとはぐらかす八戒の押し隠した笑いが背中に落ちて酷く憎い。焦って照れている自分が見当違いのようでバカみたいではないか、と今更恨んでも仕方のないことを考えている自分が哀れでしょうがない。 なにが聖夜だ。 「目の色で言えば悟空もだろ」 ふん、と鼻を鳴らしてそれこそ見当違いの場所に腹を立てて言ってやった。 むせたときに零さないようにと慌ててテーブルに置いたカップをもう一度手に包む。先ほどより幾分か冷めたそれはちょうどよい飲み頃でまさかそれすら八戒の仕組んだことなのでは、と変に疑った。 「…なんか、悔しいなぁ」 「?」 熱過ぎもせずぬるくもなく咽喉を落ちてゆく熱がじんわりと身体に浸透してゆく。ほっと息をついて浮かんだ白い息がなんだか面白くてもう一口、カップに口をつけたところで八戒が小さく言った言葉が気になって見返した先で、普段は見慣れない不貞腐れたような彼の顔にびっくりする。 「僕らよりふたりでひとつって感じじゃないですか」 「だからきしょいこと言うなっつの」 そんなところに悔しさを感じる八戒に脱力。 掴み所のない八戒の一番の難点は感情の起伏所がわからないところ、かも知れない。笑ったと思えばいつの間にか怒っているし、怒ったと思えばおどけてからかってきたりもする。突然優しい表情で笑んで、悟浄を驚かせることだってあるのだ。 本当に、質の悪いことこの上ない。その一挙手一投足から目が離せないなんて。 もしかしたら八戒は、悟空よりも子どもっぽい面があるのかも知れない。自分のことを保父だなんだと言うのなら少しは自分の行動も見直してみろってんだ、と腹立たしいような苛立たしいような気分で心中悪態をついていたら、「悟浄?」などと当の本人から呼びかけられてまたむせた。 「なにしてんです」 呆れたように溜め息をついて、自分用のコーヒーを淹れるためだろう、再びキッチンに戻ってゆく八戒にお前の所為だと怒鳴ってやりたい、けれどあとが恐いから言えない、情けない。 くそったれ。 ぶちぶちと文句を垂らしていたらかちゃかちゃとキッチンならではの音をが聞こえてきた。そういえば八戒がいないあいだに食べた昼飯の皿を流しに突っ込んだままだった。それに気づいたのだろう、ついでとばかりに洗い物を始めた八戒にちょっとだけ、すまない気持ちになる。 腹を立てて苛ついて、それでもこうやって彼を当てにしている自分には彼を怒る資格などないのかも知れない。誰にも頼らない風を装ってひとりでも生きられると突っ張ってみせても結局のところ八戒がいなくなったら淋しい思いをするのだろう。彼が買出しに出かけた程度で暇を持て余していることを考えれば今更出てゆけなんて言えっこないわけで。 からかわれるのも、少しばかり我慢してやったほうがよいのだろうか。 いや、なんだかそれもおかしいな。 湯気の立つコーヒーを片手に戻ってきた八戒の手が赤くなっている。冷たい水しか出てこない我が家の水道では皿洗いも一苦労だろう、申し訳ない気分で少しでも温かくしてやろうとエアコンを強めに設定しなおしたら「温度高すぎ」と怒られた。どうすればよいのだ。 「夕飯どうします」 悟浄が腰かけているためにソファに座れないからだろう、ソファ横にはみ出したラグの上に直に座ってコーヒーを啜りながら言う八戒。せめてクッションでもあれば身体が冷えなくて済むかもしれないな、なんて思ったが我が家にはクッションはない。どうすればよいのだ本当に。 「悟浄?」 「なあ、」 呼びかけも無視して問いかける。夕飯よりもこっちが大事だ、少なくとも今の悟浄には。 「湯沸かし器とクッション、どっちがいい」 「?」 「クリスマスプレゼント」 いつもだったら絶対しないけれど、たまには。 クリスマスくらいは労わってやろうかな、なんて。 驚いたように目を見開く八戒の表情を見ていられなくて考えている最中にすっかりと冷え切ってしまったコーヒーを啜った。歓喜する八戒の気配を汲み取った心臓が寒いはずの部屋で変に高鳴っていた。 「プレゼントなら、」 立ち上がって狭いソファでくっ付いてきた八戒の抱き締める薄い身体が温かいから、余計照れる。 「悟浄が欲しいです」 「死にさらせ」 ああもう、慣れないことはするものじゃない。 |
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