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手の冷たい人は心が温かいのだとか、なんとか。 「そんなこと誰が、言ったんでしょうね」 「知る、かよ」 事後のあと、名残惜しさの現れのようにどうでもよいことをぽつりぽつりと語る、そんな八戒に乱れた吐息で答えるのは、もはやお決まりのパターンだ。 リビングにふたつの身体。夕刻近くに済し崩し、くず折れるように重なったから、いまはもう薄暗い。気づけば外の陽はとうに落ちていて、先ほどまで見えていたと思った八戒の形すらもいまはもうあやふやだ。だらしなく投げ出した足や、手の先に感じるのは、情事の名残で湿った感触と自分の脈動。いまだ収まりきらない速打つ脈拍に、こめかみがどくどくと鳴っている。 コンクリート張りのリビングでは昼間は灯さずにいた電灯の明かりが恋しく思う。少しばかり潤んだ目線で形も朧に見える天上の、いまは耀いていない電球を何気なく探したら、キッチン伝いに見えた四角い形にふと窓の奥を眺めた。真っ暗な四角からは夜に近づく静けさばかりが射している。夜の静寂は目には優しいが耳には痛い。今朝から急激に冷え込んだ外気は、きん、と硬質な音を発して耳を刺激して、落ち着いてきたとはいえいまだ微かに呼吸の荒い自分の息遣いと混ざってなんとも耳障りだった。 この暗さでは時計は見えないけれど、たぶん、そろそろと賭場に行かなければいけない時間だ。しかしこれからシャワーを浴びて支度をして、という億劫な作業が待っていると思うと、やる気がそげる。なにより身体がだるくて動く気もしない。 めんどくさ。 溜め息を吐きながらも早々に今日の稼ぎを諦めた。曜日を計算したら今日は週末、稼ぎ時だったのに。 ああそういえば、赤い夕陽も見逃した。秋の落ちる陽は大層綺麗だというのに。 それもこれもこいつのせいだと、 窓外に向けていた目線を、恨みがましく、形のあやふやな八戒に向けた。揺れる、たぶん髪の毛であろう場所に目をつけて睨んだけれど、まあそんなことを言ったところで、あなたにそんな情緒があったなんて、と鼻で笑われるのがオチだと、今日の稼ぎと同様諦めのため息を吐く。 煙草、吸いてえな。 聞いてますか悟浄、とか呼びかけながら、八戒の影がまた揺れた。 「だってそうだったら、死んでいる人がいちばん、心温かいってことになるじゃないですか」 「だから、知らねーって」 いまだ先ほどの言葉を引き摺っているのだろうか、同じくいまだに人の胸の上で安住している八戒に不機嫌なまま、どけ、と手で払ったところをひょいと浚われた。 「なにすんの、」 「悟浄なんか手のひら温かいくせに心だってあったかそうだし」 人の問いかけなんか無視して手のひらをしげしげと眺める感触。次いで空いているほうの自分の手のひらをこれまたしげしげと眺めて。 「僕なんか手のひら冷たいですけど心も冷たいですよ」 「てめえで言うか」 「自虐癖、ってやつ?」 「他虐症だろ」 いまだって、虐げられていたのは自分のほうだ、と主張して自称自虐癖の男の冷たい手のひらを気配だけで奪った。 湿った感触はきっと、こちらの濡れた肌を弄った名残だろう。八戒自身の汗はたぶん、もうとうに引いている。綺麗な形をした手のひらに光る雫はいまは薄暗くて見えないけれど、彼の薄い指紋に吸い付いて馴染もうともがいているようにも思う。それとも、汗をかかない手の肌が水分を求めて、逃がさないように絡めとっているだけだろうか。 汗をかかない手のひらに体質の差なのだから仕方がない、と思いながらやっぱり腹立たしい。 なんか、ひとりで汗をかいているような。 「悟浄。今度ハンドクーラー、買ってあげましょうか」 たぶん、こちらの考えていることなどお見通しなのだろう、笑いを抑えて言われたセリフ。いらねえよ、と返しながら思う。 だって、おまえの肌に触っていれば多すぎる水も飲み干してもらえるだろうし。 |
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