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いずれこうなることはわかっていたのだ。わかっていてもついつい口をついて出てしまう疑問の言葉は自分の口癖。 「なあ、これなに?」 自室に入ろうとドアノブに右手をかけたところでいつの間に背後に忍び寄ったらしい八戒が、その手に自分のそれを重ねてきた。問いかけながらも不思議と驚きはなく、たぶんここで振り返ったら八戒の口唇が自分のそれに重なるのだろうな、このふたつの手のように、と冷静な頭で考えつつ首を回した。案の定重なってきたから瞼を閉じた。 右手同士と口唇同士、重なったそれらはそのままに体を向き合せてまるで握手をしながらキスをしているみたいなその様を滑稽に思う。笑いが込み上げてきたので薄く笑んだら歯列のあいだに隙間が出来てしまい、そこへ八戒が舌を滑り込ませてきた。強弱をつけて擦られて、閉じている瞼が何度も震えた。 どのくらいかそうしているあいだに右手から力が抜けて握手が解ける。息苦しくなって顔を背ければ追い縋ってきた八戒が今度は両の手首を押さえ込んだ。力任せに扉に押し付けられて、先ほど回そうとしていたドアノブが背骨の真ん中に食い込んだ。 「痛い」 「ごめんなさい」 責めるつもりなどひとつもなく思わず出てしまった非難の声だったが、意外にも素直に謝られた。それでも押し付ける力は変わらなかったので、たぶん本気で悪いとは思っていないのだろう。もう一度、今度ははっきりと責めるつもりで「痛いって」と言いながら体を多少ずらした。その間だけ力を緩めてくれて、 「すみません」 言いながらまた押しかかる。すみません。ごめんなさい。自分の疑問符同様、謝罪の言葉は彼の口癖だ。 思い返せば最初のときも、確か互いの口癖から始まった。なに? と訊こうとした自分にごめんなさいと被せた八戒。 「なにがしたいの?」 「確かめたい」 「なにを?」 「気持ちを」 「やってみないとわからないのかよ」 「わからないですよ、障害が多すぎて」 言いながら口唇を重ねて、そしてすぐに離した八戒。深くもない。粘ってもいない。そんな子どもじみたキスだった。 不思議なことに嫌悪がなかった。それどころか逆に充足とか満足とかそういった満ち満ちた気分に陥ったものだから、余計に不思議だった。元々ひとと肌を触れ合わせるのが好きな質だったとはいえこれはさすがに変なのではと。 いま思えばその直感はひとつの警告で、感じたときに素直にやめておけばよかったのだ。もっときちんと、もっと強く拒否をすればここまでエスカレートすることもなかっただろうに。 そして翌日も繰り返されたその行為。 「なに」 「ごめんなさい」 言いつつ重なる口唇はやはり子どもじみていて、そんな日が幾日か続いたあるとき、じわりじわりと湧いてきていたらしい自分の欲求にふと気づいてしまった。 おかしなもので、はじめは満ち満ちた気分で受け止めていたそれが段々と物足りなくなる。重なればもう少し長く重ねていたいと思い、離れればもう一度重ねてほしいと願う。重ねるだけでは足りなくてもっと深くほしくなった、粘ってほしくなった。 気づいた翌日、いつものように重なってきたそれを困惑した思いで受け止めたら、思いがけずいつもより長く接吻けられた。驚いて顔を背けたら、外れたそれが追い縋ってまた重なってきた。案外すんなりと舌が差し込まれた。 気持ちがまた充足した。 しかしそれが幾日か続いた折にはまた新たな欲求に気づいてしまう。そして与えられる。 そんな繰り返しの日々を今日までずっと過ごしてきたから、自然その結論に思い至るのも無理はない。 つまりは思い知らされたのだ、気持ちを。そして彼の真意に気づく瞬間。 確かめたかったのは、彼自身の気持ちではなくてこちらの気持ちのほうだったと。 それでも疑問の言葉は口をついて出てしまう。口癖だからしかたがない。 「今度は、なにするつもり?」 押し付けられながら訊く。いままでも第一過程、第二過程というような順を追った行動だったからわかりやすいことこの上ない。これから彼は、きっと取り返しのつかないところまで行動を起こしてくるだろう。だってそれを自分が望んでいるから。 今日でちょうどひと月くらいだろうか、それほどの時間をかけてじっくりと満たされ続けた体と心はもういっぱいで、そのくせ満たされると同時に次がほしくなるから肥大してゆく。人の肥える原理に似ているなと思った。満たされた胃は、翌日には前日よりも膨らんでいてそれに見合った食べ物をほしがる。腹八分目とはよくいったもので、食べなければ胃は縮むし自然痩せるというのに。 もしくは薬物だ。 「すみません」 日に日にエスカレートしてゆくそれに満たされつつもまだ足りないと感じるのは、満たされ続けたことによる依存と耐性。感覚の麻痺。 体が足りると今度は言葉がほしくなる。言葉が足りると今度は心がほしくなる。 「こうまでしないと、わからないもん?」 こうして疑問の言葉をついで真意を汲み取りたくなる。 まったく、困ったものだ。 満たされて満たされてどこまで肥えてゆくのだろうか。こちらの欲求もそれを与える彼も。 わからない。だから本当は言ってほしくない。与えてほしくない。 なのに。 「わからないですよ、」 あなたが好きすぎて。 耳元で囁かれる言葉にため息が出た。 ああほら、また満たされた。 |
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