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「ねみー」 「寝ればいいじゃないですか」 「寝たくねー」 「じゃあ起きててください」 「ねみー」 再三にわたる八戒のお小言に伸びた返答を返しながら悟浄は、寝そべったソファで怠惰な格好をさらすまま煙草の煙を吐いた。苦く焼けそうな煙の味が睡眠不足の咽喉奥に張り付いてうまく声が出ない。 「ね、みー」 繰り返す声には既に覇気もやる気もくそもなにもない。まるで狂ったテープレコーダーが同じ箇所をくるくると行き来するように絡んで戻って再生されるだけだ。掠れた息を思い切り吐き出して何度目かのそれを口に出した途端、新書の角で八戒に叩かれた。 「…痛え」 「ハードカバーですから痛くなかったら不感症ですよ」 およそ三秒は遅れて痛みを訴えたら平然とそう返してきた八戒の言葉がちょっとばかり引っ掛かったけれど、正直それに怒気するだけのやる気がまったく出ない。当然だ、昨日は夜半過ぎまで酒場に居座りしこたま酔った挙句にふらふらと帰宅、自室の堅いベッドで爆睡したのも束の間なぜか朝の九時には目が覚めてしまったのだから。 二日酔いはない、けれど酒に焦げた咽喉はいまだに痛みを訴えている。煙草を吸い込んだだけで咽喉の上に痒いような刺激が走る。いつもはうまいと感じるハイライトもいまの状態ではただの苦い煙だ。味も素っ気もない。味わう間もなくニコチンを体に送り込むだけの作業を繰り返しながら、悟浄はごろんと寝返りを打って体を仰向けた。痒みを我慢してニコチンをもう一口。まずい。 自室に入って寝てしまえばよい話だと、自分でも思う。昼食も片付けも終えた。昨日の賭け事で当分は食っていけるだけの小金も稼いだから今日一日は出かける予定もなにもない。だらけた体と精神を回復するための時間はたっぷりあるのだ。 しかしなぜだろうか、眠ってしまいたくない。というか、寝る気力すらもない。自室のベッドに戻るのも布団を被るのも億劫だし、まどろんで眠りの縁までたどり着くのすらもまったくもって面倒くさい。 ゆえに、八戒のお小言を全身に喰らいながらもここに居座り続けているのだ。 とりあえず、そっちのほうがかなりのやる気を必要とするのではないだろうか、という突っ込みはナシの方向で。 そんな悟浄に対して、普段はねちっこいほど粘って嫌味を応酬する八戒のほうがどうやら限界を感じ始めたらしい。怠慢をこの上なく貪る悟浄に辟易したように、八戒は心底かったるそうなため息をついた。灰色のコンクリ壁に埋め込まれている窓についた分厚い遮光カーテンを、音を立てて開け。 「眠いなんて、このお日様を見ていたら言えないはずなんですけど」 カーテンの爪カギがレールを滑る軽やかな音と共に窓越しとはいえ容赦なく降り注いできた太陽の光に悟浄は咽喉の痛みも忘れて小さく悲鳴を上げた。悟浄には昼の光など目に刺さるばかりで美しさなど感じない。眩しく眇めた目の奥が突然の光に負けて痛みを訴える。 「眩しい。いてぇ。カーテン閉めろ」 「嫌ですよ、起き上がってご自分でどうぞ」 八戒にしてみてもぐだぐだと寝言のように眠いばかりを繰り返し、それに対しておざなりの言葉を返すのも好い加減飽きてきた。手に持っているハードカバーの新書は少しばかりも文を頭に残さない。ページを繰ってはそこにあった名前にどのような登場人物であったかを確認するためにふたつばかりページを戻す作業をもう何度も重ねていて、ページは進むどころか巻き戻ってしまっている。折角昨日購入したばかりの本なのに、悟浄とのくだらない掛け合い漫才のあいだに行ったり来たりしたページにはすでに指の形をしたおかしな歪みが浮かんでいた。 仕方なく八戒はため息と同時に読んでいた本を閉じると。 「じゃあ、あなたはあと三秒で眠くなーる」 「…なにそれ」 いつものように投げ遣り気味に言われた突拍子もないセリフに悟浄の半分閉じかけた目が普通サイズまで開かれた。 「おまじないですよ。はい目、瞑ってー」 「バカにしてる?」 「うるさい」 低く、地を這うような声音で怒られれば二の句も告げず従うしかない。 まったくもって調教の成果だ。 つーか眠くなーる、ったってもう眠いんですけど。 「いーち、」 自分には反論の余地もないらしい。ため息ひとつついたあたりで容赦なく、心地好い声で歌うように数えられる。まるで子ども扱いのそれに腹が立って寝られるわけもない。 しかし。 「にーいー」 唱えられる呪文のような間延びした声の心地好さは確実に悟浄を眠りの縁へといざなっていた。前々から思っていたけれど、もしかしたら八戒の声にはおかしな魔力が込められているのではないだろうか。それは、彼の凍りつくような怖い笑顔ととは別物で、なんとなく、安心するような。 「さー…」 声の魔力に落とされるように、ラストカウントの最後の音が聞こえぬまま、悟浄は軽やかな眠りの縁に立った。 「本当に寝ちゃったんですか?」 静かな寝息を立てて薄めの胸板を柔らかく上下させている悟浄に、呆気にとられたまま八戒は呟いた。勿論返ってくる言葉はなく安らかな呼気が聞こえるだけだ。 よくもまあ、あれだけ眠いだの寝たくないだのぐだぐだと繰り返していたというのに、いざとなると早いものだ。 八つ当たり半分で、試しに先ほどと同じように新書の角で軽く小突いてみたけれど、閉じられた瞼がかすかに揺れただけでやはり反応は薄かった。 先ほどとは打って変わって外から聞こえる風と悟浄の寝息しか聞こえない、静まり返ったコンクリ壁の室内。 おかしなもので先ほどまで雑音のようにやかましかった声が聞こえなくなると途端に物足りなくなる。そのおかしな気持ちのままどうせならひとり静かに読書を楽しむのも悪くはない、けれどそういえばソファを占領されたままだ。仕方なくリビングテーブルの木の椅子に腰を落ち着かせるけれどリビングからでも伺える赤色が視界の端にちらちらと雑音のように映ってどうにも集中できなかった。 新書のページについた指の形はいよいよくっきりと形を現して。 「…あと三秒」 ふと、知らず出ていた自分の声にその持ち主である八戒自身が驚く。他の音がなにもないからだろうか、意外と響く室内で自分の少しばかり上ずった声が反響していた。 あと三秒。 静かにまどろむ悟浄の耳に届くかどうか。 「あと三秒で、」 あなたは僕を好きになる。 |
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