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腹が減った。 どこぞの馬鹿猿のような言葉が頭を埋め尽くす状態では、吸った煙草の煙もなにかの糧のように吐き出すことを惜しむ。 昨夜馴染みの酒場で飲んだ新種の酒があまりに強かったのか、帰った途端安心したように震えだした身体から饐えた臭いを放つ液状の吐瀉物を吐き零した胃は、いまも焼けるようなむかつきでもって神経を刺激している、のに、それでも空になったそれはなにかを欲していて、その欲求は痛みと相俟って微妙な寂寥感を宿主に伝えていた。 腹が減った。 起き上がった布団はかなり乱れていた。嫌な夢を見たせいでうなされたのだろう、寝乱れたそれがうなされた痕跡を如実に伝えてきていたが生憎と夢の内容がはっきり思い出せない。布団の上で煙草を吸うと同居人に嫌な顔をされるのだが、今回ばかりは許してもらいたい。身体がだるくて移動することも億劫なのだ。ベッド備え付けのサイドボードに置かれた灰皿に手を伸ばすことすら、だるい。怒られることを承知で、窓から白く焦げた灰をぽとり、と落として。 「腹、減った」 言葉に出して余計に自覚する。 無性に空腹だ。 寝癖のついた髪が開けた窓から入ってきた風になびいて頬の傷を擽った。まろやかな刺激に軽く頭を振って毛先を払い除けたら、首筋が妙な痛みを訴えた。どうやら寝違えたらしい。 焦げた音を出して燃えてゆくハイライト、空腹で思考が鈍っているのか、吸うのを忘れて挟んだ指の近くまで灰と化したそれをじっくりと検分する悟浄の目はまだ、眠気という膜に虚ろに濁っていた。起きたばかりだから、というよりも昨夜の色々な余韻がまだ尾を引きずっているような様子。それをぼんやりと、窓外に向けて。 ベッド横の壁に小さく切り取られた窓から差し込むわずらわしいほどの日の光が寝惚けた目を刺激して眩しい。角度から想定するにいまは昼少し前、というぐらいだろうか。いつもなら家事をこなす同居人の慌しい音が聞こえてくるはずの時間、なのに先ほどから家は静まり返っている。どこか買い物にでも出かけているのだろうか、自分の呼吸と、耳鳴りに似た窓外の静かな喧騒がいつもより大きく響く家屋は、秋の匂いを多分に含んで蔓延する冷たい空気がいるだけで、人の気配が希薄だった。 空腹のせいだろうか、それとも二日酔いのせいだろうか。この、同居人がいついて以来久方ぶりに感じる静寂が、懐かしさを誘うどころか寂しさを煽るのは。 いつもなら。 「無理に起こして」 そう、いつもなら。 「無理にも食べさせて」 いつもだったら。 ただそこにある気配。 「なんで、いないんだろーなあ…」 八戒と暮らし始めてから、独り言が増えたように思う。独り言は淋しい証拠である、とどこかで聞いたことがある。だったら、誰にも頼らずひとりでいたときのほうがずっと多かったはずなのに。 なぜだろうか、同居以前よりも確実に増えた愚痴という名の独り言。 「なんでだろーなあ…」 呟いた声が寂寥という反響を家屋いっぱいに残してどこかへと去ってゆく。どこまでも響いて、どこかにいる八戒の元へと届いてくれはしないだろうかと思うにつけ淋しさを自覚する。 いつのまにか、知らず知らずのうちに馴染んでいた空気。 ああ、とため息をついた。 と、 「起きてますか」 控えめなノックとともに待ち侘びたような声音が聞こえて無駄に安堵した自分がいたことに不思議と納得する気分で。 「悟浄?」 名を呼び、ノックの意味もこちらの返事も無視して勝手に入ってくる八戒の気配が、ひとりきりで物足りないと感じていたこの空間を充足する。 「おはようございます」 いつも。 通常起きるべき時間の外に起きてくる悟浄に対して、八戒はこの言葉を投げかける。昼前の中途半端な時間に起きだしたときでも、夕方転寝している自分を食事に起こすときも、情事後夜更けふと目が冷めた瞬間でも、いつ何時でもその笑顔にいろいろな色を纏って彼は悟浄にこう言うのだ。おはよう、と。 はじめは違和感を感じていた。それは擽ったさに似た微笑を誘うもので。ひとりのときは誰彼に挨拶を交わすなんて当然のことすら忘れていたから。 昼間には似つかわしくないこの挨拶すら、当然のように受け止めることができるようになったのはいつからだろう。 「…おはよーさん」 こう自然に返せるようになったのは、いつから。 「どうしたんですか」 ぼんやりと見詰めたまま物思いに耽っていたら八戒が問いかけてきた。 「寝惚けてますね」 ふんわりと笑いながら言われれば別に寝惚けてなどいないと返すものの、実際いま自分が起きているのかはたまたいまだ夢の中にいるのかその区別が悟浄にははっきりとつかなかった。視野にいる八戒の輪郭が眩しい陽射しに蕩けそうで薄いから。あまりに柔らかく、包み込むように笑うから。 先ほどまでの淋しさが夢なのか、いま安堵している自分が夢なのか、曖昧だ。 「なにか、ありましたか?」 無反応に凝視する悟浄に笑ったまま訊ねる八戒はいまだ扉付近に佇んだままだ。部屋はそれほど広い造りではないもののそのように空いた空間が悟浄には無駄に思えて、もう少し傍に来て欲しいなどと甘えたことを考えてから、なにをそんなに淋しがっているのだろうと少し自分を罰した。ここにいるだけで、いてくれるだけでいいじゃないか、と。こうやってなにかを手に入れたと思ったら次が欲しくなってしまうのは悪い癖だ、自粛しなくては。 そんな風に茫洋としたまま考え込んでいた悟浄は、訊いたまま答えを求めてこない八戒が口元の微笑を手のひらで不自然に隠したことに気づかなかった。 「別に」 だいぶ間を空けてから素っ気なく言った。 別になんでもない。ただ淋しかっただけだ、と。 そう心の中で呟いたら。 「淋しかったとか」 見詰めたままの先で見事に核心を突いた八戒の緑の目が、す、と細くなった。たぶん悟浄だけが知っているだろう色。八戒が悟浄だけに対して駆け引きに出たとき、いつも必ず見せる色。 無意識に身体が強張ったのが自覚できた。 「ありえない」 極力平静に言ってハイライトを咥えた。たぶん癖になりつつあるこの行動。考えてみると八戒の詰問を誤魔化すときや照れ隠しにいつも自分が取る行動は煙草を咥えることだった。悟浄自身ですら自覚しているのだからきっと八戒だって気づいている。本当は誤魔化す必要などもうとうにないのかもしれない、そう思ってもやはりこれだけは治せないらしい。誤魔化しているのだと、あからさまに見せ付けたいのが本心なのかもしれないけれど。 思案しながらさきほど布団の上に投げたジッポの行方を捜して彷徨わせた指先が金属に触れる、直前。 するりと伸びてきた八戒の手に捕らえられてようやく悟浄は八戒が傍に寄っていたことを知った。 「無理に…」 なんだと言おうしてと見上げた八戒の形のよい口唇からことさらゆっくりと紡がれる言葉。 「起こして、無理に食べさせて欲しかったんですか」 咥えたハイライトがぽとり、と間抜けな音を立てて柔らかい布団に落ちた。 どこかで聞いたセリフだ。先ほど漏らした、独り言。 「お、おまえ、」 「いましたよ、さっきから」 どもりながら言わんとしたことに先に答えを差し出して、八戒が握った手首をやんわりと締めた。 「ちょっと転寝しちゃってたみたいなんですよね、僕」 早めに食事の支度を終えてしまったから、もう少ししたら起こそうと思っているあいだにうとうとして、と。 「それで慌てて起こしに行ったら」 聞こえてきたんです。 さも偶然のように語っているが、笑ったままのその表情はそれが決して偶然ではないのだということを克明に提示していた。大体独り言なんて聞く意志を持って聞かなければなにについて言っているかなんてわかりっこないのに。 「淋しかったんですか?」 お見通しなのだと笑む八戒は、明らかに故意犯だ。 どうにもこうにも、この男は。 「淋しかったんでしょう?」 「ありえない」 「淋しかったんですね」 「聞けよ、ひとの話」 「ええ今日はなんでも、我がまま聞いてあげますよ。淋しい思いさせちゃったみたいだから」 どういう理論展開でそうなったのか。 気づけばすっかり八戒のペースに押され気味で悔しくて。しかし腹が減ってはなんとやら、立つ腹も怒る気力もない状態であるからとりあえずなんでも我がままを聞くというのなら「じゃあ、早く飯を食わせろ」と言いたい、のに、この手首に感じる温もりと八戒の気配が傍から消えるのが嫌でそれを言葉に出せないままにいる自分は、もう悪あがきなどせずに自粛など決して無理なことなのだと悟ったほうが軽くなれるように思うけれどそれも無理な相談だ。 そんな悟浄の手首を捕らえたまま八戒がまたゆっくりと言葉を吐いた。 「きっと、知っちゃったからじゃないですかね」 ああ、まただ。 儚く薄く笑んだ八戒がまた、夢のような心地で境が見えない。 現実に引き戻すように「なにを」と訊いた自分の悪あがきは果たして通用するだろうか。 緑の目が視点を定めるのを確認して。 「淋しい、っていうことを」 今まで知らなかったそういう感情を。 淋しさに塗れているときはそれに気づくことなどできないから。温もりを知って初めて理解できる感情。 「僕と出会ったから、ですよね」 真っ直ぐに直視してくる八戒の笑顔。握られた手首に繋がるその身体。 「これは責任、取らないと?」 「…淋しかねぇよ」 「そうですか」 笑った口元が重なってそこから伝う生温い感覚が、ここにいる八戒の存在を明らかにしていた。 「僕は、淋しいですけど?」 悟浄がいないと。 「責任、取ってくださいね」 「…そういうセリフを笑いながら吐くな」 「照れ笑いですよ」 綺麗な面に塗られたその表情が、今まで幾度となく見詰めてきたどの瞬間よりも綺麗に見えてまるで魅入られたように凝視してしまった悟浄はそれを誤魔化すためにそっぽを向いて。 「どこがだよ」 今の俺のほうが、よっぽど照れてる。 掴まれたままの手首にじんわりとしみこむ八戒の温もり。 とりあえずその手を放してくれないと煙草で誤魔化すこともできないじゃないか、と思いながらやはりそれを振り払えないまま、悟浄は窓外を見詰めた。 |
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