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デ キ レ ー ス

 ふたりの関係にべつに好きだとか、恋している愛しているだとか、そんな甘い感情は求めていない。たとえば目覚めてから歯を磨く行為だとかトイレに行くだとか、空気を吸うだとかそんな、軽いものでよいのだ。
 行なっているとも気づかないほどの当たり前の行為。
 いればいい、そこに。いなくなったときにでも、息苦しく感じられればいい。
 でも本当にいなくなればつらいから、僕らはこうしてシミュレーションしているんだ。



 昨日から帰らないこの小さな家の家主をぼんやりと待ち惚けるブランチ時。
 食べる気もしないのに作ってしまった朝食をやはり食べもせずに冷蔵庫へ入れたのは何時のことだったか、好い加減に腹の減った頃に昼食代わりに引っぱり出したそれは冷め切るどころか触るのもひけるほど冷え切っていて、温めなおすこともせずに無作法にもフォークで突きまわしながら、延々と同じリズムを刻み続ける時計の進む音を聞くともなく聞いている。普段は気になりもしない音が耳障りなほど響く室内。聞きたくもないのに聴覚ががそちらを向いてしまうのが、なんとも悔しい。
 緑の視線が茫と窓の外を向いている。
 台風一過でいっそ気持ちが悪いほど清々しく晴れた空に細切れに浮かんだ雲を眩しさに眇めた目で追いながら、昨夜から姿の見えない同居人に思いを馳せるのももう、そろそろ飽きた。
「…どーこ、ほっつき歩いてんだか」
 自分のことなのになんの感情も思いつかないような声音でぽつりと呟くのも、一体何度目になるのか。
 窓の外の空はそろそろと秋の高さに近づいている。例年に比べて台風が多いこの年、特に秋雨全線に乗ってやってきた今回の台風はいままでの比ではないほど強大で、木々に囲まれたこのぼろい家ではさすがに凌げないのではないかと疑ったほどだった。
 しかし一夜明ければ、昨夜の暴風雨が嘘のようにからっと晴れ渡っている。これも台風の影響だろう、わずらわしいほどの秋晴れに肌寒くなった気温が混ざって心地好い、はずなのに。
 なぜ自分は苛ついているのだろう。
 わかってはいる、ただの勝手な欲だ。雨が降れば独り占めできる、なんて。
 べつにお互い子どもではないのだから、いないから心配だとか淋しいだとか、そういうことでもないのだけれど。
 なんだろう、晴れた空に裏切られた気分。
 かたりと、小さく玄関が鳴った。即座に反応する耳にはもう時計の音など入ってこなかった。
 森林奥深くに佇む我が家には泥棒など入り込める余地もなく、無用心と知りつつも鍵はかけない。自分個人としては鍵くらいかけて寝たいところだが、自分が寝たあとに帰ってくる家主が鍵を持たずに外出するから、仕方のないことなのだ。
「随分、遅かったですね」
 おかえりなさい、よりも先に出た嫌味に、不機嫌に歪められた眼差しがこちらを向いた。玄関先、一段高いところから赤い目を見下すことがなによりも好きだといったら、彼は一体どういう顔をするのだろう。
 赤い髪の隙間から睨むよう刺す光が、自分はたぶん、なによりも好きだ。
「…なんか文句あんの」
「いえ、べつに?」
 自分と同様、ただいまよりも先に出た反発にさらりと返す。
 大方昨夜の台風で足止めでも食って、どこか酒場ででも一泊したのだろうと、知ってはいるけれど。
「香水、匂いますよ」
 玄関先で擦れ違った瞬間にそう声をかける。
 慌てて自分の衣服に鼻先をおっつけてお犬様よろしくくんくんと嗅ぎ出した悟浄を尻目に素っ気なく背中を向けることの、なんと気持ちがよいことか。
「うそつき」
 恨みがましく、背中に言われた。声と一緒に刺さる秋晴れの陽が生暖かくて苛つく。
「僕がいなくなったらどうするつもりですか」
 ふたりの関係にべつに好きだとか、恋している愛しているだとか、そんな甘い感情は求めていない。たとえば目覚めてから歯を磨く行為だとかトイレに行くだとか、空気を吸うだとかそんな、軽いものでよいのだ。
 行なっているとも気づかないほどの当たり前の行為。
 いればいい、そこに。いなくなったときにでも、息苦しく感じられればいい。
 でも本当にいなくなればつらいから、自分たちはこうしてシミュレーションしている。
「おまえなんか、いらねえよ」
 自分の代わりなどいくらでもいると、昨夜の行動から繋げてそう言いたいのだろう。その言葉でこちらがどれだけ傷ついているか、わかっているくせにそうしていちいち突き放す。
「僕だって、あなたなんていりません」
 同じように。
「だって僕は、あなたのことなんてなんとも思ってないんですよ」
 不便なものだな、と思う。
 嘘は巧いくせに、バレても誤魔化す術を持たない彼。いや、巧いからこそ誤魔化す必要などなかったのか。
 なんにせよ。
「うそつき」
 自分は彼とは逆なのだ。嘘は下手でも誤魔化すことは巧妙。
「あなたには言われたくないです」
 素知らぬふりでそっぽを向いた自分を恨みがましい目線で追ってきている悟浄を左頬に感じながら。
 恨むなら、晴れすぎてうるさい空を恨めばいい。

019帰ってきたヨッパライ(20041009)
雨も晴れも嫌いな八戒さん。わがまま。
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