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湯船の中に浸かっているとなんとなく歌い出したくなるのはきっと、全世界共通の条件反射だ、そう思いながら天蓬は湯船に浸した手のひらを入浴剤で微かに濁った湯と共に掬い上げた。湿った空気に曇った眼鏡のまま掬った湯を顔にかけて一息、それから眼鏡を外して湯で洗う。 伸びっぱなしの長い髪はしっとりと濡れていて、普段のぱさつきが嘘のように艶を帯びていた。最初は石鹸すらも泡立たないほど汚れの溜まっていた頭、そして体は、しかし幾度か目の洗濯には泡もようやくまともに立つようになり、排水溝には天蓬から剥がれ落ちた垢がごっそりと溜まっていた。さすがにひと月分ともなるとその量もまた一入であるな、なんて排水溝を眺めながら淡々と実感する。垢も肥料かなにかに再利用できればよいのに、とかなんとか思いつつ。 裸眼の前にかざした手のひらはふやけた皮が手指の先までを満遍なく被っていて気持ちの悪いような気がする、けれど垢が溜まっていたのであったのなら、さながら肌上に殻ができている状態とでもいおうか、きっとふやけることすらもできないのだろうなと思うとその気持ち悪さすらも愛しく感じるのが不思議だ。 さっぱりとふやけた気持ちのまま、これからはきっちり毎日毎晩風呂に入ろう、とできもしない決心を誘うのもまた湯の不思議である。 先ほど念入りに磨き上げた床が眩しいくらいで目に痛いけれど、薄く湯気が立ちこめる四角い部屋は光の乱反射も弱くて不思議と夢の中にいるように思う。 ああ、気持ちいい。 鼻歌交じりの溜め息をついたら体の力まで抜けて湯船の中にずり落ちそうになるが、抵抗もなくそのままずり落ちてしまいたいとかなんとか、なんかどうでもよくなったりもして。 このまま寝てしまおうか、な。 思う間もなくまどろんだ頭はゆったりと、風呂の靄のようにただ霞んでいった。 ちょうどその頃。捲簾は軍会議をばっくれて桜の木下でひとり酒を呷っていたのだが、そろそろひとり酒にも飽きてきていたので頃合いのよい誰かを探して廷内を闊歩していたわけで。それでもって共に酒を飲むのに頃合いのよい奴、といえばなんとなく彼のことしか浮かばなくて、我知らず天蓬の部屋へと足を向けていたわけで。 部屋をノックしても返事もないのは承知だったから特に気にせず、部屋に空気を送り込んだ途端室内の均衡が崩れて起こるであろう本の雪崩を予測して静かに扉を開けたらいつの間にか綺麗に整頓されていたその室内に驚いた。そういえばここひと月ばかり、天蓬の姿を見かけなかった。またいつものようにおかしな世界にトリップしているのだろう、と他人事を決め込んでそのまま放置していたのだが、どうやらトリップではなく掃除をしていたらしい。多人数でやればふつかとかからず終わる作業であるがいかんせん天蓬ひとりではどうにもこうにも遅々として進まなかったのだろう。珍しく姿を現している事務机とその椅子に腰をかけながら、作業途中で背中を丸めて座り込んでいる天蓬を想像して捲簾は笑いを噛み殺した。書籍に没頭してははたと我に返り作業を中断していた開始する、けれどまた目に付いた本を取り上げて読みふけっては延々とそれを繰り返して。 ふと、手伝いが必要であれば自分を呼べばよかったのに、と思うのはひと月会えなかったことが今更になって物足りなく感じたからだろうか。 酒瓶を事務机に置いてその横に、軍服に包まれた脚を投げ出す。早くこの酒瓶を一緒に傾けたいと思いちらと時計を見れば部屋にきてから既に二十分は経っていた。 そういえば。 過去の経験からすると、部屋の整理を終えたあとの天蓬は必ずと言ってよいほど風呂場へと足を向けていた。そんでもって風呂場全体を綺麗に磨ききってから、湯船に浸かる。そんでもってそのまま、撃沈、する。 そこまで考えて事務机に投げ出した脚を慌てて床に落としたら机に乗っていた酒瓶を蹴り倒してしまって半分は残っていた酒が磨いたばかりの床にだくだくと零れて芳醇な香りが漂ってきていたけれど、気遣っている場合ではない。 考えているあいだにも時計は無情に進んでゆく。 「天蓬!」 風呂場の扉を、部屋のそれを開けたときとは反対に大きな音を立てて開け、その勢いのまま湿った床に下りる。やはり書棚の整理を終えたあと天蓬が磨き上げたらしい壁の白さに一瞬目が眩んだけれど、滑るだのなんだの、慎重さを考えている場合ではなかった。眩しさと湯気で靄がかった湯船の中には天蓬の不精に伸ばした髪の毛がわかめだかきくらげだかのようにやる気なさげにふよふよと、浮かんでいたから。 思わずどこぞの画家の描いた「叫びの図」みたいな格好をして意識が遠退いたのも束の間、危うく倒れそうになるのを堪えて捲簾は軍服が濡れるのもかまわず湯船の中に手を突っ込んだ。一体何時間ここにいたのか、天蓬の肌はこんにゃくのように不確かな感触で掴んで引っ張ったらその勢いで皮の一枚でも剥けそうであったが、躊躇う余地もなくそのまま引っ張りあげた。 温めの湯が派手な音を立てて湯船から零れ、真っ赤な顔をした天蓬が現れる。 引っ張った勢いのまま湯船から出して、いっそびしょびしょになってしまえと自分の膝の上に横たえた天蓬の顔はなんとも穏やかで、一瞬死んでいるのではないかと危惧したけれど、頬を平手打ちしたらぴくりと反応した眉の辺りにほっと胸をなでおろす。次いでむくむくと湧きあがってきたなんともいえない腹立たしさに、彼の華奢な肩を思い切りつかんで揺さ振った。 「オラ、天蓬起きやがれ!」 チンピラ顔負けのドスの利いた声で脅しをかけたら、がくがくと揺れる感触でようやくうっすらと覚醒したらしい天蓬の、湯でふやけた瞼がニ、三度瞬かれ、胡乱な薄茶の目が姿を現す。どこか気だるげに風呂場を見回してその白い眩しさに眇められた目がこれまたゆうるりと捲簾のほうを振り返って。 「あ、どうも捲簾、お久しぶりです」 いまだ寝惚けているのだろう、なんともとんちきな挨拶をしてきやがった天蓬に好い加減頭にきた捲簾はそのまま天蓬の顔を覗き込みながらいつに似あわぬ声で怒鳴っていた。 「風呂で寝るなってあれほど言っただろーがよ!」 風呂場というのは音がよく響く。その中で怒鳴れば当然そりゃもうよく響きすぎるほどに響くわけで。 きーん、と耳障りな音を反響させて萎んでゆく声に、一瞬きょとんとした天蓬は寝惚けまなこを先ほどと同じように数度瞬きさせるとようやく状況に気づいた感じでひとつ頷いた。 「僕、寝てたんですか」 「おお、すっこーんとな」 「小気味いいですね」 「不気味の間違いだろ!」 立ち昇る湯気にも負けないほど怒りをもった捲簾の声も天蓬には風の音のようにどうでもよいらしい。捲簾を無視してさきほどの寝惚けた状態が嘘のように軽やかな足取りで立ち上がった天蓬には説教もまさに暖簾に腕押し状態である、けれどこんな状況が度々あったとして、もしも自分がいなかった場合冗談ごとでは済まされない結果になることはわかりきっているからあえて口を酸っぱくして言い募る。 「いいか、もう二度と言わねえからよく聞いとけよ」 「って言いつつこれで三度目くらいですけど」 「四度目だ!」 「数えてたんですか、すごいですね」 「茶化すな!」 事の重大さを理解していない天蓬に頭痛を覚える。いつもこうだ、飄々と話題が後ろへと流される。 「もう少しで溺れてんぞ」 「死にゃしませんよ」 真剣な口調で諭してもこのとおり、まったく、柳に風。きっといま吐いた深いため息すらも天蓬の耳には聞こえていない。なんだか心配しているこちらがバカみたいに見えるほどお気楽な様子にうんざりする。湯船という狭い中、同じ姿勢で固まっていたために凝った肩と首を左右に振ってぽきぽきと鳴らして、気持ちがよさそうに鼻歌なんぞを口ずさんでいる天蓬。 確かに自分たちには、死という概念がない。 自分たちがどういう生命体であるか、自身であってもいまいち判然としないところではあるが、たぶん、死ぬということが容易にできない生き物であるに間違いはない。風邪だって病気だってひいたこともなければかかったこともない。喧嘩をすれば怪我だってするし血だって流れる、けれどそんなものはすぐに回復する。大体、戦場で凶暴な悪党と戦った場合なんかはその程度で死んでいてはそれこそ体がいくらあったって足りないわけだから。よほどの傷でも負わない限り死なないように作られている。 そんな自分たちが、よもや風呂場で溺れたぐらいで死ぬとは下界の人々だって想像もしないだろう。自分たちだってそんなことはまさか夢にも思わない。 けど、だからと言って、誰だって心配するときは心配するのだから、と。 「もう、絶対、風呂で寝るな」 天蓬の背中を見詰めながら深々と考え、幾分か不貞腐れた声で過去三度繰り返した言葉をもう一度言う。ふやけた頭を正すためだろうか、いつもの不精さとは打って変わってきびきびと体操なんぞを始めている天蓬の背中は湯気と見分けがつかないほど真っ白くて、そこをはたいて自分の手のひら型の痣でも作ってやりたい衝動を抑えながら。 「だから死にません、って」 どこにそんな根拠があるのか、自信たっぷりに言い放った天蓬に好い加減言うべき言葉も見つからないままその背にでかい紅葉をつけるべく立ち上がったら、振りかぶった手を唐突につかまれた。 「なんたってこうして、あなたが助けにきてくれますからね」 振り返った天蓬の顔には、まるで悪戯好きの子どもがたくらみを成功させたときのように嬉しそうに笑んでいて。 「まあ五度でも六度でも、せいぜい頑張って助けにきてくださいよ、」 ね、捲簾、と名前を呼んで横目でこちらを眺めた天蓬を呆気にとられた顔で見詰める捲簾の目に風呂場の煙が白く覆い被さった。 ああもしかしてハメられたのだろうか、と捲簾が気づいて、素っ裸で踵を返した天蓬の背中に紅葉が咲くのは、たぶんあと数秒のちの話。 |
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