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隣にいるだけで、息がかかるだけで、肌が触れるだけで心臓が高鳴るなんて、少女漫画じゃあるまいし、自分にはまるで似つかわしくない。そんなことはわかりきってはいるのだが、実際のところ体は正直で。 自覚はそのあと。これがいわゆる、友人に対する好意以上の、恋とか愛とか呼ばれる部類の感情だと気づいたのは、コンビニで成人向け雑誌のビニルテープと格闘していたときだった、というのも情けない話だが。 それからが危ない。毎日危険と隣りあわせだ。 例えば仕事の帰り、いつもの飲み屋にふらっと入ったとき。お互い常連なのだから会ってしまうのは仕方がないし、それを期待して行ってしまった自分もいるわけだから、「お前、なんでいるんだよ」なんて言葉が口から出てしまうのはただの、気の置けない友人間での挨拶代わりの台詞であるのと、本音を言えばまあ照れ隠し。だけど、それに対して「あなたも来るような気がして」なんて答えられた場合には、どうしていいかわからなくなる。いつもの、お決まりの席なのに、隣に座るのも怖くなる。 例えば休日、モーニングコーヒーを飲みに出た先で見かけたとき。声をかけるのも緊張してあえて遠い席に座ってしまったり。だけど、自分のものであるはずなのに目線がなぜか言うことを聞かず彼から外れてくれなくて、彼がコーヒーを飲む様や店員にお代わりを頼むときに手を挙げるその仕草を逐一追ってしまう。朝刊を捲る手の優雅さなんか危なすぎて。視界の端にちらつく店内に飾られたカラジュームがもどかしくて、思わず身を乗り出してしまったところで目が合ったりしたら、もう最悪だ。 こんな状況が例えばドラマなんかで演じられていれば、ひとは苛つきながら言うのだろう、手を出せばいいものを、と。だけど出すのが怖い。なぜかと問われれば、それはこの距離を失ってしまいそうだからとか、だったらこのままでいたほうがいいだとか、純情ぶった考えも浮かぶのだが、本音を言えばそうではない。 単純に恥ずかしいからだ。 だって今更なんと言えばいい。そもそも、言ったところでなにになる。 だから避けた。仕事帰りの一杯も、休日のモーニングコーヒーも諦めたし、諦めきれない場合は違う店に足を向けた。 携帯に着信があってもできるだけ無視を決め込んだ。とは言っても学生時代からつるんできた仲で、当時から互いにひとり暮らしのまま引越しもしていないとなれば、テリトリーはほとんど同じ。用事があれば行きつけの店に行けば会えるわけで、つまり電話などたまにしかかかってこない。一度だけ、そのたまさかのことが携帯メールを打っている最中に起こってしまって、サ行を連打していた勢いで通話になってしまったことがある。受話音量を多少大きめに設定してあったため、通話口を耳に当てずとも聞こえてきた「もしもし」の声に驚いて、慌ててぶち切った。あとから思えばいくら友人間であっても失礼極まりない行為だったかもしれないが、電車の中であったから仕方なかったのだと自分に言い訳をして。けれどかけ直すことはしなかった。それに対するうまい言い訳はいまだ考え付かない。 すべてを避けて通れるわけではないと自覚していながらも、我ながらうまくいっている思っていた。けれどもいざそんなことをしてみれば日々なんの潤いもなく、ただ時間を消化するためだけに過ごしていた日常。ただ単調な毎日の繰り返し。時折街中ですれちがうその姿を見て見ぬ振りして、声が聞きたいと言う心の声を無視していた。無視しているうちにそれが自然になり、そのうちにこの気持ちなど一過性のものだったと気づくときがくるのだろうと思った。 そんな折に、会ってしまったからなんとも気まずい。 そんな現状。 公園の隅っこに設置されたベンチに座りながら、なぜこんなことになったのだろうと考える。 確か今日は早めに仕事を終わらせて、たまには狭い我が家で嗜む一杯もいいかとビールの大瓶を買いにスーパーに足を向けたはずだった。そこで顔馴染みの小さい少年に偶然出くわした。いつもは一緒に住んでいるらしい目つきの悪い金髪が同伴しているはずなのに今日に限ってはなぜかひとりで、背中を丸めながら見切り品の札を貼られた弁当を見詰めている彼にふとデジャブを感じ、声をかけたのだ。 「よお、」 「あ、悟浄!」 どんぐりまなこ、と呼ぶにふさわしいほどでっかい目で見上げられ、自然と笑みが零れる。 「お前、ひとりか? 保護者どうした」 「ああ、うん…」 普段ならむかつくほど溌剌な受け答えをする彼なのに、妙に歯切れの悪い返事と、目の上に多少の翳りが見えた様に察した。つまりはくだらないことで言い争いでもしたのだろう、炊事もやってくれている相手に楯突いて飯でも食いっぱぐれたのかもしれない。 弁当のひとつを手に持ちながらもじもじしている少年の頭に手を乗せ、手触りのよい髪の毛をわしゃわしゃと掻き混ぜる。 「んなショボイもん食ったらいつまでたってもチビのまんまだぜ」 笑いながらからかったらうるせーなとやかましく喚く。誰かとまともに話をしたのなんて久しぶりだったから、こんな喧騒すらも懐かしいなと思って、よっぽど人恋しい気持ちになっていたらしい自分に気づいた。 「飯、俺ン家で食うか?」 思ったら、言葉が出ていた。自宅にひとを招き入れるのが得意ではない自分にしては珍しい台詞だ。 「う、ん」 けれども少年は乗り気ではないらしい。歯の間にものが挟まったような返事に、そうかと思う。 例えば自分の家で飯を食うにしろ、保護者に連絡するのが筋というものだろうけれど、喧嘩中ではそれもようできない状況で、といって連絡もしないままでは余計にこじれるだけだ。 「別に嫌ならいいんだぜ、また今度にでもな」 気を利かせて言っても、いつもの声は返ってこない。 本当は、わかっているのだろう、さっさと謝ってしまえば済む話だし、できることならそうしたいと思っているはずだった。だけどもいざ面と向かうと素直になれない。 まるで自分を見ているようだと思った。だから、できることならなんとかしてやりたいとも思うのだが、正直なところこの少年の保護者とはあまり、いい相性ではない。とはいえ声をかけてしまった手前引くこともできず、 「俺が一緒に行ってやろうか」 嫌々ながらも出てしまった言葉に、遠慮でもしてくれればいいのに目を耀かせて、少年はいつもの溌剌な返事をした。 そのあとのことは、あまり覚えていない。 道すがらくだらないことを言い合いながら少年の家に向かった。ご立派なエントランスからオートロックのドアを抜けてエレベーターに乗り込んだあたりまでは覚えているが、エレベーターを降りてすぐ目の前にある少年の家の玄関に、あれだけ避けまくっていた背中を見つけてから、記憶が途切れ途切れだ。 辛うじて覚えている会話といえば、 「あの…三蔵」 「…てめえ、こんな時間までどこほっつき歩いてやがった」 「違うんだよ、スーパーで悟浄にばったり会って」 「知らねえやつについてくなってあれほど言ったろうが! 不審者に殺されでもしたら俺の怒りはどこにぶつけろっつーんだこのバカ猿!」 なんていう、痴話喧嘩のような親子喧嘩。なるほどこの保護者にとったら自分は知らないやつで、ただの不審者なのだな、だからこんなにも不躾に突っぱねるのだな、と妙に納得したから覚えている。 あとは、 「三蔵、言い過ぎですよ」 「余計な世話だ」 「悟空が心配で僕を呼び出したくせになんですかその言い方は」 「手間掛けたな、帰っていいぞ」 なんていう大人同士の会話。結局のところ心配していたのだったら正直に言えばいいではないかこのハゲと思ったから覚えている。 つまり保護者から理不尽にも追い出された自分たちふたりは、タイミング的に一緒に帰ることになったのだろう。けれどもなぜここにふたりでいるのかがいまいち思い出せない。 同じベンチに並んで座りながら、お互い無言で過ごすこと。木製の古びたそれの座り心地は最悪で、居たたまれない思いを余計に掻き立てた。公園の半分にはブランコやジャングルジムといった遊具が、もう半分はちょっとしたグラウンドになっているらしくかなり整備されている。ベンチはそのグラウンドの隅に設置されており、遊具場とグラウンドふたつを仕切るように立てられた電灯が真正面の遠方にあるだけで他に視界を遮るものはなにもない。入り口にあった自販機で八戒が購入してくれたコーラの缶が、手のひらの熱を奪って徐々に生温くなってきている。 一体なんなのだ。 こんな風に公園でなんて、恋人たちじゃあるまいし。 思った途端勢いよく立ち上がっていた。 「俺、帰…」 「久しぶりですね」 先ほどの少年のようにしどろもどろになりながら、慌てて帰る意志を告げようとしたら、言う前に声をかけられて固まった。 久々聞いた八戒の声であったから、聞き飽きるほど聞いたはずだったのにまるで初めて聞いたときのような気持ちになる。中性的とも取れる声音、それでいて男性特有の音程の使い方を持っているのでなんとも耳に心地好い、はずなのに、いまはどちらかというと怖い。 「…おう」 「座ったら?」 大人しく従ってみてから、いや、座っている場合ではないだろう自分、と内心で思う。 夜風が頬を打った。初夏の空気はまだ肌寒く、それでいてじっとりと纏わりつくようで汗腺からにべたついた汗を誘う。冷たさのすっかりなくなったコーラのプルトップを指で弄びながら、こんな子供じみた炭酸ではなく、早く家に帰って冷えたビールを呷りたいと思った。開けもせずいじっているだけというのも、折角買ってくれた彼に申し訳ないと思いつつ、一触即発とも取れるこの空気では、たかが缶のプルトップを開ける行為ですら困難に感じる。 缶の肌に結露した水滴に指を滑らせて、今夜は満月かな、と空を見上げたところで今度は八戒のほうが突然立ち上がった。反動で多少軋んだベンチに驚き、身を竦める。 「ちょっと、きついこと言います」 明後日の方向を見ながら決然と言われたその台詞。 いよいよきたな、と思った。 単純に考えて、自分は彼にひどく失礼なことをしたのだ。いわゆる、シカト行為。 やっている最中はこれで正解だと思っていた。しかしいざ面と向かってみると、それがいかに悪質でねちっこいものだったか、よくわかる。小中学生の女子内で頻繁に行われるようなものだった、といまなら言える。竹馬の友であるからこそ、やってよいことと絶対にしてはいけないことがあり、ここ数日彼に対して自分が取ってきた行動は明らかに後者だ。いまこの場に居たたまれない思いももちろんあったが、それよりもたぶん、彼に言われるであろう罵倒が怖くて帰ろうとした部分もあった。けれど、身勝手な思いで避けていたわけだから、説教されることも覚悟しなければ。 ところが。 「言ったら関係が壊れそう、それが嫌で言わない、と思うのは非常によくわかる心理なんですが、言わないにしろ結果的に関係崩壊の方向に進んでいるのはなぜなんですか?」 彼の口からこんな言葉が飛び出したから驚いた。説教されるべき内容と繋がらない。 っていうか、意味がわからない。 混乱した状態で首をかしげても、八戒の言葉は止まらなかった。言い出したら一気に溢れてきてしまったのだろう、興奮したように一度鼻息を吹いて、こんなことを言う。 「と、いうかですね。なんで好きなんだろうとかなんでこのひとなんだろうとか・・そういうこと考えるの、もう飽きません?」 足元の砂利を鳴らしながらその場をぐるぐる回っている八戒は、珍しく苛ついている様子だ。湿った空気のせいで重い前髪が額に張り付くのが鬱陶しいらしく、掻き揚げては乱れた髪を直している。そんなに掻き揚げたら禿げるぞ、と言いたいが、そんな冗談が飛ばせる雰囲気でもない。 正直なところ、そんなにも苛々されてもさっぱり事情が飲み込めない自分。置いてけぼりのまま話が進んでしまうのも悔しいので口を開きかけたのだが「一体なんの話を」と言いかけたところで「とぼけないでください」ときっぱり遮られた。 そのまま立ち塞がるように、ベンチの前で仁王立ちになる。 「いいですか?」 一呼吸。上から見下ろしながら、親が子供に言い聞かせるような口調で言うものだから、つい「はい」なんて殊勝な返事をしてしまう。 真っ直ぐに目が合う。声を聞いたのと同様、久しぶりに彼の目を見たから、こんなにも深い緑色をしていたかと不思議に思った。逆光になっているからかもしれないが、以前よりも暗い色に見える。奥のほうに傷ついているような揺れを見て取った気がしたが、単なる気のせいだったのかもしれない。 「聞いてます?」 「聞いてます」 あさってのことを考えていたら低い声で叱咤された。はっとしたように返答したら、これだから、とますます苛ついた声を出す。 「だから、つまりですね」 言葉を選んでいるのだろうか、なんだかいまにもツバを吐きかけられそうな勢いだったので、もしそうなっても避けられるように軽く腰を浮かした。 「だから、理由を探しても、治らないもんは治らないってことです」 いや、あの、 断言されても。 「…なにが?」 「恋の病」 その言葉を飲み込む一瞬、確かに時が止まった。 「アホか!」 「ええ、アホですよ。あなたがね!」 思わず立ち上がって怒鳴ったら、それ以上にでかい声で怒鳴り返された。広めの公園の奥まった場所で言い合いをしているとはいえ、近隣には居住者もいるというのにそんな声で騒ぐんじゃない、と自分のことを棚にあげて思う。 「少し、落ち着け」 「僕はいつも以上に冷静です」 せめて低い体勢にでもなったほうがまだ声も響かないかもしれないと混乱した頭で思い、彼の両肩にそれぞれ手を乗せたが、まるで汚いものであるかのようにその手を払いのけられた。 「ひとつだけ、言いますよ」 ひとつどころではないほどに言ったのにまだ言い足りないのか、払いのけられたことに思わぬショックを受けた自分をこれ以上虐げるのかと、少しだけ理不尽に思った。 コンチクショウという思いで睨んだら、いままで見たことのない形相で睨み返された。 そして、一言。 「傷つくことを恐れているなら、あなたの負けです」 吐き捨てられる。そのまま踵を返し、公園の砂を敵のように踏みしめながら立ち去る背中を茫然と見詰めながら。 だから、なんの話だ。 ていうか。 「…そんなん、お互い様だろが」 無意識に口から出た言葉に自分で納得。 ああ、なるほど。お互い様だ。 ベンチの上、コーラの缶が出番を待ち侘びるように静かに立っていた。 |
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