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雨の音が耳についてひどくうるさい。 寒さも極まった二月の初め、雪ならまだしもなぜか雨が降りだした。しかも大粒の雨だ。強風が吹くとか雷が鳴るとかそういうものではないが、まさにバケツを引っ繰り返したような、いやもっとひどい、消火放水のような降り具合で、空から真っ直ぐに落ちて地面にぶち当たる。おかげで雨粒がどこかにあたる音、たとえば木々の葉に落ちる音やそのせいでざわめく枝鳴りも大仰に響いて、どこにいてもなにをしていても耳につく。 そんな夜、雨の日のお定まりであるかのように覆い被さってきた八戒にこちらもお定まりの一言。 「おい、やめろよ」 「やめません」 即答されたと思った途端あっという間に丸裸。いつもながら驚くよりも感動してしまうほどの手際だ。遠慮もくそもありはしない扱いであるが、その割りに、いざことに及ぶとなると初めてでもあるような触れ方をする。肌を滑る手もぎこちなく、こちらに対して申し訳ないとかいう罪悪感や、こんな自分が嫌だとかいう自虐的な思いや、それを客観視し嘲笑うもうひとりの彼なんかを多分に含んだ触れ方だ。恐る恐る、を隠して隠し切れなくて諦めたような。 雨の音が耳についてひどくうるさい。 こんな夜の八戒は決まってこうだ。一言で言えば、らしくない。普段ならばこちらを驚かすようにいつの間にか忍び寄っているくせに、このときばかりは扉をおおげさにノックしたり、足音を立てたりするのもわざとらしい。 まあ普段のように気配を消したりなんだりするのが面倒なほど、不安定なだけかもしれないが。 「ていうか、やめられないんです」 情けない顔でそんなふうに言う。やめられない止まらないなんてどこぞの商品キャッチコピーでもあるまいし、といってもそれほどこちらに味があるわけではない。環境がそうさせるのだ。甘いものが苦手でも、疲れているときにはやたらと食べたくなるような。 「イカレてんの」 「ええ、残念なことにそうみたいで」 ため息。同時に力も抜ける。 たぶん、このまま流される。彼といる限りずっとこのペースに巻き込まれてどう足掻いても抜け出せないというのは、最初にこうなったときに悟ってはいたけれど、やはり悪あがきのようなため息は出てしまう。 きっと相性が悪いのだろう、それともいいほうなのだろうか。彼の顔や仕草はこちらの同情心をいちいちうまく煽ってくれるから、胸糞悪いといえばそうでもあり、心地がいいといえばそうでもある。こんな自分でも意味があるように思わせる。 「なんで逃げないんです」 訊かれて思う、さあなぜだろう。やめろと言いながらも相手がやめるまで待っているような現状。縛られているわけでもない、逃げられない状況でもない、逃げようと思えば簡単なのに。まあ単純に同情なのだろうけれど。 彼が心配だとか、そういう思いも無きにしも非ず。正直自分のこの身ひとつ自由にさせることで彼が安堵し、安心し、少しでも発散できるのであればそれでいいと、思う自分もいる。それがどのような感情からくるものか自分では判然としない。すべては同情だろうと思いながら、そうでもないような気がしている。でも他にうまい言葉が思い当たらない。 「殴っても蹴っても、いいんですよ」 「ンなことできっか」 まあ言い訳を考える必要はないというのは楽だ、相手に対しては表面上同情の一言で片付けられる。たとえば気持ちを聞かれて誤魔化すときも、自分の本心はどうであれ、それだけでいいのだ。それで相手が傷つくなど、考えるほうがおこがましい。 「それも、同情ですか」 「…そうだな」 言うたびに、誤魔化すたびに胸の底が小さく痛む気がするのを、やり過ごすだけでいい。ただそれだけ。 雨の音が耳についてひどくうるさい。まあただ、それだけのことだ。 |
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