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今年もまた、このうるさい季節がやってきた。 「庵〜」 12月に入って間もない頃、気温も一段と低くなり寒さが満遍なく居座る庵の部屋は人の住んでいる空気など一切ありはしない。キッチンにすらも必要最低限のものしか置いておらず、まるでモデルルームのようだと自分でも思いながら熱いコーヒーを淹れようとコンロの前に立った庵の耳に、嫌でも聞き慣れてしまった声が聞こえてきたのはそんなときだ。と同時に、庵はあからさまな嫌悪を交ぜた深いため息をついた。「来たな」と心中呟く。特に盗られるものもないからといつも無用心に開け放している玄関扉を、この声が聞こえるたびにきちんと鍵をかけなくては、と誓うのに毎度のように施錠をしない自分が間抜けで憎たらしい。 そしていつものように、彼の分のコーヒーも注ごうとしている自分にも。 いつの間に持ち込まれたのか、きちんと洗われて伏せられている彼用のカップに手を伸ばしかけたところではたとそう思った庵は、誰に腹を立ててよいのかわからないまま幾分むっとした表情で自分の分のみ熱いコーヒーを注いでキッチンから足を踏み出した。 「相変わらず、うるさい男だな」 足元を見たまま、邪険に扱うことが当然となった物言いでそこにいるであろう男に嫌味をぶつける。キッチンの前に陣取っているらしい彼の薄く汚れた靴下に包まれたつま先が見えてこの光景を見るのは一体何度目だろうと、それこそ何度目になるかわからないため息を繰り返す。とりあえず本日は二度目のため息だ。彼と出会ってから吐いたため息の数を数える気など更々ない。 「なんの用だ」 わざともなにも捨て去って本気でわずらわしそうに眉を顰めた顔で振り仰いだ庵の視線の先には言わずと知れた草薙家の次期当主様が、しかしそんなお偉い立場にいることなど微塵も感じさせない緩い風体で突っ立っていた。 いつになっても卒業できないために延々と着続けている学ランの上に、これも着古して薄く汚れた白のダッフルコートを着込んで息を切らせながらいる京からは外の寒さを感じさせる冷たい空気が漂ってきている。ということはこのコンクリートだらけの室内も少しは寒さを凌ぐ力があるということか。それとも、体温の低い自分がいるだけで少しは暖かくなっているということだろうか。 寒さに頬や鼻の頭まで赤く染めている京を見ているとその間抜けさを笑い飛ばしたい気持ちになる。自分は特に寒がりでもないからそう思うのだろうけど、手に持ったコーヒーカップから段々と熱さが滲み出してきて、暑さに弱い自分にとって夏が鬼門のように、京にとっては冬がそうなのであろうと思った。 「俺のは?」 いつまでもふたり、キッチンの前に立っているのも馬鹿らしいとソファのほうへ移動してカップをテーブルの上に置いたところで、コートを脱ぎながら京が訊いてきた。一瞬なんのことだと考えてから、たった今置いたばかりのコーヒーカップを思って納得する。 「知らん。自分で淹れろ」 冷たく言った背後で動きを止めた京の雰囲気ががらりと悪質なものに変わる。いつもこれだ、少しでも気に食わないことがあると途端に不機嫌になる。 これから浴びせられるであろう悪態や嫌味を予見して庵は本日三度目となるため息を、三度目の正直とばかりに今度は盛大についた。 意地でも淹れてなどやるものか。 そう心構えを決めて。 「寒ィ中着てやった恋人にその言い草かよ、庵ちゃん」 「誰が恋人だ! ついでに来てくれと頼んだ覚えもないっ」 怒鳴ってから、しまった、と思う。きつい眼差しで睨んだ先でにんまりと笑んでいる京の顔が見える。駄目だ、これではこの男の思う壺ではないか。いつものパターン。京のペースに巻き込まれたが最後いいようにからかわれるだけだと身をもって知っている庵は、どんな反応が返ってくるかと不敵に笑っている京に腹を立てながらも極力平静を装ってコーヒーを勢いよく飲んだ。 途端、その熱さに舌を焼かれてむせ返る。 「だせぇ」 「うるさい!」 自分でもそう思った矢先に原因となる彼に笑いながら突っ込まれて、庵は腹立たしさと恥ずかしさで顔を赤く染めた。間抜けにも程がある。長く垂らした前髪がうまいことそれを隠してくれはしないだろうかと思う前に、苦笑した京が「待ってろよ、牛乳持ってきてやるから」と言って手に持ったままだったコートをソファの背凭れに乱雑に掛けた。 「余計な、」 世話だ、そう怒鳴ろうとして口を開いた、瞬間だ。 ふわりと目の前に黒い髪が散りそれが庵の頬をくすぐる感触と一緒に、口唇に彼の濡れたそれの感触が。 「消毒。いつもより熱いな、中」 殺してやりたい。 言い逃げるように背を向けてキッチンへと消えた男に対して素直にそう思う。 男相手になにが消毒だ大体貴様がそんなことしたら逆に汚れるだろうに消毒だと言うのなら少しは口中綺麗にしてからすればよいものをまったく煙草の匂いが口に残って不味いことこの上ない。 寒いはずの室内で熱さに当てられたように鳴る心臓を掴んで。 先ほどよりも広がったように感じる頬の火照りをどうにか隠す術はないものかと。 もう少し、前髪を伸ばす必要があるかも知れない。 「あ、そうだ」 キッチンからミルクと、自分用のコーヒーを淹れて戻ってきた京からは先ほどの冷気など感じられない暖かさが纏っていた。もともと体温の高い体質なのだ。冷えてもすぐに回復するその温度が、体温調節のうまくできない庵には羨ましいとさえ思う。 夏には健康的な肌の色を曝し、冬には寒さをも上回るその太陽のようなピーカンさで笑顔を絶やさない彼。不機嫌なときは不機嫌になるし嬉しいときには嬉しそうに笑う、包み隠さず感情を面に出す表情。しかしそういえば切ない、哀しい表情というものを見たことがないように思うのは気のせいだろうか。常に幸せそうに笑む彼からは、夜の暗さを纏う自分に反した明るい昼日中の色しか感じたことがない。柄の悪い態度でいるにも拘らず、だ。 庵の座っているソファの横に無理やり腰を落とした京のぞんざいに開いた脚の形にしても、どこぞのチンピラのようにしか思えない。その深い黒耀の瞳だって、夜の色であるのに少しも暗さを感じさせずに。 「なに見惚れてんだよ」 「違、」 検分するように思わずじっと見詰めてしまった庵に、からかう言葉で笑いながら京が言う。暗に見るな、と言っているようなのは気まずいからだろうか。しかしはたと気づいて逸らした視線の隅で照れたように笑う京が見える。見詰められたことが嬉しいとでもいうようなその表情が少しばかり可愛い、などと思ってしまった自分を叱咤して。 「で、結局なにをしに来たんだ貴様は」 更に続けてからかわれそうな勢いでにじり寄ってきた京に、誤魔化すようにわざわざ訊くまでもないような話題を振った。 「ああ、そうそう、」 単純馬鹿な彼の仕組みは簡単で、今さっきまで庵をからかいまくろうと意気込んでいたにもかかわらず自分の目当ての話を振られた途端にその今さっきなど忘れたようにそちらに集中する。熱しやすく冷めやすいというのか、新しい玩具には大雑把にでも興味を示す幼さ。 「毎度のことだけど庵、二十四と二十五日、空けとけよ」 やっぱりな、と。 今更訊くまでもないのだ、この時期の彼の目的は明白で。 そしてもって自分の答えだって明白で。 「毎度のことだが京、俺は貴様に付き合ってやるほど暇じゃない」 「なんでだよ」 子どものように拗ねた表情。くるくると変わる顔は二十歳を過ぎた今でも充分幼さを残していて、本当にこいつが自分の同年代で草薙家の当主なのかと、出会ったころはよく疑ったものだ。 そして今でもその疑いは晴れない、どころか逆に深くなったように思う。 育ちの違いか、自由奔放な彼とは正反対に自分を押し殺して育った庵には彼のどこまでもわが道を行く傲慢さが理解できない。家の為に己の欲など犠牲にするのが当主としての役割ではないのだろうか。そう教えられ育った庵はどこまでも、それこそ自分の命すらも家に捧げて。 それが苦痛に感じたことがないと言えば嘘になる。幼いころには自分の道を毎日のように呪った。せめて自分の自由になる生が欲しいと、切なく思った。しかし。 仲良くなる友人たちが祖母や家の力により遠くの地に追いやられる度に、彼らを不運にした自分は幸せになどなるべきではないと。家に縛られる苦痛すらも、不運と感じるべきではないと。 そうやって自分を押し殺して。 「なんで空けられねぇんだよ」 今更振り返っても仕方のないことを考えていた庵に返事を催促するように京が詰め寄ってきた。意図せずであるが無視した所為だろうか、先ほどよりも柄の悪くなった口調で問いかける彼の黒髪の下に隠れた黒耀の目が睨むように庵を見ている。 まったく、本当に子どものようだ。 「なぜ空けとけばならないんだ?」 「だって、クリスマスだぜ」 わざわざ訊くまでもないようなことをわざと訊ねてやれば、待ってましたとばかりにぱっと表情を明るくしてうきうきと即答してくる。 彼が庵に纏わりつくようになってから、毎年のようにこのやり取りを繰り返した。そして毎年のように断固とした拒否を露わにしているのに結局当日には押しかけてきて好き放題している京、その執念には正直脱帽だが、逆にそこまでする価値がこのクリスマスという日にあるかどうか不思議にも思う。 聖人だろうがなんだろうが、とうの昔に死んだ人間の生まれた日を祝ってなにが楽しいのだろう。 神などありはしない人生を歩んできた自分にとってそれは無意味に等しい。彼もそうではないのかと、神など信じてはいないのではないかと、そう思っていたのに。だって彼は草薙だから。そう考えると、お前は本当に草薙家を背負って立つ立場にいる自覚はあるのかと腹立たしい思いが募るばかりだ。こんなふざけた男を相手にして生死を賭ける戦いに身を置いている自分に同情したくなるような、気分。 まったくもってくだらない。 「神への祝福なぞ、無意味だ」 本心から出た言葉。祝う意味すら見つけられないことに時間を浪費する意味など、ない。 「祝うんじゃねぇ」 冷たく言い放った庵に対してしばし逡巡する間を空けたのち、京が柔らかく言った言葉に庵は目を見開いた。 「祝うんじゃ、ねぇよ」 願うんだ。 「今生きている俺たちは、あんなふうに、死んだりしないように」 生きるための願いを掛けるその大切な日に、一緒にいたいのだと。 困惑した。 隣に座って前を見たまま、どこか遠くを見やる表情で呟いた彼の黒い瞳が、戦いでは決して見せないような不思議な色を讃えていて、なぜだか途轍もない切なさが込み上げたその理由は、一体。 なぜだろう。ただ、痛い。 わからないまま心臓を押し潰されるような痛みに顔を顰めて。 「お前を殺すのは俺だぞ」 「知ってる」 「そんな奴と一緒に生きるための願いを唱えるというのか貴様は」 「そうだよ」 「…馬鹿か」 「結構だね」 笑んだ彼の、真冬には不似合いな太陽のような笑顔に胸が焼かれる。 「しょーがねぇじゃん」 痛みに俯いた庵の長い前髪を弄びながら京が苦笑した声で言う。 「今のところ、一緒に生きたいと思う奴がお前しかいねぇんだから」 そのセリフに、今年ぐらいは一緒に過ごしてやってもよいかという気持ちになったことは、当日まで黙っておいてやろう。 クリスマスまで、まだまだ時間はたっぷりある。少しはこちらにも余裕を持たせてくれ、と。 もう少しだけ、前髪を伸ばすための時間を。 |
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