←戻


G . B . タ イ ム ア ッ プ

 ここ最近、ずっと、暑い。
 容赦なく照りつける太陽が真上からさして、焼けた地面が足元から焦げ付かせてくる。アスファルトも土の地面もからからで、木も生えていない。ジープの運転席は西日が正面から差して眩しくて、暑さにやられた頭で自分たちは本当に西に向かって走っているのだなあとか実感したりする。
 というかもう、ただ、暑い。
 地域的な問題ではないのだろう、走行距離約数百キロものあいだ川の水が涸れている箇所をいくつか通過したことを鑑みれば、全区域的にこのうだるような暑さが広がっているに違いない。まさに異常気象だ。
 ジープに乗り込んだ一行のうち、まずいかにも暑さ寒さに弱そうな三蔵様がダウンした。次いでいつもは暑さなどでは倒れないはずの悟空も、三蔵の弱りきった態につられるように衰弱を増していった。まあ、寒さにはすぐに弱音を吐くけれど暑さにはなんとも強そうな悟浄ですら、煙草を吸う気力もないほどに無気力であったのだから仕方がないといえばそうなのかもしれない。
 自分も、最初のほうこそ、「こう暑いと禁煙も夢じゃないですね」などと冗談めかした言葉をかける余裕もあったものの途中からはほぼ、無言であった。喋れば咽喉が渇くから。
 そんな自分たちに止めとばかりに襲ったジープのエンスト。幸い舗装されかけた道の途中であったために、もう数キロも進めば町にたどり着くことのできる位置だった。暑さに弱りきった一行も町の気配に足取りは強く、存外早く見え始めた人影に最後には駆け込む勢いで小さな小屋へと突進した。
 そんなこんなでたどり着いたこの小さな宿は、予定では宿泊するつもりは欠片もなかった場所。寄り道はいつものことだが今回ばかりはさすがにいつもの道草ではなく生死にかかわる問題だったのだと、主張したって許されるはず。以前砂漠で迷ったときであってもここまで疲労はしていなかったかもしれない。
 なににしても。
「もう、疲れたー」
 空調の効いた同室内で、自分のそれとは対岸に設置されたベッドにばったり倒れこみながら悟浄が疲労の色濃いため息を吐いた。
「僕もですよ」
 簡単に相槌を打ちながら同じようなため息を吐く。疲れた疲れたと口に出しても詮無いけれど、それしか出ないほどに疲れた、疲れている。
「本当に、疲れた…」
 壊れたCDプレイヤーのように同じ単語を繰り返す。言葉に出すだけどっと押しかかる疲労を実感しながら自分もベッドへと腰かけた。安宿のはずなのに意外と柔らかい布団の沈み込む感触にこのまま横たわりたい衝動が訪れたが必死にそれに耐え、傍に置いたザックを引き寄せた。
 麻で作られたそれの中には、少量ではあるが水が入っている。皆が一口ずつ飲めばあっさりと干されてしまうであろう量だが皆にはもう水はないと告げてあったのでたとえこの量であってもあのときの自分たちにとったら貴重であったに違いない。いまこの存在を言えば、なぜあのときに教えてくれなかったのだ、と悟空あたりは怒るかもしれないが、べつにこうして自分だけが飲むためにこっそりと取っておいたのではなく、これは一種の誘導催眠である。生き物皆、なにもなくなったときの活力というのはすごいものだと自分は知っている。火事場の馬鹿力というやつだ。町に辿りつかなければ自分たちに先はないと思い込めば頑張れるのではないかと、そう思った。生にしつこい自分たちであるからこその賭けだ。そして自分たちはそれに勝った。まったく、我ながらなんともしぶといものだと苦笑が浮かぶ。
 それにしても、他のメンバーは知らなかったからよかったものの、事実を知っていた自分は相当辛かった。正直何度これをこっそり開けたい欲望に駆られたか知れない、と手の中にあるボトルを見て思う。自分の策に自分で嵌まってしまったようでなんとも間抜けな話である。独断であるから他の者に非はないが、それでも自分にそれなりの褒美をあげてもよいだろうと、ボトルのキャップを開け、半分ほどの量を飲む。灼熱にやられてすっかり温くはなっていたが、体温より温度は低いのだろう、乾いた食道を通って胃に落ち込んでゆくその感触は意外に冷たく、腹の底に達してすっきりとわだかまった。
 その感触に思い出す。そうだ、のんびりしている場合ではない。時間的に閉店も近い、できれば今日中に枯れ切った食料と水を補給しに行かなくては。
「俺もちょーだい」
 はっと時間を危惧したところで思いがけず近い場所で悟浄の声が聞こえた。いつもは小うるさいのに無言であったから、てっきり布団の柔さにダウンしたのかと思っていたが違ったらしい。朦朧と考え事をしていたから気付かなかった。
 顔を上げれば丁度悟浄の咽喉仏が目に入る。一瞬それに目を奪われてしまって、手の中にあったはずのボトルの感触がふっと消えてから水までも奪われたことを知った。駄目ともいいとも言う前にくるりと背を向け先程と同じようにベッドに倒れこんだ悟浄から、なぜだろう、視線が剥がれない。
「汗、べったべた」
 言いつつ、元からだらしなく伸びているシャツの胸元をさらに伸ばした悟浄の手元。
 ごろごろとベッドを転がりながら水を干す悟浄の上下する咽喉元がいやに目についた。
 危ない。
「転がると床に、落ちますよ」
 ふと思った危機を悟浄のせいにする。ザックの中身を確認する振りで無理やり目を逸らしながら、一体どうしたというのだろう、と考えても答えが出ない。
 ただ危ない。
 再度頭の中で鳴る警鐘と同時にへその辺りの脈が強くなった。
「お風呂は一階です」
「降りるの、めんどくせーなあ」
「じゃあ部屋のシャワーでも浴びてきたらどうですか」
 シャワー。
 自分で口に出したことながら、その言葉でなぜか一層大きく腹の底が脈打つ。浴びてくっかー、というだるそうな声とともに悟浄が立ち上がったのを俯いたまま気配で感じて。空のボトルがザックの上に投げられたのを機に顔を上げる。シャワールームに消えてゆく彼の背を見送りながら、渇いた咽喉に生唾を押し込んだ。
 なんだろう、逃げなくてはならない気がする。
 自分の気持ちに気付いていないわけではなかった。そう、自分は悟浄に惹かれている。いつの頃から、なんて覚えてなどいないが、同居時代から確実に惹かれていた。だけれど彼は自分のことを親友だと、そう思っているはずだった。勿論親友であることに満足していたわけではない、でもそれ以上を望めば結果的にいまのポジションを失うことになる。それがよい結果であれば万々歳だが、悪い結果であれば、彼にとって親友どころか一緒に旅をする仲間としても失格になりかねない。実際自分の頭の中には悪い結果しか浮かばない。それはそうだろう、だって普通じゃない。期待などどうしたらできる?
 何度か、耐え切れずに告げてしまおうかと思ったこともあった。けれどその都度、言ってすっきりするよりもこうして同室になることのほうが大事に思えた。いまのポジションに未練を感じていた。
 だから耐えてきた。だから耐えられたのだ。三年ものあいだ。
 それがいま崩壊しようとしている。暑さで頭の回路でもいかれてしまったのだろうか、関係崩壊というリスクによってかろうじて保っていた理性という箍がいままさに外れようとしていた。
 逃げなければならない。
 焦燥感に似たなんとも言いがたい緊迫が腹の底から湧きあがってくる。どくどくと早鐘のように脈という脈が高鳴っていた。こめかみが疼く。灼熱に炙られていたときは汗などかかないほど乾ききっていたのに、いま手のひらはじっとりと汗ばんでいた。先程飲んだ水のせいだろうか。
 このままでは危険だ。時計を見れば十九時を少し過ぎたところで、この時間であればまだ店も開いているだろうと決め付ける。幸いこの宿は町の入り口に位置していて、買出しのできる場所といえばここからもう少し町の中心に行ったところにあるから、行って帰ってくるだけでも一時間はかかるだろう。疲れている悟浄がそのあいだ起きているとは考えがたい、たぶん帰ってきたときにはもう夢の中だ。いくら自分でも寝込みを襲うような情けない真似はできないからそうなっていればこっちの勝ちだ。買出しに出れば少しは頭も冷えるだろうし、ついでに酒場にでも行って熱さに焼けた咽喉を潤すのもよいかもしれない。
 思ったが吉日、早速ザックから財布を取り出す。慌てていたため引っ繰り返すように漁ったから中身が布団の上に散らばった。頭の中壊れた映写機のように反芻される悟浄の咽喉元を振り払いながら散らばったものをザックの中に突っ込んだが、脈のせいで手元が震えてうまく入らず苛つく。焦れば焦るだけ散らかるそれに腹立ちも露わに舌打ちをして財布を手に立ち上がった。帰ってきたあとで整理することを決め、ドアまで近づいた、ところで。
 シャワールームの扉が開いた。次いで出てきた熱い湯気に逃げ遅れたことを悟る。
「あっちー」
 烏の行水よろしく湯気とともに出てきた悟浄の半裸身にどくんと心音が鳴った、気がした。頭の中で火花が散って。
 片隅に残った冷静な部分で、外れてしまったのだと悟った。
「…悟浄」
「な、」
 んだ、と続くはずの音を、水の代わりに渇いた咽喉の奥に思い切り、流し込んだ。空気のはずなのにそれはなぜか水よりも冷たくて甘くて、やっとありつけたと感動する間もなく息も絶え絶えに貪った。咽喉からあがる驚きの悲鳴も苦悶の呻きも拒絶の意志も、彼から溢れるなにもかもを飲み込んでなお、渇きは飢えることがなかった。
 何分とそうしていたのだろう、いや、実際はそんなに長くはなかったのかもしれない。高揚と恍惚と、なんだか幸せな気持ちに覆われた脳みそが好い加減に茫洋となったあたりで突然に、悟浄の両腕が思い切りみぞおちを押した。
「っ、」
 反射的に呻いて後ずさる。それでも名残惜しそうに舌を思い切り伸ばしたら絡んでいた舌先に噛み付かれた。
「…痛」
 敏感な舌先に感じた鋭い刺激に思わず口に手のひらを当てて下を引っ込める。痛かったので素直に痛いと言ったら睨まれた。
 ああ、悟浄のこの目の色が好きだ、なんて頭の隅で思いつつ、その睨む眼光に覗いた怯えを見て取って、ようやく我に返る自分のなんて浅はかなこと。
 なんということをしてしまったのだろう。
「あ、の」
 出す声が震える。今更ながら酷い罪悪感に襲われて。
 水を飲みすぎたときのように、息苦しかった。
 それでも悟浄が指で口元を拭う仕草に見惚れた。
「出かけて、くる」
「行って、らっしゃい」
 いまだ収まりきらない呼吸でお互い、おざなりな言葉を交わしたような気がするけれど覚えていない。気づいたときにはゆっくりと閉まり始めているドアと木製の簡単な壁の隙間から、悟浄の赤い髪の毛が糸を引くように消えていったところで。
 閉まりきったときに鳴る音を待ち侘びるように、閉じかけの扉をぼんやりと眺めていた。
 がんがんと鳴っている頭がひどく痛くてなんだろうと思ったが、ぱたん、と軽い音を出して閉まった扉でようやっと吸った呼吸に、理解した。
 ああなんだ、酸欠か。



 それから時計の針が三時間進むあいだ、悟浄は戻ってはこなかった。どこでなにをしていたのかはわからない。部屋に静々と入ってきた彼の、顔も間近で見ていないしその吐く息も嗅いでいないから、酔っ払っているのかどうかもわからない。出て行ったときと同じ音を立てて扉が開いてまた閉まった、その音だけで気づいたくらいに存在感を消してこっそりと。
 その三時間、いろんなことを考えた。ただでさえ疲れていたのに、余計に疲れる。大体、悟浄だって悪いのだ、三時間なんか比べのもにならないほど耐えてきたあの三年間のすべてが水の泡になるほどのことをしでかすための要因を作ったのは、悟浄なのだから。
 そう、三時間の結果として無理やりのように導き出し自分を納得させた答えは、しかし戻ってきた悟浄によって安易に覆された。
 結局悪いのは自分なのだなあ、とか、怯えさせてごめんなさい、とか。
 ため息が出る。というか、ため息しか出ない。そのため息のたびにその背中が揺れるからまたもへこんだため息が咽喉の奥から吐き出される。今更ながら、同室を指示した三蔵が酷く憎い。これでは疲れを取るどころかまるで逆効果だ。
 嫌ならば戻ってこなければよいものを、なぜか部屋にいる存在を鬱陶しく、また胸苦しく見詰めながら夏の暑さにやられた額から零れるじっとりとした汗を感じる。肌を滑るその感触にいらつきながら、ああ、とついたため息に案の定敏感に反応したその背中をやるせなく眺めてから、八戒は宿の小さく切り抜かれた窓から延々と続く曇り空に目をやった。
 もうじき夜がくる。
 たぶん、いままでで一番長い夜になるだろうと予測をつけて、八戒はまた深い溜め息をついた。
 律儀に揺れる背中にかける言葉はまだ、見つからない。

051狼になりたい(20050605)
なっちゃえばいいのに!
←戻