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盃 事

 最近、曇り空が続いている気がする。だからどうというわけでもないしそれのせいで落ち込むとかいうほど繊細な生き物ではないけれど。
 まあ正直なんとなく、やる気というものが出ないのは確かだ。
 春も終わって蒸し暑くも感じる空気を入れ替えるため開け放した、庭に面した大きな引き窓の縁に座り込んで湿っぽい空気を堪能する。吸い込んだハイライトの煙もどこか湿気ていて美味しさよりも先に味気ない、けれど新しく買いに出る気力もなくて。
「この陽気じゃ洗濯物も干せませんね」
 背後からかけられる声もどこか湿気ている。
 答えにもならないことを知りながらうーとかあーとか適当な返事を出して湿気たタバコを揉み消す。洗濯など溜まっていたって構わないと気の利いた科白も浮かばないでもなかったが、どちらにせようまい返答にはならないだろう、同じように湿気た自分の声では。
 今にも水滴が落ちてきそうな重い雲に覆われた空はいつもよりもやたらと狭く感じる。温い風が吹き込んできて髪に触れるけれど、重い髪を持ち上げる気力もないようで赤い上を素通りしてゆくだけだった。
 なにもかもがだらだらと無気力。味気ないと知りながらも口淋しくて煙草を漁る。
「お酒でも飲みますか」
「…」
 いつもは昼から酒盛りなど決して許しはしない八戒の言葉に、驚くよりも先に同じようにやる気の出ないらしいことを悟る。どこか希薄な笑顔を向けて返答を返せばいつもよりもゆったりとした動作でキッチンへと去ってゆく背中を見ながら。
 それともどんよりと曇った空を不安に思っているのだろうか。
「生憎高いものはないんですけど」
「かまわねえよ」
 グラスをふたつとちょっとしたツマミの載った盆を右手で、もう片方には大きな酒瓶をぶら提げながら戻ってきた八戒の表情は笑んだまま変わらないから、なにを考えているのか察しがつかない。
 引き窓の縁に一緒になって腰かけた八戒が、盆と酒瓶を置いてくれた。
 いつぞやに買ったのかも思い出せないほど記憶に薄いその酒瓶に、もしかしたら八戒が、眠れない夜にでもこっそり呷っていたのかもしれないと思う。
 いまはもう、必要のないものなのだろうか。
「とりあえず、乾杯」
「あ、ああ」
 いつの間か酒の注がれていたグラスを受け取って、掲げた八戒のグラスに軽く合わせる。湿っぽいこの空気のなかでも不思議と、その音は軽やかに涼しく響いた。
「いただきます」
「…マス」
 律儀に言う八戒につられて語尾だけを小さく繋げた。八戒が口をつけるのを見届けてから、傾けたグラスからひとくち啜って味を堪能する、その前に。
 そういえば一緒に盃を交わすのも久しぶりだ。
「そういえば、こうやって一緒に飲むのも久しぶりですね」
 ふと思ったことを口に出すよりも先に告げられたそれに一瞬、盃を止める悟浄の瞳に、八戒の緑玉が写る。酷く穏やかで優しいそれが先ほど思った不安という文字の欠片も浮かんでいないことを知って身体の力が、抜けた。
「そういや、そうだな」
 言われてはじめて気づいたようにそう返しながら、八戒の手からグラスに注がれる液体に目をやる。色気もない透明な、それでいて匂いだけはきつい酒は本当に安い味しかしないのに、一緒に飲んでいるからだろうかなぜか、湿気た煙草よりもうまいと感じた。
「キスでもしますか?」
 何杯目か、注ぎ返したグラスを手に取りながら言われた、八戒の疑問符に、いつもなら反発でもするのだけれど。
「訊くこっちゃねえだろ」
 近寄った八戒の口唇に残った酒のしずくが、安いはずであるのになにか薫り高い芳醇なものででもあるかのように感じてその息だけで酔いそうだと思った。
 舐めとったアルコールを舌の上で転がして鼻の奥に微かに感じた苦味は、きっと罪とか愛とか、それに近い味なのだろうと、酔った頭で考えた。

067川の流れのように(20040615)
ゆったり、だらだら。
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