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ちょっとした酒の勢いだったと思う。 「例えば俺が俺じゃなくなったら、お前どこで会ってもわかんねーって」 「なくなったらって、中身が?」 「じゃなくて、見た目とか、雰囲気がよ」 安い酒の味が舌を痺れさせた。その上での発言だった。 「人間、ぱっと見に意外と騙されるもんだぜ」 うーん、と唸る声聞こえて顔をあげれば苦笑した八戒が見えて、それがなんとなくバカにしているように感じた。 「僕も悟浄も人間じゃないですからね」 それに、と。 「あなたの足音うるさいから、バレバレだと思いますけど」 言われて、酔った中でも誤魔化しようがないほどはっきりと対抗心が沸いたのだ。 明くる日、普段ならまだ眠っている時間にいそいそと起きだした。 八戒の部屋をノックし、キッチンを覗き、トイレのドアを開けて、風呂場の音を聞いてみて、ようやく彼が不在なのを確信する。確か、平日のこの時間は三蔵の寺院に足を運んでいるはずだ。悟空のちょっとした教師役を担っているらしく、さらにちょっとした教師の対価としては分不相応なほどの報酬までくれるというのだからまったく坊主様様だ。そして昼を二時間ほど過ぎたあたりで買い物に繰り出す。 計画としては、その買い物中に変装した自分が八戒の周りをうろついてみる。彼が自分だと気づいていないことを確認した上で、声をかけて驚かせる、というもの。時計を見てみればまだ昼になる少し前だった。準備する時間は充分なほどある。 今回必要なものはすべてクロゼットにあるはずだ。そう思ってクロゼットの前に立つ。扉を開けた瞬間、適当に積み上げただけの小物がからころと流れ出してきたが気にせずに手を突っ込み、かき混ぜるように作戦で使えそうな道具を漁った。 まず、普段着慣れた原色系の派手な開襟シャツとかではなく、グレーよりも色褪せたTシャツを着込んだ。八戒がここに住みつく前のいつか購入した福袋に入っていた服だが、趣味じゃなかったので箪笥、ではなくクロゼットの肥やしにしていた。まさかこんなところで役に立つとは、左胸に小さく縫い付けられた鰐の刺繍も思わなかっただろう。 意外と薄手なそれに上着でも羽織ろうかと思いクロゼットを引っ繰り返しても、ちょどよいものが見当たらなかった。八戒の部屋から拝借しようとしたが、別人を装うはずなのにそれではあまりにあからさま、自らそうだと告げているようだったのでやめておいた。いまは初夏ともいえる時期だし、ちらりと窓を確認したら外から陽光が差していたので上着など必要ないと思いなおした。 ボトムもなかなかこれというものが見つからなかったので、結局ジーパンを選んだ。どこのだれでも穿いているような普通のデニム生地なのでこれだからバレてしまうということはないだろう。ボトムを穿きながら、さて靴はどうするかと考える。下駄箱の中の多様な品揃えを思い浮かべ、黒のスニーカーが無難でいいか、とひとり頷いた。 服装を整えてから一度鏡の前に立つ。ふと気づいて、首からぶら下がっているドッグタグ風のアクセサリーを外した。 鏡の自分に、さてここから最後の仕上げだ、と気合を入れながら語りかけた。服を変えようがなにをしようがこれを隠さなければ元も子もないのだと、顔にかかった髪の毛を掻き揚げる。顔の形まではさすがに変えられない。よくよく見られてしまえば結局は自分の顔だけど、ようはよくよく見られなければいい話だ。一番に目につくのはこの色と傷だから、髪を黒くして傷を隠してしまえば街中で見てもどうということはない容貌なのかもしれない。 染めようと思っても染まらなかった頑固な髪だから、ウィッグを被ろうとした。どこぞで手に入れたものかも思い出せないそれは長いあいだクロゼットに閉じ込められているうちに毛流れがボサボサに乱れてしまったようで、適当に櫛を通したら毛が数本抜けた。あまりの縺れように梳かすのも面倒になってとりあえず被った。夜の酒場で踊っているような女の見よう見まねであるが、以外にしっくり嵌まったことに満足する。手櫛とワックスで整えてみればボサボサな感じが逆にワイルドに決まった。 傷はコンシーラーを使って適当に塗り潰した。酒場で出会った女と一夜を共にしたときに、女が忘れていったものだ。比較的いい女だったので、再会したときに話しかける取っ掛かりになればいいと思って持ち帰っていたそれだが、いざ再会した際持ち歩いていなかった。実際、そんなものがなくても話は弾んだわけで。 そんなことを思う位置に作業を終える。改めて鏡に向かえば、映る自分はいつもの目の覚めるような赤い長髪ではなく、ただの黒い短髪で、傷もない。カオスと化したクロゼットからあったはずのカラーコンタクトレンズは発掘できなかったが、目の色は隠せないにしても一番に目立つ部分を変えてしまえばほら、こんなにも地味だ。 居間に戻り、時計を見る。昼の一時を少し過ぎた頃だった。まさにナイスタイミング。 玄関で、先ほど頭で当てはめてみた黒いスニーカーを実際に履く。大きな下駄箱に備え付けられた全身鏡で最終確認をし、気づくわけがない、そう確信して街に繰り出した。 街中を行くだれも、自分が沙悟浄だと気づいていないようだった。無駄に顔の広い自分なので、擦れ違う相手ひとりひとりとそれなりに面識があるが、普段なら声をかけてくるやつもまるきりスルーだ。 これならいける。 べつになにを求めているわけではない。例えば僕は悟浄の見目に騙されたわけじゃなくて悟浄の心が云々とか、そういう言葉を期待しているのではなくて、単純に、奴に俺が俺だとわかるかわからないかというゲーム。気づかれたら彼の勝ちだし、気づかなかったら負けという、まあいわゆる賭け。といっても賭けているのは自分だけだから、気づかれたからといって安心するわけでも、気づかれなかったからといって不貞腐れるわけでもない。ノーリスクノーリターンだ。 とある八百屋の前で目標を捕捉した。ここの野菜が一番新鮮なのだといつも話の中で聞いていた店で、昨夜ここへの誘導も兼ねて夏に向けて栄養補給に野菜が食べたいと自分が言っていたため、案の定ここで野菜を購入するらしい八戒にありがたい気持ちになる。これが終わったら礼のひとつでも言ってやらなければと思いながら、近寄った。 深めの木箱の中山盛りにされた野菜たちをどれにしようかと覗きこんでいる八戒の隣にそっと立つ。そのまま、数秒。 特にこちらを気にした風もなくもくもくと選別にいそしんでいる八戒は自分が悟浄であることに気づいていないどころか、そもそも隣にひとがいることなど気づいていないのかもしれない。そう思ったので、八戒の正面にあった茄子に手を伸ばす。大丈夫、普段つけている時計はちゃんと外してきたから、と思いながらも手が多少震えたが、結局はノーリアクションだった。 「おい兄ちゃん、なににする?」 いまいちバレていない確信が得られず、隣を気にしながら幾度か似たようなことをしていたら、八百屋のオヤジが声をかけてきた。まったく余計なことを、と思ったが、上の空でただ野菜をこねくり回している自分は冷やかしと取られたようで、顔を上げれば不機嫌に眉を顰めているオヤジと目が合う。厄介なことになっても困るのでちょうど見ていた籠の林檎を指差した。 「じゃ、これ」 いつもよりも低い声を出し値段を支払う。途端満面の笑顔を湛え、「ありがとよ!」と威勢よく挨拶をされ、持った林檎で口でも塞いでやりたい気持ちになった。 満足した様子のオヤジを傍目に見ながら、隣の様子を伺った。内心はかなりスリリングな気持ちだったが、どうやら八戒は隣にひとがいることはわかっているが、それが実は沙悟浄であるということにはまったく気づいていないようだった。証拠に、「これください」と言いながら選別した色とりどりの野菜をオヤジに差し出している八戒は普段自分にはあまり見せないような、大層嬉しそうな顔で。 結局そうなのだ、と諦めではなく妙に納得した気持ちで思う。ここの野菜が街一番でいい品なのだと言っていた八戒の言葉を思い出した。実際のところそんなのは錯覚に過ぎない。つまり、もしこの店頭で、中身がいかんともしがたい品が売られていたとしても、彼は見目の綺麗さのみに騙されて中身など気にも留めずに買ってしまうのだろう。 勝った。 「はい、」 「はい?」 勝利にほくそえんだ途端、腕全体にかかった重量によろめいた。振り向き様に荷物を押し付けられたらしい。「そんなか弱いふりして」と取り合わない様子で八戒は言ったが、よろめいたのは予想外の行動に驚いたからと、本当に荷物が重かったからだ。 「ただのカボチャとナスと、じゃがいもニンジン玉葱プラス米ですよ」 そりゃ重いわ。 「今日は夏野菜のカレー。好きでしたよね」 顔を見ないままに言われる。そのまま歩き出した八戒の背中を慌てて追いながら、唐突な事態についていけず混乱した頭で必死に考える。あれこれバレたのか? と思ったが、認めるには急展開過ぎる。だって先ほどまでまるで無関心だったのに。 あからさまに好物を指摘されてもなお、確か三蔵も夏野菜のカレーが好きだったからそれと間違えているのでは、と苦しい言い訳を考えてみたが、通りかかった煙草屋の前「一応煙草買っときますか」なんて言いながら、煙草屋のバーさんにハイライトのカートンを頼んでいる八戒にそれも折れた。 認めたくはないが確実にバレているらしい。 わかったからといって安心するわけでも、わからなかったからといって不貞腐れるわけでもないと思っていた。けれどその逆はあったらしい。気づかれて安心するどころか不貞腐れている自分に気づきそう思う。 「つーかなんですかその暑苦しい頭」 いまさらだ。 「イメチェン」 「そんなもん被ってると禿げますよ。…あ」 わざとらしく、はっと気づいたように口を手で覆い、なるほど、と妙に納得した顔で呟く八戒に訝しそうな目を向ければ。 「なんだよ」 「禿げ隠し?」 一瞬なんのことかわからなかった。 意味を理解した途端「違う!」と叫んだけれど、このことで当分はからかわれるのだろうと思ったら、変な後悔が押し寄せた。 |
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