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ある日のこと。 「僕、あなたが好きみたいなんですけど」 「…いまごろ気づいたわけ」 渾身の思いで告白をしたら、そう、ため息と共にあっさり受け入れられて驚いた。 いつから好きだかなんて、実を言えばまったく覚えていない。気づいたら好きだった、というのが本音。 教師をしていたときによく生徒から相談されたことがある。好きなひとがいる、告白をしたい、だけど告白をしてしまった後が怖い。よい結果ならばいいが悪い結果であった場合、いまの距離を失うことが怖い。だからこのままでいいのだと、相談をしてきた割にもうすでに各々の中で結論出が出ているものだから、結局自分は話を聞いているだけに終わることが多かったのだけど。 たまに付き合いに至っているひとからの相談もあった。いや相談というより愚痴、か。 「ただ思っているだけのほうが、楽しかった」 と言われそれも一理あるのかと納得したことがあったが、そういう話を持ってくるのは大概女子で、片思いが楽しいなんていうのは女子特有の考え方かもしれないと実際そうなってみて思う。 だってものすごく疲れる。 昼間起きだしてきた彼に不自然ではなく挨拶をするのとか、夕方賭場に向かう彼にどういう笑顔を向けたらいいかとか、真夜中ふと目が覚めて壁の向こうの寝息を窺うだとか、ただもうそういうことに疲れる。疲れた。 始めに渾身と言いはしたが、実際は我慢の限界で少しでも楽になりたいと思ったが故の、失言でもあったのだ。 なのにこうもあっさりと。 これでいいのだろうか? 「とっくに気づいてんのかと思ってたんだけど」 居間のソファの背もたれにそっくり返った状態で、ちょうどソファの背後にあるキッチンにいる自分を上目遣いで見ながら彼が言う。 「いや、最近になってそうなんじゃないかなあと思って、思ったら止まんなくなっちゃっただけなんですけど」 「あーまあね、お前ならそうだわな」 冷静に相槌を打っている悟浄だけど、頭に血がのぼってそのうち頭痛を起こしそうな体勢だ。せめて正面に自分が移動すれば彼も苦しい体勢から解放されるかと思い、テレビとソファのあいだに移動した。ところがローテーブルが邪魔して座れないので結局見下げる容になる。つまり悟浄は見上げる容になるのでどっちにしても首は疲れるのではないかと思ったところで、「突っ立ってないでこっちくれば?」と、二人掛けのソファに誘導された。悟浄がずれてくれたおかげで半分空いたその空間を見ながらおいそれと隣に座っていいものかと思案していたら、ぽんぽんと、その空間を叩いて悟浄が催促する。 おずおずと腰をおろした途端、膝に重み。仰向けに倒れこんできた彼の髪の毛が膝に流れて、デニムの上からでもその感触が伝わってきた。 この髪の毛が好きだ。普段烏の業水よろしく十二分な時間をかけての入浴ではないくせに傷みの少ない髪を羨ましく思う。指を絡ませればするすると逃げてゆく感触が心地好い。ふわりと漂ってきたシャンプーとハイライトの香りに引き寄せられるように顔を近づけたら、狙ったように互いの口唇同士がぶつかった。 少女漫画だったら目でも瞑るところなのだろうが、彼の瞳の色が緩んでゆくこの瞬間を見逃しては勿体無いから、あえて見詰めあいながら。それでも程なくこちらも緩んできて、自然瞼は落ちるのだが。 「なあ、」 いけない、このままでは収まらなくなりそうだと慌てて口唇を離し、それでも彼の髪の毛に絡ませた自分の指先が意に反して離れないことを焦りながらいたら、悟浄が囁きかけてきた。情事を仄めかしているような声だったので、それならばせめてベッドに、と安っぽい台詞が口をついて出そうになったが、悟浄の顔を見れば好奇心満々という眼差しで。 「俺のこと考えて、ひとりでした?」 「…」 「おまえの右手が火を噴いたわけだ?」 初めは、一体なんのことを言っているのだろう、と思った。その後、急速に頭の中にイメージが湧いてきて。 手のひらで顔を隠す。つまり、だから、まあ、そういうことなのだろうけれど、あまりといえばあまりにも率直すぎるその言い様に耳が熱くなるのを感じた。 「悟浄、あなたってなんでそう即物的なんですか」 イエスもノーも答えにならなくて、指の隙間から呻くような声を出した。覆った手のひらのせいで籠もった音になったそれが思いがけず恨み事のような響きになってしまったことで、肯定に取られたかもしれないと焦った。正直なところ事実でもあるからなんだか後ろ暗い思いすらも感じる。慌てていやそうじゃなくて、と言おうとしたところで悟浄の盛大なため息が聞こえた。次いでおまえね、と少し呆れたような口調で。 「おまえがストイックなのも知ってるし、ましてや俺に対して恋愛感情があるなら尚のことストイックになるのもわかんだけどな」 顔に被せていた手を剥がされながら。 「セックスしてみないで相手のなにが好きだって言えるわけ?」 バカみたいなことをなぜだか真剣な目をして言う悟浄に少し怯む。セックスだけがすべてではない、と反発も覚えたが、頭の中は妄想ではちきれんばかりなのに言葉では純情ぶっている学生のようだったので口に出す前に飲み込んだ。事実こうして触れ合う時間は大切だと思うし、体はまだ若くて、正直だ。 「大体最初ん時だっておまえ、俺が盛大に酔ってなんかぐちゃぐちゃくっ付いてったらそのまま」 「あなたあのときのこと覚えてないって言ったじゃないですか!?」 悟浄の言葉に被せるように叫んでいた。人の話は最後まで、と散々躾けられてきたし、教師という立場になった時分には躾ける立場にもあった、そんな自分にしたら意外なことではあるが、それだけ驚いていたのだ。あまりに驚いたので語尾がヒステリックに裏返り、その音がコンクリートで出来た狭い部屋に反響する。 耳鳴りにも似たキン、とした音が段々と消えるまで悟浄は黙っていて、ようやく静かになったと思ったらまたもため息を吐かれた。しかもやたら長いしわざとらしい。ふと彼は今日、いや自分が告白をしてから何回ため息をついただろうと思った。以前こちらがため息をついたら、幸せが逃げるからやめろ、などと迷信ぶったことを言って怒ったくせに、自分はいいのか。 「あのさー。いや、まあおまえの場合数じゃなくて深さだったからわかんないのも無理ないけどさ、」 悟浄は優しいと思う。自分が歩いてきた道のりではなくても、他人の人生を聞けばそこにあったであろう感情まで読み取ってこうして認めてくれる。それがいくら自分のそれとかけ離れたものであろうともまるで自分が歩んだもののように感じ、理解をしてくれる。 「俺が覚えてないって言ったとき、おまえはどう思った?」 けど、その優しさが時としては残酷だ、と思っていた自分はまだまだ甘いのだろう。 考える。覚えてないと言われて、虚しくなった。怖くもなった。同時にそうだ、安心した。 「それが大人ってやつじゃねえの」 こちらの右手を玩具でもあるかのようにこねくり回しながら、特に得意げでもなく、悪びれるでもなく言う。別に騙そうとか、謀ってやろう、からかおうとしていたわけではなく、こちらに配慮した結果の嘘。 なるほど、確かに。大人の事情とはよく言ったもので、子どもだったらそれだけで大げさにでも騒ぎそうなことなのに。 本当に、大したものだ。 「じゃあ僕はガキなわけですね」 純粋に感心したのでそう言ったら、おまえがガキなら俺はまだ種にもなっていない、と返された。嫌味なのか、それでも不貞腐れたような声で言う悟浄に意味を図りかねて顔を観察したらその耳が少し火照っていたことに少し驚く。 つまり情事で反応を返してくれていたのは別に演技ではなかったのだろうかと気づいて。 「大体」 口を開きながらも顔を引き寄せて、喋る合い間に軽く短く口づけを交わす。喋るかキスをするか、どちらかにすればいいものを、まるで巷にはびこるバカップルとか呼ばれるひとたちの、そう呼ばれる所以となっているような色ボケた行為だと認識しながら、なぜかそれが幸せなのだから不思議なものだ。 「最初は酔ってたとはいえ、あの痛さで酔いが冷めないほうが無理だし」 だから、と。吐息に掠れる声で。 「俺の半分でもいいから、ちょっとは気遣えよ」 強請るように言われて少しは優しくしようかとも考えたが、現状そんな思いも吹っ飛びそうなほどだったので、それも無理な気がした。 |
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