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実を言えば、本来なら自分は寺院で一生を過ごさなければならない身であった。実を言えば、などというよりもまあそりゃあそうだろう当然だと思ったほうが正しい。大量殺戮者、まさにだ。多くの人を刺し多くの妖怪をその手で屠った。いくら半数以上は妖怪とはいえ、生き物を殺したことになんら変わりはなく。 多くの命を奪った自分。その代償のように、自分の一番愛する者を奪った妖怪の同族となり果てた自分。その自分がのうのうと人間社会に戻れるはずはないと、むしろ生を存続する権利もないと、誰に言われるでもなく自覚していた。 それなのになぜこうして自由に生きているのだろうか。それはひとえに 「放っておいても害はないはずだ、心配ならば自分が監視、監督を引き受ける」 と、顔に似合わず男前な執り成しをしてくれたあの人のお陰だ。三仏神の逆接を「私が信じられないとでも?」といっそ威圧的とも取れる言葉で一蹴し、あのとき平地と成り果てた大地で聞いた声と同じ音で、「この者は、大丈夫です」ときっぱり言い切った三蔵法師様の。 彼がなにを根拠にそう言ったのかはわからない、ただその声にひどく心が痛んだのを覚えている。それは感謝か、それともそのような言葉を言われる資格はないと卑屈に思ったからか、はたまた自分が三蔵をも巻き込む責任を科せられたことに恐怖したからかもしれない。そのような重い自由を負うのならいっそ殺して欲しいと、一瞬だけだが思ったような気もする。 なににしても、結果自分は自由を得た。それがよいことなのか悪いことなのかは、まだ分からないが。 「お世話になりました」 寺院の前には立派な門が備えられている。少し華美すぎではなかろうか、とここに連行されたときから思っていたのだが、実際にここで格式高い生活を送ってみたらなんとなくその存在理由も掴めてきた。寺院の者にこっそりと理由を訊いてみたら、外敵から身を守るため、と模範的な回答を得られたがそれはきっと正解ではなく、本心はたぶんこの寺院の存在を外界にアピールするためであろう。坊主とは意外と欲深く、また差別が強いものなのだ。 昼は開け放たれたその華美な門前に立ちながら、深々とお辞儀をする。以前伸ばしっ放しにしていた髪の毛はここを発つにあたってばっさりと切った。お辞儀をしても顔にかからないその感触に慣れるにはまだ当分時間がかかりそうだった。 「ほんとに行っちゃうのか?」 純粋な目で名残惜しそうに問いかける悟空に困ったような笑みを返す。泥だらけになって遊んでいたつい先ほどまでとは違うその顔に胸が痛い。感情のまま表情をくるくると変える素直な彼を見習いたい、と嫉妬に似た気持ちを抱いたが、それは表情には出さない。 「ちょくちょく顔出しに来ますよ、」 言葉とともに三蔵に意味ありげな視線を送れば、ちらりと嫌そうな顔をしながら、「ああ」と素っ気ない返事をされた。監視役を引き受けてしまった手前もあり、こちらへの対応に困っているのかもしれない。冷徹な堅物に見えて実は優しいところもあるのだと、ここで共に生活をした数ヶ月で学んだ自分の推測はきっと当たっている。 「では、」 なんともでこぼこしたコンビが手を振る中壮大に構える建物に背を向ける。そういえばふたり以外は見送りに出てきてはいないなと、その正直さに口が自嘲の形に緩んだ。一歩、また一歩と足を踏み出して。 今日は風が強い。急速に駆け抜けた風が足元の細かい砂ざっと舞って視界を隠す。きっとあのふたりから見る自分の背中もイリュージョンのように掻き消えたように見えたことだろうと思いながら、角を曲がった。 これから、新しい人生が始まる。 と、言っても、自分には行き場がなった。 「情けないなあ」 寺から少し歩いた繁華街にある安宿の一室、天井に揺らめくいまにも切れそうな電灯の明るさと同等にぼんやりと呟きながら愚痴を吐いた。 昼間、でこぼこコンビの目からまるで魔術師のように消えた自分の、角を曲がって心機一転、始めようと踏み出した足はしかし、どこに着地すべきかを考えて立ち往生してしまった。 寺院の門前の道は左右に伸びている。なにも考えずに右に踏み出したのはよいが、はて右の道よりも左の道のほうがよかっただろうかとふと思った。しかしいま戻ればいまだ門前に佇んでいるであろうでこぼこコンビにまた会ってしまうから時間を置いてからのほうがよいだろうか、とも思った。そうこうしているうちに考えがまとまらなくなって、気づいたら自由とはなんだろう、などという哲学的な考えの海に入りそうになっていて、思考をとめた。まあ歩いていればなにか目当てのものが見つかるかと思いとりあえず歩き出した。しかし数十分歩いても一向に見つかる気配はなく、結局ざわざわと聞こえてきた雑踏の音と、「安いよ、どう?」というこの宿の看板娘らしい子の声に思考ばかりか足までも止まってしまった。 そして、安いという言葉の割には少々高いような気もするこの部屋で、いま自分は自由を謳歌している。 「ほんとに、情けないなあ」 ぽつりぽつりと呟いてみればそれにつられて電球も明滅する。それがなんだか面白くて、ここへ体を休めてから幾度となく呟いたけれど、次第に目が痛くなってきた。癒しを求めるように部屋の割には大きく取られた窓に目を向けた。 窓からは宿の前に居並ぶ数種の店の、個性溢れる客引きの声が聞こえる。なるほど夜の店はこの時間からが書き入れ時だ。声に釣られて自分も気を紛らわすため一杯引っ掛けに行こうとかとも思ったが、この宵月夜、わざわざ騒がしい密室で酒を飲むよりもこうして月を愛でながら飲む酒の方が美人の酌よりも美味い気がして、宿の従業員に安物のボトルを一本頼んだ。ついでに電球が切れそうなことも伝えておく。 数分後運ばれてきた酒は透明。使い古され亀裂の入った盆の上、酒のボトルに添えられたこれまた透明なグラスに注げば、月影を反射してなんとも妖しい虹色を醸し出すそれに、しばし見入る。安い酒と知りながら色を眺めているうちになぜだか大層うまそうに見えて一口啜ってみたが味のほうは案の定安物で、舌の両側に感じる刺激に誰が見ているわけでもないのにこっそりと、眉をしかめた。 窓際に椅子を引いてグラスを呷りながら紺碧に浮かんだ真ん丸い月を眺める。窓枠がさながら額縁のように思えるほど、一枚の絵画然としたその空、その月。 穴のようだな、と思った。 ルビンの壺という絵がある。中心にある黒い部分に目を向ければ壺の形をしているが、その壺の背景となる白い部分に意識をやれば打って変わってそれは顔と顔とが向き合っているように見える。つまりどちらに重点を置くかで見方が変わるというものだ。 酒は持ってきたけれどいつまで経っても電球は替えにこない。視界にちらちらと入り込む揺らめく電灯がうるさいので消してみた。 余分な光が取り払われてますます大きく見える月を目が乾くほど見詰める。 しかし自分の口から出たのは、美しい、とかまるでなになにのようだなどと洒落たとんちを効かせた情緒的なものでもなく。 「これから、どうしようかなあ」 我ながら本当に、情けない。 しかし、きっかけとかいうものは思いもかけないところに転がっていたりするもので。 情けなさをたらふく抱え込んだ一夜を過ごした翌朝、朝食つきでもない宿なのでとりあえず買出しにでも行こうかと出向いた市場に、それはあった。 最初、左手をズボンのポケットに突っ込んで鼻歌交じりに歩いているその骨格に、なんとなく見覚えがあるなと思った。しかし覚えているのはうざったいほどに伸びた髪のほうで、道の前ふらふらと揺れながら歩いている男はなんともさっぱりとした短髪だった。短髪だったが髪の色は一緒で、まさかと思いながら男の進んだ後をこっそりついていった。自分の行動に我ながら気味が悪いと、昨夜から続いて自分が嫌いになりそうになったが、自分の進もうとしている先にその男が勝手にいるのだと思い直して歩みは止めなかった。 そして、知り合いふたりに声をかけられて振り向いたその顔。期待通りの傷をその頬に見つけて、期待していたはずなのに、心臓が動揺の形に跳ねたのを感じた。 彼は相変わらず元気そうで。 変わった様子がない分、躊躇した。寺院の前知らず右に踏み出した足をやり直すように、ここで踏み出すことが正解なのかどうかわからなかったから。 空に浮かんでいたのは果たして月か、穴か、 目の前にあるのは血の色か、それとも。 こちらが躊躇しているあいだにも彼は歩みを止めずにひたすら進んでゆく。彼の眼前にT字になった道が広がっていたが、躊躇うことなく右に踏み出した。左右どちらに向かうべきか悩みもしないその様子。こちらのことなどおかまいなしの態度がお門違いの八つ当たりだとわかりつつも腹が立って、文句のひとつでも言ってやろうと追いかけるように角を曲がったら、思いがけず目の前にそのにやけた横顔を見つけた驚いた。 「おねーさん、これひとつちょーだい」 屋台に佇む看板娘にそう朗らかに言いながら、彼が手を伸ばした果物。その指に先導されるようになんとなく、ひとつだけ取り上げられた色を見た。 瞬間自然と足が出た。月か穴かを考えるよりも先に。 彼と同じように、果物に手を伸ばす。 言うべき言葉は決まっていた。 |
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