←戻 |
例えばの話。 自分が八神などというものを背負っていなくて、血の呪いなどなくて、炎などなくて。ただ単に普通の、一人の人間として生きていたなら、と。 たまに、最近は頻繁に、そう願うことがある。 クリスマスの終わった街は一瞬にして装いが変わる。年末のごった返した街並みに派手とも取れる清潔さの欠片もないイルミネーションが光り中途半端に残された日本の伝統が小さく主張して違和感を放つその光景は見るものに不安と安堵との相反した気持ちを呼び起こして。 高層マンションの最上階、とまではゆかなくとも案外と眺めのよい位置にある自分の部屋からまるで下界を見下ろす神のような心境で街並みを、イルミネーションを眺めていた庵はそんな風に変わりゆく街並みを憂いては憂えている自分を咎めるようにくだらない、と心中呟くことを繰り返していた。 なんだか無性に、苛々する。 ここにいるのが神ならば、神とはなんと虚しい種だろうと、そんな意味のわからない虚しさに取り付かれている。好い加減見飽きた夜景をカーテンも閉めずに捨て置いて、それでもなぜか気になり窓傍による己の行動が不可解だ。 大きく切り取られた窓とその下の光の流線を目で追いながらなにかを探しているような。 背後に置かれた詰めかけの旅行鞄を、光の線に視点を置いてなんとか目の隅に追いやろうと必死になっている。 来るわけはない、約束をしたわけではないのに。 待っているのか。 「…くだらん」 なにをそんなに弱気になっているのかと思う。たかが実家へ帰省する程度、なんてことはない。 新年の挨拶だなんだと親戚を呼ぶからには次期当主不在のままでは成り立たない、と言う祖母の意見は正しい。毎年年末になると家に電話をかけてきて、毎年年末になると同じ言を繰り返す祖母の表情は電話口では悟れない、けれど幼いころから見てきた彼女の顔はポーカーフェイスのまま決して崩れたりしない。そのことを考えれば、そう、幼いころ見た顔のまま、ポーカーフェイスで無表情で、静かに射殺す目をして話しているのだろう。 実家に帰っても、労いの言葉ひとつもかけない冷たい態度。 今年はまた随分と連絡を寄越すのが遅かったような気がする。昨日の夜、眠れなさに任せて茫洋と寝酒を呷っていたら普段はあまり鳴らない家設置の電話の音が突然響いて思わず呷っていた缶ビールを零してしまった。 「新年は、こちらへと帰ってくるのでしょうね」 祖母はしばらくのあいだ無言で。ようやっと口を開いたと思ったらそんな風に付加疑問にして問いかける。決定事項を確認しに掛けてきただけだ、という感じだ。 「はい」 彼女の前で躊躇することは許されない。流れるようにはっきりと返事を返して。 「そう、それならばよいのです」 交わした言葉はそれだけだ。 正直自分は祖母が恐い。幼いころから実の両親よりも身近にいたというのにどうしても懐くことができなった。傍にいても常に姿勢を正し常に気を張って誰彼にも舐められまいと強く思って。 そんな彼女の取っ付き難さを垣間見るたびに思った。 彼女は八神の家、そのものなのだ。 家は彼女の誇りで、家を守ろうとすることは自分の誇りを、延いては自分を守ることに繋がると信じてやまない。縛られているのだ。 そんなあの人と今の自分は、どこか似ている、のかもしれない。 と。 ピンポンとやかましく鳴る玄関チャイムの音にふと気を取り直して時計を見れば、もうすぐ日付の変わる時刻。こんな時間に尋ねてくるのはひとりしかいない、とため息をつきながら、先ほどまで眺めていたうるさい夜景を遮るためにさして厚くもないカーテンを、音を立てて閉めた。彼の姿を探す必要などなくなったからというわけでは決してないけれど、と言い訳をしながら。 玄関先に立った途端にぴたりと止んだチャイムに少し驚きつつもそれを悟られないようになるべくゆっくりとドアを開けて。 「八神、」 「また、貴様か」 決まりきったように眉間に皺を寄せて下からねめつけるように見上げれば、こちらも決まりきったように不敵に笑いながら「わかってんだろ」とわけのわからない自信過剰なセリフで、どうぞと言う間もなくドアの隙間から身体を捻り込ませてくる京の背後から冬独特の冷たい空気が追い縋るように侵入してきた。断りも遠慮もなくずかずかと入り込んでくる空気がどこか彼に似ていて入るなとばかりにドアを思い切り閉めたら京のコートの裾がドアに挟まって馬鹿みたいに後ろに仰け反る彼に笑いを禁じえない。 「なにすんだよ」 不機嫌に睨みながら挟まれた裾を引っ張って無理に引きずり出す仕草が間抜けだ。 「なにをしてるんだか」 不思議に思う。 それほど広いともいえない玄関先に常人よりも体格の大きなふたりが話し込むほどのスペースがあるはずもなく、今更彼に出て行けと言っても無意味なことはわかりきっていたので仕方ないというようにほったらかしてさっさと敷居を跨ぐ自分に浮かんだ晴れやかな笑顔が。先ほどまで憂鬱に思っていた気持ちすらも晴れるように、彼に会っただけでこんなにも楽しそうな笑顔を曝け出している自分が不思議だ。 浮かんでいた笑いを引っ込めて、なにを笑っているのだと自分を罰する自分と、それでも彼に安堵を覚えているもうひとりの自分は、一体どちらが本物なのだろうと思う。 「実家、帰るのか」 「…」 旅行鞄に詰め込まれずに放置された荷物が乱雑に散らかされた室内に入った途端ここへ来た理由も告げずにそう言った京の視線から逃げるように鞄の傍へとしゃがみ込みながら、庵は沈黙を返す。 恒例行事となったそれを彼がわからないわけがない。なにも答えずともそれを肯定として受け取って同じだけの沈黙を返してくる京の顔は果たしてどのような表情をしているのだろう、荷物を詰める作業に没頭する振りをして気にならない風を装っても知りたいと思う気持ちは止められない。しかしそれを見てしまったら。ひとつの確信だけが庵の衝動を留めさせた。 帰れなくなる。 「帰るな」 そう言って抱きとめる背後を振り返ってしまったら。 「そういうわけにはいかない。何度言わせれば気が済む」 手元の作業は止めない。帰るという意志を教示するように頑なに荷物を詰めながら素っ気なく、なるべくなら感情を悟られない声で突き放す。祖母と同じように。 勝負を仕掛ける時期を読み誤ってはいけない、と教えてくれたのは祖母だ。あの冷たい家の中で対面しながらこれからはお前が八神家を背負ってゆけと宣告を受けたそのあと。家と同じように冷たい声で言い放った彼女の声はまさに今の自分の声と同じだ。あのとき、彼女は誰に対して勝負をかけていたのだろう、自分に代わって八神の家を背負う立場に立った庵に対してか、それとも家そのものか。家という重荷を下ろした安堵も感じられない声音だった。 詰め込んでも詰め込んでも旅行鞄は埋まらない。だのに重さだけは増えてゆく。ずしりと骨に響く重荷。 「何度でも言うぜ」 残酷だ。突き放しても意に介せず戻ってくる彼にいくら勝負を挑んでもするりするりとかわされて暖簾に腕押しであるのに。 「帰るな」 「これは、決定事項だ」 それでも自分は挑まなければならない。それが八神として生まれた自分の生きる意味だと、直接的に教え込まれたわけではないのに、自覚している。 「帰るな、庵」 「うるさい!」 思わず呼ばれた自分の名前を聞いた途端ヒステリーを起こした子どものように鞄を叩いてしまった。その音と声に背後から抱き締める彼の腕が一瞬緩んで逃げるように顔を背けたまま身体を遠ざけた。 臆病な自分を笑いたい。勝負を挑んでおきながらこうして逃げているなんて。 でも恐いから。 「名前を、呼ぶな」 八神と、そう呼ばれないと、自分に戻ってしまう気がする。 幼いころ彼と遊んだ、彼に呼ばれた、あのころの自分に。 「貴様と馴れ合う気はない」 昔のことなど思い出す必要などないのだ。昔の自分と今の自分は違う。彼と遊んだ記憶が懐かしくないといえば嘘になるけれどそれは今の、八神を背負った今の自分には必要もなく、必要のないものは切り捨てなければならない。馴れ合った記憶など遠いもので。 だから、祖母に習った八神の顔が崩れる前に。 「帰れ」 背後にいる彼の気配に吐き捨てる。 帰ってくれ。これ以上苦しめないでくれ。 年が明けてなにが起こっても変わらない。結局あのころの遠さにはたどり着けない。戻るにはもう、変わりすぎた。 「帰らない、だからお前も帰るな」 「好い加減にしろ、草薙」 わざとだ。 いつもは京、と呼び捨てるくせにわざとこう呼んでお前は草薙なのだと、彼は草薙なのだと、彼と自分を戒めるために名前を呼ぶ。 「お前、可愛くねぇこと言うなよ」 「貴様に可愛いなどと言われるくらいなら死んだほうがマシだ」 頭を抱えて蹲りたい気分だ。 もう、うるさい。 これ以上惑わすな。 「じゃあ、死ねば?」 ふと遠ざかった彼の気配に安堵する間もなく。 語を噛み締めるようにゆっくりと差し出された言葉に、庵は絶句して京を見返した。背を向け、先ほど締めたはずのカーテンを勢いよく開ける彼の横顔が華美すぎる夜の光に照らされて。 振り返った彼の顔は不敵に、笑っていた。 垣間見えたはずの切なさをその笑顔に押し隠して。 「…なんだと」 「死ねるもんなら、な」 呆れたような音で挑発的にため息を吐いて、自嘲するような響きを伴って継ぐ京の言葉とそれを照らすネオンが赤青交互に光って目が、眩んだ。憎たらしいとも思える京の態度が腹の中に蹲っていた怒りを思い出させて。 「だってお前、俺を殺すまで死ねぇんだろ?」 そうだ、それが八神の宿命。 草薙を殺さなければ八神は生き続ける。 「でもな、生憎と」 息を吸うにしては大きな間が開く。逃げるなら今がチャンスだと気づきはしたが、逃げる度胸もなかった。聞きたいと思う心で耳を塞ぐこともできない。 本当に臆病だ。 「お前が死ななきゃ俺も死ねねぇんだよ」 死なないとは言わない。死ねないのだと、そう言い切る京の目が華美なネオンに掻き消されずに光っている。反射光ではない、彼の瞳そのものの光は彼の炎そのままな色で。 真っ直ぐに射抜かれた庵の心が焼けそうに痛む。 知っていた。庵が家に執着しているというのなら、京は、庵という人物に執着している。八神である庵、呪われた庵、庵と名のつくすべての庵に、執着しているから。 「だから、俺は生きるぜ」 お前を死なせないためにも。 言葉に出されない彼の本心が聞こえた気がして、なにも言えなくて。 だから。 「…いつか、殺してやる」 「ああ、楽しみだな」 負け惜しみと憎まれ口。 可愛げがないのはお互い様だ。 もうすぐ年が明ける。 こうして、彼を殺せない年月が増えてゆく。 彼を殺せない理由も増えて、ゆく。 |
←戻 |