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八戒が風邪を引いた、らしい。らしいというのも、ここ数日部屋からあまり出てこないからはっきりとはわからない。ただいつもなら外出している時間になぜか家にいる、というか部屋に籠もっていることと、その最中絶え間なく聞こえる痰の絡んだ不恰好な咳と、片付けるのも面倒だと主張するように放置されている水の入ったグラスやその横にある薬の残骸で推測しているだけだが、まあ外れようもないほど紛れもなく風邪だ。 たまに顔を合わせたときなどはご丁寧にマスクまでつけている。花粉症だというには天気予報の花粉情報はとうに紫外線情報に切り替わっており、間もなく梅雨入りするだろうと言われているこの時期には不釣合いだ。重度の花粉症患者である某生臭坊主ですらマスクを外している。そもそも八戒は花粉症ではないはずだし、花粉なら咳よりくしゃみだろう。 「風邪?」 いつだったか、たまさか顔を合わせたときにそう訊ねてみた。マスクをつけると誰も彼も、どうしてこうも一気に怪しい雰囲気になるのだろうか。恐る恐る訊いたそれは否定されるでもなく曖昧に、目元だけの笑顔で返されて、そのままふらついた足取りで部屋に戻られてしまった。関わるなとでも言いたげに締め切られたドアの音に虚しさが募ったのを覚えている。なにせはらわたまで見せた仲だ、いまさらマスク姿が恥ずかしいというわけではなく、風邪がうつってしまうのを懸念してのことだろうけれど、看病くらいさせてくれてもいいのではないかと。それこそはらわたまで突っ込んでやったのだから。 そんな日が続いているものだから、なんだかむしゃくしゃしている。勢い酒場で強か飲んで、それでも八戒が心配だからと誘いも断って、覚束ない足取りで帰り着いた家は無論明かりも消えていて、少しばかりがっかりしながら水を欲して立ったキッチンのステンレスの上に、八戒の作ったらしい料理と、添えられたメモが目に入った。 「明日は寒いみたいです、薄着して風邪引かないように」 そんなの、メモなんかではなくて口で言えばいい。せっかくだからと摘んでみた炒め物も、おいしいはおいしいけれど、目の前に八戒がいないだけでどこか味気ない。 だめだ。飲んで寝てしまえば押さえ込めるだろうと思ったけれど、やっぱりまだむしゃくしゃする。 というかまあ、開き直って言えば、つまり、欲求が、不満。 いままで暇さえあれば絡み合っていたのに、それすらもご無沙汰だから。 そういうところまで律儀なのだ、無駄に。風邪を引いたからって別に、ご丁寧に全部が全部自重してくれなくても、いい。 なんてことまでは言えないから、酒のせいにして夜這いをかけたのが、ついさっき。 「酔ってます?」 彼の部屋に押しかけて、布団にもぐりこんで、驚いて身を起こした八戒の上に跨って、とりあえず愛撫して、いまはゆっくりと、パジャマのボタンを外している最中。 確かに酔っている。視界はぼやけているし、衣服を剥いでいる手元も少し覚束ない。でもこうでもしないと触れられないのだ。自分から圧し掛かるなんて滅多にないから、酔った勢いとかそういう、理由が欲しかった。そのお陰様で罪悪感やら自責の念やらその他諸々湧き上がってきて情けないことに顔が直視できないが、一度動き出したら止まらない。止まるつもりもない。 「こら、」 困ったように叱咤されて、ボタンにかけた手に八戒のそれが添えられた。留められているのは最後のひとつで、もうここまできたら今更だというのに。 触れた手のひらはひんやりとしていた。机上に残されていた薬の残骸には解熱剤として有名な銘が書いてあった気がするから意外で、もう治ったのだろうかと期待した。もしそうなら罪悪感も少なくて済むけれど、ただ単に自分が火照っているからそう感じるのかもしれない。だから訊く。ついでに動揺を悟られないよう、ちらりと顔を上げた。 「熱、下がったの?」 「さあ」 期待に反してあさってのほうを見ながら曖昧な返事をされた。律儀を通してきちんと熱も計っているだろうにそらとぼけているのだろうか。だったら。 「計ってやろっか」 言いつつ、久しぶりに直視した彼の口元を指でなぞってやる。半開きになったそれは、風邪を引いてからこっち、顔を合わせるたびマスクで厳重に隠されていたもので、改めて見てみるとなんだかたまらない気持ちにさせられた。吸い寄せられるように重ねて、衝動のまま存分に舌を差し込んで貪って、ふと気づく。口唇が少しかさついている。折角いつも綺麗な形をしているのに傷にでもなったら嫌だなあと思い、舌でそっと潤すように舐めた。 「うつりますよ」 「俺バカだから大丈夫ー」 言いながらまた舌を差し込む。手よりも断然熱い。粘膜を直接触っているわけだから当たり前のことなのかもしれないが、それでもまだ熱は下がりきっていないだろうことを気づくには充分で、ましてそんな相手にこんな行為を強いている自分の身勝手さを反省するにも充分で。 なのに。 「…っ」 少しばかり怯んだ拍子に手を下げたら、偶然当たってしまったその先で、意外にも大きな彼の昂ぶりを感じて、反省も吹き飛んだ。 「てか、お前も元気じゃん」 「誰のせいですか」 「俺のせいじゃないことは確かです」 そこまで酔っているわけでもないのにフラフラと適当なことを口走りながら、実は冷静な頭で本当に馬鹿なことをしているなと自分で呆れた。そこまでして触れたいものか、まして相手は病人だというのに。 それでもこうして、触れれば反応のあることに喜んでいる。自分だけが溜め込んでいたのではないのだな、と安心している。生理反応だと言われたら仕舞なのでそこは考えない。 ことさらゆっくりと上体を屈めて、これまたゆっくりと、舌を伸ばす。 「我慢はさー、体に、毒だと思うわけ」 丹念に舐め上げながら、合い間にふらついた言葉を紡ぐ。たまに強く擦って、たまに強く吸って、ただこれだけのセリフを言うにも途切れ途切れだ。つい口角から溢れてしまう唾液の感覚がくすぐったくて手でぬぐい、そのぬめりを借りて添えた手を動かした。 「風邪引いてるのにこんなこと、してるほうが、毒だと思いますけど」 「や、お前のことじゃなくてさ、」 髪の毛を引かれて顔を無理やり上げられた。まだ舐めたりないのに口中から外れてしまったそれに名残惜しそうに舌を出したら、噛み付くような接吻けが降ってきた。 「我慢、してたんですか?」 笑ってしまいそうな台詞なのに彼の緑の目に真剣な色を見て取って、なんだかばつが悪くなった。そういえば先ほど言ったのはあからさま過ぎたかなと気づいて。ああ、なんだか気が大きくなっている。 急激に溢れてきた恥ずかしさと、それでも止められない欲に頭が沸いて、縋りついた八戒の首筋に顔を埋める。うめくように「…しきれなかったから、こういう状況だろ」と言ったら八戒の笑い声が耳を掠めて、今更だがそんなにも近い距離にいるのだということを実感したら、自分でも驚くほど興奮した。背筋のあたりに震えがきて、そこまで溜め込んだつもりはないのにどうしたことだろうと戸惑う。酔っているからだろうか。 埋めた首筋から漂う八戒の汗の臭いが、酒のせいでぼやけた嗅覚にも鮮明に訴えかけてきて、せめてもの理性でできるだけ生え際近くの、なるたけ見えない位置に赤いあとを残したら、お返しとばかりに鎖骨のあたりに噛み付かれた。比較的露出の多い服を好む自分だからそんなところにつけられてしまったら確実に見える。それが悔しくて、でもなんだか無性に嬉しいような気にもなって、わけがわからないままこちらも何度も何度も、そこかしこに口づけを落とした。 「悟浄、」 いつもそうだ、上がった息で名前を囁かれると、どうしたらよいかわからなくなる。自制とか理性とか、そういうのが全て吹っ飛んでしまう。現状でいえば常よりも、病人に対してのそれや自ら押しかかることの恥といったものをできるだけかき集めなければいけないのだから、実を言えば呼ばないで欲しい。なのに。 「ん…こっちも、触れよ」 なんて甘い声で強請るように、つい言ってしまう。 今更思う。少し飲みすぎたかもしれない。口実にしたかっただけなのに溺れてどうする。 「本当に、うつっちゃいますよ」 困惑した声で言われたけれど、そんなことはもはやどうでもいい。うつってしまおうがなんだろうが、いまがいい。いましたい。 「知りませんよ、」 思ったそのまま、上の空でつぶやいたら、ため息混じりに返された。呆れられたかと顔を見れば、それでも嬉しそうに笑っている八戒の口元がひどく卑猥に見えて、それだけで達してしまいそうだった。 |
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