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情事の真っ最中だというのに強烈な勢いで溢れてきたあくびを止める間もなくしたら、大口を開けたところに八戒の指が滑り込んできた。驚いて、抵抗する顎を必死に動かして慌てて口を閉じる前に指が抜けた。 「失礼です」 言いながら今度は舌を差し込んでくる。生温い八戒の舌が口内を暴れるのや、冷たいその手が肌の上を行ったりきたりするのに集中しようと努力するにも、どうにも出そうになるあくび。噛み殺そうとする勢いで八戒の舌までも噛んでしまいそうで少し怖い。ついでに息苦しい。 「…だって、眠い」 八戒の口唇が外れた途端堪えきれずに出たそれを、また指を突っ込まれてはたまらんとばかりに手元にあったシャツで覆う。果たしてこれはどちらの服だろう。似たような白いシャツだな、大きさも同じ? ちょっと交換するか、あ、ちょっと腹あまる、でも肩の辺り、キツイ、ジーパンも貸せよ。そんな、いつもどおり冗談交じりの会話をしながら乳繰り合っていたら、いつもどおり気づいたらこんな状態になっていたのを思えば、どちらのシャツだろうがもはやどうでもいいことなのだろうけど。握り締めたシャツからは自分のそれはとは違う意味で嗅ぎなれた八戒の匂いがするから、たぶん彼のなのだろう。 というか、今更ながらなぜこんなことをしているのだろうか。そもそも今日は出かける予定もなかったし、ここのところ連日働いていたせいで少しばかり寝不足だったりもするから、なるたけ早めに就寝しようとか、珍しく殊勝なことを思っていたはずなのに。 なんと言えばいいのだろう、八戒の体というかしぐさというか。当然のこととはいえ同じ男のはずなのに相対してみれば全然違っていたそれを見ていたら、止まらなくなった。 男に興奮するその事実はいつも、後々になって頭に推しかかってくる。わかっている、男のすべてに興奮しているわけではなく、八戒相手だから興奮するのだ。例えば自分のシャツを着ていていも、その袖を捲り上げたりボタンを留めたり外したりしていても、彼以外ではどうということはない。所有欲の強い自分のことを思えば、もしも自分の服を着ている他人を見かけでもしたら、なにを我が物顔で人のものを着ているのかとむしろ腹立たしい。八戒だから許せるし、八戒だから興奮する。でもそれは、果たしていいことなのだろうかと、最近ふと、考えるようになった。恋愛相手をひとりに絞ることは確かに正しいことかもしれないが、逆に考えれば惨めで手に負えないもののようにも思う。ある意味で、恐怖だ。 だって、「お前だけだ」なんて重い。とか思われたら、やるせない。 だから近頃は、できるだけ重く見られないよう、なるべく軽く見えるよう、努力している。お得意の所有欲からくる嫉妬も表には出さないよう努めている。彼がどこへ行こうと気にしない素振りで、自分自身も彼以外にも相手はいるように見せて。 そのくせ八戒しか目に入らないから、町での誘いも見事に断っている。でも下手に早く帰ると変に思われてしまうかもしれないから、無駄に酒場で時間を潰す。深酒をする。いっそ酔い潰れてしまえれば楽なのにそこまで酔えない。酔ったとしても悪酔いばかり。お陰で眠い。あくびが出るたび頭が痛い。本当に、やるせない。 「目の下、クマ」 連続して出てくるあくびのせいでしみ出た涙を指先でぬぐってくれながら、八戒が言う。にじんだ視界の中ふわふわと揺れるそれを見て、ああ綺麗だなあとため息が出る。口に出して言おうとして、でもそういえば、八戒の前の女も同じようなことをたぶん、思っただろう、そして口に出しただろうと気づいて、言いたくなくなった。代わりに愚痴る。 「だーから、ねみーんだって」 「最近毎日働いてましたからね、しかも明け方まで」 心なしか責めるような口調に感じたので、淋しかった? と問いかけた。 「全然」 きっぱりと言い切られて、まあそうだわな、と納得すると同時に、ふいに鼻の奥に痛みが走った。頭の中でリフレインするそれ。全然。そうか、全然か。 照れ隠しだとわかっていても、だ。食事くらいは一緒に取りたいと常日頃言われていることを顧みれば本心は勿論、淋しいとまでゆかずとも少なからず物足りないとかもっと一緒にいる時間が欲しいだとか感じていることをわかっていても、だ。ここまできっぱりと言われてしまうと自信が揺らぐときもあるわけで。眠気と、昨晩の悪酔いのせいで気弱になっているから余計に。 だからといってここで思い切り拗ねてみたところでどうしようもないこともわかっている。目の下にクマをこさえてまでした努力も無意味。だからしみ出る涙をあくびのせいにしようと、あーとか適当なうめき声を漏らす。タイミングよく八戒が弱いところを弄ったので、実際にはあくびとも喘ぎともとれない、無粋な声になってしまったけれど。 「色気ないですね」 「だめ、ほんと、眠い」 「じゃあこんなこと、しなきゃいいのに」 確かに、それは真理だ。当たり前のことすぎて笑えもしない。増して、八戒にとってはしなくてもいい程度のものなのだろうか、とか。気弱になるといつもそうだ。拗ねた思考であれこれぐちゃぐちゃと考えてしまう。そして最終的にはこの結論。 ああ、なんだか自分ばかり好きでいるような気がする。 「…そーだよなあ?」 はぐらかすように語尾を上げつつ、ふざけた様子で答えてみた。しかしそうは言っても自分が仕掛けたことだから、しかもだからといってやめるではなく、むしろ擦り寄るように身を寄せたりしているから、じゃあなんで? と囁かれた。 「アナタガスキダカラー」 「最近、変ですよ」 「アナタガスキダカラー」 「もう、」 そんなのわかってますよ、と、苦笑交じり、心配交じり、そして多少、いじけ交じりに返される。八戒の、こんなふうにいろいろな感情を絶妙にブレンドしているくせにそれを隠そうとしているような表情が好きだ。というかどんな表情も好きだ。顔だけじゃなくて体も好きだ。髪が長かろうが腸がはみ出していようが、昔の女の話をしているときの八戒ですら、好きだ。丸ごと好きだ。 「スキダカラー」 考えていたら噛み付いてやりたいくらいになってしまったので、そうしてしまう前にもう一度、声に出して繰り返す。 できるだけ重く見られないよう、なるべく軽く見えるよう、あくびと一緒に。 |
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