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は ら は ら

 夕べの天気予報では「本日はかなりの確立で晴れるだろう」と言っていたのに、朝目が覚めたら雪が降っていた。何事だ。
「通りで、冷え込むと思ったら」
 スプリングのへたったベッドの上で毛羽立った毛布を頭から被りながら、カーテンもつけられておらず大雑把にガラスが嵌められただけの窓の外を睨んで愚痴を吐き出す。同時に出た濁った息のお陰で元から汚い窓が更に白く曇ったが、ちらちらと窓の外を行き交う雪を完全に隠し切るまでには至らない。どうせなら思い切り曇らせて視界を隠してしまえばこの雪もなかったことにできるだろうか、と息を吸い込んで、そんなことをしても雪が降り止むわけではないと気が付いた。そうだ、問題はそこではない。
 三月もすでに半ばに差し掛かっているというのに、なぜ雪が降っているのか、ということだ。
 今月の頭に見た天気予報では「本日ようやく春一番が吹いた」、と言っていた。先週の天気予報では確か「来週からはめっきり春らしくなる」と、そう言っていたはずではなかったか。そして夕べの天気予報。どれをとっても本日は晴れ、更にいえば春らしく暖かくなくてはならないはずなのに。
 天気予報などまったくもって当てにならないものだ。たとえ美人なアナウンサーの司会であっても、あくまで予報は予報であり信用には値しないということだろうか。
 憤慨も露わに鼻から出た息で変な形に曇るガラスに、くるくると巻いた髪の毛に春を感じさせる淡い桃色のシャツが似合いすぎるほど似合っていたテレビの中の女性を思い浮かべながら、騙された、と思ってももう遅いことで。
 深々と積もりつつある雪の白さに目が痛む。大雑把な窓から入り込む隙間風が毛布を通して肌に刺さる。
 こんな陽気の日は日がな一日家でのんびりとしているに限る。の、だが。
 生憎と、今日はなにがなんでも出かけねばならないのだ。困ったことに。
 窓の右壁には同居人が無理やり掛けたカレンダーがある。ごみの収集日を覚えろとの意図らしいが、今年の一月から動いていないそれに一体なんの意味があるのか疑問であったのも、今月までの話だ。同居人は掛けただけで満足したらしく、わざわざ捲ることはしない。それをいいことにこっそりと印を書き込んだ今日の日付は、十四日。
 いや、べつにホワイトデーだからといってなんだという話ではある。常の自分はイベントごとになど頓着せず、それどころか平日と休日の境もない生活をしていて、今日は鴨葱だと思ったら金曜であった、なんて後から気付くのもざらなことだ。しかし、残念なことに今回はそうもいかない。
 話は年明けにまで遡る。
 初詣の露店で見つけたジッポに一目惚れをした。露店の割に意外と高い値札の貼られたそれを見てみれば、なにかのブランド品であるようだった。なにを隠そう、一時期自分もそういうあくどい仕事をしていたから経験上知っている、露店の商品など大した品ではない。これもどうせパチもんであるのだろうと思いつつ、それでもシンプルなデザインに目を惹かれついつい手に取ったら思いがけずすっぽりと手のひらに納まったその触り心地に手放せなくなった。商売柄なのだろう、あくどい顔をした露店商の兄ちゃんに目が高いねと言われ、それにつけこむように逆に値を張られた。酒と煙草で浪費した自分では買えそうもない値段だった。詣でついでに、と八戒に無理やり投げさせられた賽銭を惜しんだがいまさら後の祭りで、それでも名残惜しく触っていたら、金が貯まったらまたおいで、とまるで子どもを追い払うように言われたことの悔しさといったら。
 それから数日、ひっちゃ気になって出稼ぎに精励したが、金を貯めるという習慣のない自分では一向に必要金額に及ぶことがなく、半ば諦めかけて自棄酒を呷っていた、そのときのことだった。
「悟浄、これ欲しくないですか?」
 酔いも回った深夜二時。
 奪われたビール缶の代わり、手のひらに乗せられたあの感触に、酔いも覚めた。
「チョコじゃ味気ないかと思ったんですが」
 言われて初めてカレンダーを見た自分は、傍から見たらひどく笑える様子だったに違いないと思い出すだに実感するが、あのときの自分は自分を客観的に見ることなどできないほど驚いたのだ。八戒がバレンタインなどという日を覚えていたことにも驚きだが、それよりなにより誰にも欲しいと告げずにいたのに、一体どこから情報を入手したのだろうか。お得意の裏ルートからだろうかと、八戒がそんなものを持っているかどうか知らないが持っていそうな気がするから思ってみたりもして。
「ありがとうくらい言ったらどうですか」
 嬉しいはずなのに驚きが優先して言葉も出なかった自分に腹を立てたらしい八戒は、そんな言葉を残して部屋に戻っていった。
 視線を動かせばベッドの頭に供えられた低い棚にあのとき手に乗ったジッポがいまだ輝きを失わずにある。そう、あのときろくに礼も言わなかった自分だからこそ、今回はなにがなんでもなにかを用意してやらねばなるまい。それが最低限の礼儀だと思いつつ、それでも面倒くささに負けて今日まで延ばし延ばしにしていた。その結果がいまの状況であるのだから、なんともお笑い草だ。
 なぜ昨日のうちに用意しておかなかったのだろうと自分の適当さを恨んでもそこにプレゼントが現れるわけでもなく、いやでも昨日の自分ではさすがに雪が降るとまでは思わなかっただろうなんて、自業自得のくせに正当化してみてもやっぱりそこにプレゼントは見えなかった。
 もう一度窓へと視線を向ければ、吐いた息が湿りすぎていたのか、窓に張り付いた水滴は己の体重を支えきれずにつるつると汚れたガラスを洗い流してゆく。水滴の通った道筋から覗く外界は余程風が強いように見え、さらさらと横に流れる粉雪は見る間にその大きさを膨らませて、いまでは立派なぼたん雪と化していた。
 ああ、面倒だ。
 ため息をつく。その息でお約束どおり曇った窓を見ながら、気合を入れた。
 まあ、降ってしまったものは仕方がない。
 今日の今日まで用意しなかった自分が悪いのだし、雪が降ったのはそんなタイマンな自分に対するひとつの試練だ。つまりいまが踏ん張りどころということなのだろう、とわけのわからない根性を出して、布団を引っぺがした。
 冷えた空気をたっぷりと吸い込んだ床に足を落とせばつま先を起点に鳥肌が立つ。それだけで挫けそうになる気持ちを煽り立て、そろそろと箪笥まで移動して服を着替えたところで、嘘吐きな天気予報にすっかり釣られて冬用のコートはこのあいだ押入れに突っ込んでしまったのを思い出し、押入れの戸を引いた。不用品ばかり適当に詰め込んだ押入れはちょっとしたカオスで、上から見ても見当たらないコートはきっと鞄の下とか肌掛けの下とかに入っているのだろうと推測する。
 ああ、面倒だ。
「お出かけですか?」
 またも挫けそうになった気持ちをもう一度奮い、気合とともにしゃがんでカオスに手を突っ込んだところで、頭上から唐突に声が降ってきた。次いで聞こえた軽く壁を叩く音に、ノックは入る前にやれ、と怒ろうと思ったが、驚きに震えた手がカオスを引っ繰り返して中身が飛び出してしまったのでできなかった。
 どんがらどんがら音を立てて溢れてきたカオスを背に慌てて立ち上がれば押入れの隣の壁、腕を組んで立つ八戒がこちらを見ていた。珍しく笑っておらず無表情な割りに目だけはやたらと冴えているのがなんとなく怖くて一瞬たじろぐ。押入れから転がってきたなにかが足に当たってからん、と間抜けに軽い音が部屋に反響した。
「ああ、まあ、ちょっと」
 口篭りながら適当にはぐらかしてみても、品定めをするよう覗き込む八戒の視線がこの寒い中どこへ? と語っている。
 まずい、この状況では確実に誤解をされる。というかこの目の色はもう既に誤解しているときのものだ。
 八戒は嫉妬深い。そして執念深い。長いあいだ生活をともにして嫌というほど実感したそれはこちらの思い込みでも被害妄想でもなく、ましてややつの評価を落とそうと思ってのことでもない。紛れもない事実だ。たとえば自分が少しでも常と違う時間に起きれば敏感にそれを察してどこに行くのかと問うたり、答えに詰まればきちんとした答えを出さない限り冷えた色で見続け、言い訳をすれば揚げ足を取る。女々しいとはまた違う。ある意味とても怖い。
 対して自分は自慢ではないが言い訳は苦手だった。こと八戒に関しては情けないほどしどろもどろになってしまう。怯えているといわれれば確かにそうかもしれない。だが怖いのだ。
 だからいまもとても怖い。言い訳をすれば確実に揚げ足を取られ外出の理由を言わざるを得ないことになるだろう。でも言えば言ったで恥をかく。というか仮にもプレゼントだ、言ってしまったら元の木阿弥であるし、どうせだったら自分がされたよう相手にも驚いてもらいたい。
 しばしの葛藤の後、まあいいか、この場は誤解をさせておいて帰ってからでも物を渡しながら言ったほうが信憑性も増すだろうと、ちょっと煙草を、と口を開こうとした、その前に。
「わざわざ買いに出なくったってべつにいいんですよ、」
 モノクルを直しながら八戒が言った。
 なんのことだかわからず思考が固まる。
「…は?」
 空気が漏れたような声が自分咽喉から出たのに合わせて八戒がまた、こちらを見た。緑の中には先程の冴えた色もなく、どちらかというと困ったような色が浮かんでいるように見えた。
「お返しなんていらないって言ってるんです」
 言葉とともにちらりと、棚に置かれた例のジッポを見た緑の視線で意味を悟る。つまりこの寒い中わざわざホワイトデーのお返しなんて買いに出なくても構わないと、自分はべつにお返しなどいらないからと、そういうことだ。
 どうやら誤魔化す前からバレバレであったらしい。
「風邪、引かれても困りますから」
 言ってさっさと背を向けた八戒の指が、一瞬だけ、名残惜しそうにノブを撫でた。
 長いあいだ一緒にいればある程度相手の思考も読めるようになるものなのだな、とその仕草を見て思う。
「白々しい」
 素直に一緒にいて欲しいと、言えないものだろうか。

084雪が降ってきた(20050605)
このあと、「因みにコートはベッドの下です」「やっぱやーめた寒いし」「ま、馬鹿は風邪引かないって言いますけど」「コーヒー入れて、熱いの」「むしろ僕に入れてくれるべきでしょう」「俺の熱いのならいくらでもどうぞ?」「それは僕の役目です」とかいう会話がありましたがまとまりがなくなったので消しました。自分で書いた話の後日談妄想してたのしんでるってどうなんですか。
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