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明け方近く、だと思う。 いつものことだった。彼と同じベッドで寝ていると、この時間彼の手が妙に器用に動き出す。 八戒に背中から抱きすくめられるように寝ていたから、前面はガラ空きだ。滑るように撫でられて思わず身を竦める。肌の感触を楽しむように動きのなめらかなその手を自分のそれで押さえつけて、一瞬止まったそれに安堵するのも束の間、こちらがうとうととしだした頃にまた動き出すから質が悪い。こちらも寝惚けていたりするから割と素直に声をあげていたりして、その声で目が覚めたりしたらそれはもう最悪で。 「は…」 湿った息が漏れた。慌てて布団に押し付けたが、それを吸い込んだ安い肌掛けの綿が思いのほか高温を帯びて、逆に体に染みこんでゆく。 八戒が寝惚けているのはわかっているのだが、昂ぶってゆく体を自制することはできない。叩き起こそうにも、以前そうして起こしたあと、まるで自分だけが勝手に盛り上がっているかのような目で見られ、不潔、と罵られた身としてはあまり積極的になれない。じっと耐えているだけというのも馬鹿らしいが。 慣れた手つきで肌を弄るそれは到底寝惚けている人間のする動きではないが、事実寝惚けているのだ。覚えているかどうか、恥ずかしいので訊いたことはないのだが、叩き起こしたときの心底呆気にとられたような顔を見れば覚えているはずもないだろうと思う。こちらの肌を行き来する手の動きも、起きているときの性急な仕草とは別に至ってじっくりと、丁寧である。普段むっつりすけべだからこういうときにだけ本性が現れるのかもしれない。 ふと、この寝惚けた状態でどこまでできるものなのだろうと、くだらないことが気になった。まさか最後まで、なんてことはないだろうけれど八戒ならやりかねないとも思うからなんとも恐ろしい。エスカレートしてゆく様に今回こそは起きているのでは、と様子を伺うために顔を上げたところで、八戒の手が、悟浄の頭のつむじあたりに置かれた。いつもの動きだ。ゆっくりと圧力をかけて、そのまま、彼自身の下半身に近づけようとする。普段なら逃げるのに、下手な好奇心から気を許してしまったのが運のつき。 緊張で詰まっていた息を軽く吐き出し、真っ暗な布団の中に埋もれているため見えはしないが触感で少しだけ兆していると感じられるそれにおずおずと舌を差し出した。先に少しだけ添えて擦り、一息に咥え込む。 「…なにしてんですか」 唐突に布団が剥がされた。その勢いでかき混ぜられた秋の空気が皮膚を滑って、鳥肌が立つ。 「寝込みを襲うなんて、不躾ですね」 「お前に言われたく、」 「まだ途中です」 反論するために吐き出したそれを、言葉の途中でまた無理やり含まされた。 「歯、痛い」 ない、という語尾をそれでも言おうとして、多少噛んでしまったことで八戒が言う。痛いと言いながらその歯がいわゆる、彼のイイトコロに当たってしまったようで、口中に含んだ八戒がまた一段と硬さを増し、八戒の息が一瞬つまるのがわかった。彼の腹に這う古傷のあたりが、力んだことで変に歪む。 「そんなに、したかったんですか。いやらしい」 たまさかのことを性急に掻き立てようとしていると感じたのか、八戒が笑った。 彼なんか寝惚けながらでも動いているくせに、まったくどっちがだ、と腹を立て、またも顔を上げ反論をしようとしたらつむじにかかる圧力が増した。 「思う存分舐めていいですよ。好きなだけ」 「…ッ」 脳天への圧迫とともに咽喉の奥まで押し入ってきたそれが、口蓋垂を触って嘔吐感を誘った。苦しさに嗚咽を漏らし、口中に溢れてきた唾液を口の端ぎりぎりで吸い込む。濡れた音が部屋に反響しひどく耳に障った。 どうやら彼は、解放する気はないらしい。こちらの長い髪の毛に絡ませた指と押さえ込む力の加減でその様子を汲み取り、苦々しい思いでため息をつこうとした。けれど口中に異物がある状態ではうまくつけず、鼻の奥から変な音を出しながら空気が漏れただけだった。押さえ込まれた現状では逃げる術もないものだから、集中したほうが得策だと思い意を決して舌を動かし始める。 丹念に唾液を絡ませ、その滑りを借りて添えた手のひらで表面を撫でる。息苦しさに目を眇めながら顎も軽く上下させると、傷跡がまた歪み始めた。伸びたり縮んだりする傷口を見ているとまるで八戒に嘲笑われているような気分になる。腹立たしくてそこを引っかくように撫でたら、意外にも心地好いのか八戒の声が上ずった。同時に舌にぬるりとした感触。いわゆる先走りとか呼ばれるものが先端から溢れたところで、押さえ込まれた頭への力が一瞬、緩んだ。 ここぞとばかりに顔を上げる。また力押しで含まされるかと思いきや案外すんなりと解放されたので、勢いで左耳の下の骨が鳴った。咳き込みながら音のしたあたりを手で押さえ、はたとそれが様々な体液にまみれていたことを思い出す。ねっとりと濡れたそれが伸び始めた髪の毛にも触れ、なんとも嫌な気持ちになった。 顎が痛い。頬骨が疲れを訴えている。 八戒の無謀な行動のせいですっかり萎えた自分自身を思い憂えた。別にしたかったわけではない。昨晩だって求め合ったのだ。その翌日の明け方にできるほど、悔しいけれど若くはない。 「なんだ、」 こちらが疲労で力の抜けてしまったのをいいことに簡単に覆い被さってきた八戒が残念そうな声を出した。 「したかったわけじゃないんですか?」 先ほど言わんとしたことを聞く耳も持たなかったくせに今更そんな風に言うものだから呆れてしまう。 「…だから最初っからそう言ってるじゃねえか」 動かすのも億劫な口を開いてそう言えば出てきた声は思いがけずに情けない声になって、それに合わせて咽喉の奥に嫌な味のする唾液が流れ込んできた。咳払いでやり過ごそうとしてみたけれど重力のまま何度も落ちてくるそれからは、この仰向けの状態では逃げ切ることは出来ない。結局なんとか飲み込んでみたものの、舌の上にはその味がやたらこびりついてひどく苦い。ついでに鼻の奥のほうにもツンとした匂いというか刺激がして、目まで染みる。手でぬぐおうかと思ったけれどそれはいまだに汚れたままで、それでぬぐったら逆にしみるような気もしたから、辛うじて汚れていない肘の裏側辺りで涙のにじんだ目元を隠した。 「じゃあなんで舐めてたんです? 口淋しかった?」 問い詰めるように言う八戒が口元を撫でる。いまだ乾いていない唾液を塗りこむようなその仕草が腹立たしい。本当に不思議そうに訊いてくるものだから殴りかかりたくなる。 「おまえ、自分がなにしたか覚えてる?」 ダメモトで訊いてみた。 「全然」 ほら、やっぱり。 「…もーいい」 先ほどつけずじまいだったため息をあからさまに吐いて、八戒の体を押し戻す。変な体制で固まっていたせいで節々が痛むが、構わずベッドを降りた。 「ちょっと、どこ行くんです」 「自分の部屋」 「このまま寝ろって言うんですか!」 悲鳴のような八戒の叫び。そういえばきちんと吐き出されていなかった彼の欲望を思い出して、ドアを開けた体勢のまま足が止まった。 「いや、寝ろっつーか…」 振り返りながら言い渋る。その様子に、己の出した悲痛な叫びに同情を喚起してくれた、と思ったのだろう、眉の垂れ下がった彼の情けない顔が一瞬でぱっと輝いた。さあさあこちらへどうぞといわんばかりに布団を捲って正座までしながら自分の帰りを待っている八戒に笑顔を向ける。 そのまま一言。 「むしろ永眠しろ」 吐き捨てた勢いで扉を閉めた。 |
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