←戻 |
「あ」 晴れた空の下で真っ白い洗濯物を干していた八戒がふと気づいた感じで声を上げた。ぼんやりとした視線を遠くにやって、忙しなく動かしていた手元をぴたりと止めて。 「なに」 洗濯をしているときの彼の姿が好きだった。干すとき、皺をぴんと伸ばすその音だとか、畳むとき、滑らかに動くその手だとか。自分で洗ったくせに、すべてが終わったあと、綺麗なものに囲まれた彼が微かに漏らす自嘲の笑顔だとか。 彼自身の気づかない表情が見え隠れするこの瞬間が、好きで。 窓際でいつものように煙草をふかしながらその姿を眺めていた悟浄が、彼の思いがけず発したその声に素っ気なく訊ねても、八戒は空を見上げて固まったまま。張り出した庇が邪魔で、窓からは八戒の頭上を見ることはできない。 「なに?」 「別に、」 なんでもないです、と返すくせに視線はまだ空にあって。明らかになにかを追うその緑のベクトルが気になる。仕方なく悟浄は咥えていた煙草を灰皿に落として、規格サイズ外の彼にとっては低い位置にある窓から上半身を乗り出して八戒の視線の先を見上げた。 白くはためくシーツとどこか似たもののように真っ青に染まった空が太陽の澄んだ光を蔓延させて、寝起きの目にはこの上もなく眩しい。鋭いくらいの赤の切れ長をいっそう細く眇めてゆっくりと仰いだ空には。 ハート型に形を整えた白く浮かぶ、雲。 「…だから、なに」 「だから、別に、って」 素っ気なく答える声に八戒を見やれば、あんなにも頑なに視線を外そうとしなかったくせにいまはまるで何事もなかったかのように水色のバスタオルを広げて叩いているその姿。柔らかなタオル地のそれが、音とともに舞い上がり一瞬だけ空と同化しては、八戒の指に引き寄せられて返ってくる。何度かそれを繰り返して、竿にふうわり、と被せる手の動き。 「悟浄?」 本当に器用に、滑らかに動くものだ。同じ種類の生き物であるのにどうしてこうも特性が違うのか、自分の骨張った無骨な手ではせいぜい大工仕事がお似合いだろう、と、なんとなく見惚れていた悟浄は、八戒の呼びかけでようやく気を取り直す。 「そんなにハートが気になるんですか?」 馬鹿にしたように訊かれた。言い方に腹は立ったが、よかった、見惚れていたことは気づかれていないらしい。干し終わって空になった洗濯籠をぶら提げて、もう一度、ゆっくりと空を仰いだ八戒に、いつも彼がそうするよう、別に? と曖昧に返す。窓桟から乗り出した身体を戻して煙草に点火しながら思う。 空よりもお前を見ていたと言ったら、いったいどんな表情をするだろうか。 きっと、そう。 「アホ面」 「…え?」 一瞬、思考を口に出してしまったかのと思って焦ったら、八戒の台詞だったらしい。間抜けに上げた疑問符と白い煙が澄んだ空気に漂った。 「顔、緩んでますよ」 さらり、と八戒が言った言葉。なんのことかと悟浄が訝しく見返した先で、軽く細めた翠玉に太陽の強い輝きが宿った。 大きな白い初夏の太陽が頭上中空にかかるその少し前、まろい日差しの中佇む細いシルエットが、少しばかり下げた目を真っ直ぐに自分に向けてきている。八戒の意志の強さを現すかのような一対緑玉のその光が薄く漂う紫煙すら見透かし、悟浄のなにものにも溶けないはずの紅玉を簡単に混ぜ返して、乱すような。八戒の薄い口唇の端が軽く、歪んだ。 この表情に弱い。 「ほら、アホ面」 「…っ」 魅入った瞬間を狙ったように言われたその言葉に、悟浄は思わず絶句した。ハイライトが独特の匂いでもって燃えてゆくのを、吸うのも忘れて感じる。完璧に見透かされた状態、自覚した途端急速に火照る頬が昼日中の明るさに晒された。見ている八戒の顔がより深く笑みを刻むのがわかる。 悔しい、どうしてこいつには、こんなにも簡単に暴かれてしまうのだろう。 ポーカーフェイスには自信があったのに。 「お前じゃねぇよ」 悔しさと恥ずかしさに俯いて、流れた髪で顔を隠して呟けば、そうですか? と笑いながら。 「自惚れてましたよ」 それこそが自惚れた発言であるのに少しも悪びれもせずに笑い声に乗せて言う八戒。 自らの赤いカーテンに遮られて八戒の表情までは見えないのに、わかる。 絶対笑ってやがる。それはもう嬉しくてたまらない、というように。 涼風がふわり、と部屋に入る。赤い長髪を揺らしたそれが酷く憎らしく感じるのは、八戒が干した洗濯物の洗剤の匂いが微かにしたからだろうか、いっそ息を止めてしまいたいくらいだ。 そうすれば赤面も酸欠のせいにできる。 「でも、」 悟浄の内心の葛藤を知ってか知らずか、笑みを引っ込めた声で唐突に八戒は言った。 「あんなの、無理ですよね」 声が遠退いたように思うのは注いだ視線を剥がしたからだろうか、そう少し安心して顔を上げれば、またもや空を振り仰いだ八戒の姿。さきほどよりも遠く、悟浄からも見やすい位置に移動したハートの雲を見上げて呟いた八戒の言葉には、微か自嘲のようなものが含まれていた。 「だって、僕の心は、重くて真っ黒だから、」 あんなふうに飛んだりできない。 呟いた八戒の目が、喫煙者に忘れ去られて半分ほど燃え尽きた煙草の煙に霞んだ。その白にようやくその存在を思い出して悟浄は、摘んだ指先で灰皿に灰を落とし、なんとなく面倒になってそのまま押し付けて揉み消した。 香る風、煙草の代わりに洗濯物の匂いを思い切り吸い込んで。 「よかったじゃん、飛ばされなくて済んで」 呟く。 「重石がなけりゃ、今頃中身空っぽだぜ」 真っ白で軽く、ふわふわと漂う心。 そんなふうに飛ばされてしまわないように、心に重石を。 「…そうです、ねぇ」 見上げた先、風に引き攣れてそれは軽く裂けた。 |
←戻 |