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私はふたりの兄弟に囲まれて育った。 上の姉と、その下の兄と、私。それに母と、死んだ父の代わりにいつの間にか家族になった眼鏡の男。それ以外にも祖父母や叔母などといった親戚はいるが、最初に言った四人が主に私の身近な家族というものになる。 昼間母は出稼ぎに出ているため、大概夜までは上の姉とその下の兄が私の面倒を見ることになる。眼鏡の男は出張の多い仕事をしているため家には殆どいない。いたとしても、当然のように死んだ父の椅子に座り、死んだ父の箸を使う彼に懐くことはプライドの高い上の姉と、殆ど姉の言いなりになっているその下の兄、そして人見知りの激しい私にしてみれば簡単にできることではなく、例えば家に眼鏡の男がいたとしても私たちはいないもののように扱うことが多い。 上の姉とその下の兄はとても仲がよいが、たまに派手なけんかをする。私が見たところ、突如姉がヒステリーを起こし兄がそれに耐え、耐え、耐え切れなくなったところでけんかが勃発する。つまり私にあからさまな非はないわけだが、ふたりきりの言い合いに飽きたあたりでふたりは、今度は私に対して暴力を振るうようになる。姉曰く、お前がいるから私はこうしてヒステリーを起こさなければならない、兄曰く、お前がいるから僕はこうして耐えなければならない、ということなので、私は私自身に非がないと思っていいるが、根本的なところで私の存在自体がふたりにとったらそもそもの非なのである。 ある土曜日の、昼過ぎだった。いつものように母の帰りを待ちながら上の姉とその下の兄が私をいないものとして扱いながら遊んでいたときである。 「かくれんぼをしよう」 いままで私など見えないように振舞っていた上の姉が、突如私の目を見て言った。 「そうだね、かくれんぼをしよう」 その下の兄も同意したように言った。 「でも普通にやったのではおもしろくないから、ルールを逆にしよう」 逆とはどういうことだろう、上の姉の提案に私は首を傾げた。下の兄もよくわからなかったようでその黒い瞳が少し揺れたが、私のようにあからさまにわからない素振りを見せなかった。上の姉は私に向かってわからないの、と少し軽蔑したように言い、ルールを説明してくれた。 「鬼が複数で、隠れる人間がひとりになるのよ」 つまり普通のかくれんぼだと鬼がひとりであるが、今回は逆に、隠れる立場をひとりにしようと言うのだった。上の姉は単純なルールにこういった捻りを加えることが得意だ。相変わらず頭がよいと思う。私ではたぶん考え付かない。 じゃんけんで負けたひとが隠れることとなった。私はじゃんけんが弱いので今回も負けた。つまり私が隠れ、上の姉とその下の兄が私を見つける鬼となるわけだ。 「見つかったら、罰があるから」 上の姉とその下の兄が、居間の真ん中でしゃがみ込んで目を閉じている。百を数えたらふたりの鬼は出動する。これからカウントダウンが始まるというところで上の姉がそう言った。 罰とはなんだろう、いつもされているようにボールペンで頭を刺されるとかティッシュの角で殴られることだろうか。 「いつもよりもっとすごい罰よ」 上の姉の楽しそうな声。それに重なる下の兄の楽しそうな笑い声。 カウントが始まった。 私の家は特に豪華でも、特に広いわけでもない。家族が食事をする場所にもなっている流しの置いてある台所と、風呂場とトイレ、あとは母と眼鏡の男の寝室と、兄弟三人の使っている子供部屋と呼ばれる部屋だけだ。それぞれの部屋はそれぞれの部屋から自由に行き来できるよう簡単な間仕切りで仕切られているのみである。だから例えば台所から子供部屋に行くのにあいだに挟まれた母と眼鏡の男の寝室を通らなくてもいいわけだ。 私は最初台所へと向かった。どこか隠れられる場所はないものかと探してみたが、台所には冷蔵庫とその横にレンジ、炊飯器の乗った小さな棚と、米櫃やら乾物やらの入った皿に小さな棚だけである。唯一隠れられそうだったのはガスや水道なんかの点検のときにだけ開かれる流しの下にある小さな鉄の扉だったが、扉には取っ手がなく、代わりに鍵穴のようなものがついていて私にはどうにも開けられそうになかった。 その後も電化製品の乗った棚をひねくり回してみたがやはり隠れられるような場所はなく、私は台所を諦めて今度は子供部屋へと向かおうと思った。だがそういえば、上の姉とその下の兄がしゃがみ込んでいる場所は子供部屋ではなかったかと思い直し、トイレや風呂場を思案した。だがそこも開けられてしまえばおしまいである。開けられないにしても例えば鍵をかけて入れば鍵が掛かっていることを不自然に思った上の姉とその下の兄はそこに私がいることを悟るだろう。トイレや風呂場には換気のため扉の上下に小さな隙間がある。以前私がトイレに入っているときに上の姉とその下の兄が悪戯でそこから昆虫を仕向けたことがある。また細いホースをその隙間から差し込んで水をかけられたこともあった。そのあと集合団地ゆえ下の階から苦情が来て母に思い切り怒られた。上の姉とその下の兄はそ知らぬふりでいたから私はごめんなさいと謝った。べつに昆虫も水も耐えられたし、母に無実の罪で怒られることにも慣れていたから平気ではあったのだが、嘘の謝罪をしたことに対して自分の心が悲鳴を上げてかなりのあいだ夢見が悪かった。 「あと五十秒」 そんな思い出を噛み締めていたら、残りカウント数が聞こえてきた。台所もアウト、トイレや風呂場などの個室もアウト、子供部屋もアウトとなると必然的に母と眼鏡の男の寝室に向かうことになり、私は急いで寝室へと向かう襖を開けた。急いでいるといってもなるたけ音は立てないように努めたが、古い団地であるがゆえ床板が軋むのはどうしようもない。 母と眼鏡の男の寝室の中央には、敷きっ放しになっている布団が置いてあった。上の姉やその下の兄はこの部屋にしかないテレビを見るために、またそのテレビを使ってゲームなどをするためによくよくこの部屋に入っているらしい。だが私がテレビを見ることを毛嫌いする上の姉とその下の兄によってテレビの前にすら座ったことのない私は、部屋と部屋を通過するためにしかこの部屋には入ったことがなかった。 無闇に歩き回ると床板が軋むので、まずは敷きっ放しの布団の上にそっと立った。私の布団よりもとてもやわらかいその感触に剥き出しの足が強張った。布団の中央に立ってどこか隠れられる場所はないかと周囲を見渡す。 布団に寝転がってちょうど足元になるあたりには、噂のテレビがあった。テレビの下にはビデオデッキやテープなどを収納する黒い木製棚。その左手の壁にはいまさっき入ってきた穴の空いた襖と、そして右手には窓だ。どこにも隠れられるような場所はない。私は半回転して今度は寝転がって頭のあたりになる場所に目を向けた。そこには押入れと、その横の壁には備え付けられた白いクロゼットがありそしてさらに横には子ども部屋へと続く襖がある。奥から上の姉とその下の兄が数を数える声が聞こえてきている。 私はもう一度、部屋をぐるりと見渡した。そしてクロゼットを見詰める。 実をいえばこの部屋に入る前からこのクロゼットのことを頭に浮かべていた。押入れのことも考えたが、簡単に開けられてしまうという点で不都合で、またその上にある天袋にもしも手が届けばとおもったが、実際に見てみるとそれは私などでは到底手も届かぬ場所にあった。 だが、 「これには大事なものが入っているからね、絶対に開けたり、中身を出したり、遊んだりしてはいけないよ」 このクロゼットは、そう、むかし母に言われたことのあるクロゼットだ。あの当時私は幾つだったのだろうか、まだ父がいて、母がいて、兄弟が一緒の食卓について、家族団らんというものがあったあのころ。 「もういいかい」 上の姉とその下の兄のハーモニーが聞こえて私は焦った。 ある程度目星をつけていたとはいえやはり母に忠言されている場所に隠れるのには抵抗があった。だが他にめぼしい場所は見つからない。 結局、私はクロゼットに隠れた。赤い鞄や金色の靴の上にちょうど体育座りをした容になる。扉を閉めたが、扉の中で答えても聞こえるかどうか不安であったし変に籠もった声になるとクロゼットにいることがばれてしまうかと思い、私は扉を押した。 「もういいよ」 大きく息を吸い込んでそう答えると、私は息を潜めた。 クロゼットの中はしんと静まり返っていた。今日は快晴、夏の初めの気候だからこんな密室では蒸し暑いはずなのに、闇のように真っ暗なこの白い箱の中は存外と涼しく、扉の隙間からかかすかな光が入ってくる以外に熱量のあるものは私だけであった。 体育座りをした私の下で赤い鞄が悲鳴を上げているような気がした。座る瞬間ぐにゃりと柔らかい感触がしたので高級な革なのかもしれない。逆に金色の靴は堅く右足の太ももにつま先の部分が刺さって痛かった。先ほど少しだけ位置をずらしたらその下にあったなにかの箱を棘のように長いヒールが突き破って中にあったなにかの、布の破けた音がして、もしも母に見つかったらなんと答えればよいのだろうと不安になった。 一度、上の姉の大きな影がクロゼットの前を通過した。後に続いてその下の兄の小さな影が通過する際、ふと足を止めた。 私はバレたと思い、膝を抱えている腕を硬直させた。母の大事なものが入っているだろうからと、そもそもこのクロゼットを開けたことがない私たち兄弟である。私は隠れるときに知ったのだが、元々立て付けが悪いこの扉はちょっとやそっとでは開きそうになかった。けれどもし開いてしまったらと危惧したが、兄弟の仲で一番ひ弱な兄の力ではみしみしと軋んだ音を立てるだけで一向に開く気配がない。兄も、母の大事なものの上にまさか私が座っているとは思わなかったのだろう、数分後諦めたように力を抜いた。私も安心して力を抜いた。 それからも上の姉とその下の兄は何度かクロゼットの前を通過したが、もう一度クロゼットを調べる気にはならなかったようだ。私は白く四角い箱の中で息を潜めてふたりをやり過ごした。足音や話し声などが聞こえるたびに体を硬直させ、もしも見つかった際、敗者に与えられる制裁とも呼べる罰則と、母に見つかった際に受ける罵倒を想像しては肌に走る寒気を堪えた。 どのくらい時間が経ったのだろう、時計がないからわからないけれど、扉の隙間から差し込む日の光の角度が変わっているからかなりの時間が過ぎたかもしれない。体もだいぶ凝ってきていたが動かせばクロゼットも体も軋んだ音を立ててしまいそうで怖くて、私は動けずにいた。幸いなことにいつもソファと壁のあいだやベッドの下といったほんの小さな隙間で邪魔にならないように小さくなっているからこういったことも得意だった。 ところで上の姉とその下の兄はもうかくれんぼに飽きたのだろうか、探す足音もいつの間にか聞こえなくなった。クロゼットに向かって右手には子供部屋へと続く襖があり、その左手、つまりこのクロゼットの真裏側にはふたりの勉強机がある。だからふたりがトランプゲームを楽しむような声もよく聞こえるわけであるが。 鬼は結局私を見つけられなかったのだろうか、ということは勝者は私で、もしいま私がこのクロゼットから出ても制裁は加えられないということだろうか。けれど鬼のギブアップの声がまだ聞こえない。 だから私はふたりの楽しそうな声を聞きながらもいまだ隠れ続けなければならない。 「いなくなればいいのに」 体の筋が好い加減凝って、尻の下の鞄同様悲鳴を上げ始めたころである。ふと聞こえた声が先ほどまでの背後から聞こえていた声よりも身近に感じて私は目を上げた。扉の隙間から差し込む光が消えていた。日が落ちたのかと思ったが、よくよく隙間を観察してみると四つ二対の目が沈む前の夕陽を反射して耀いていた。 「わかっているよ」 兄の声が言う。 「そのままいなくなればいいと思ってるの」 姉の声が言う。 クロゼットの扉を押してみた。隠れる際に確認したときは内側から押せば簡単に開いたそれなのに、どういうわけかびくともしない。そういえば上の姉とその下の兄が何度か通過した際、重いものを引き摺るような音だとか、重ねるような音だとかが聞こえたような気もする。 「これが、見つかった罰よ」 鬼の哄笑が聞こえた。その笑いごとふたりの気配が遠ざかってゆくのに、いつまで経っても日の光は差し込んでこなかった。 そして、気づいたら、ゴミの中にいた。 母の大事なものだと思っていた赤の鞄や金色の靴、そして箱の中に入っていたらしい茶色のコートがぞんざいな扱いで周りに積んであった。むかしは大事なものばかりが詰め込まれていたあのクロゼットだったが、いまはいらないものばかりが詰め込まれていたらしい。 壊れたクロゼットの欠片がそこここに散らばっている。あんなに頑丈だと思っていた白い箱なのに、いまやそれはただの破片になって私を覆い隠すに至らない。 ただ私もクロゼット同様ばらばらになっているから、きっともう誰の目にも触れないだろう。 かくれんぼは私の勝利で幕を閉じた。 |
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