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そんなことが起こってもおかしくない世の中だ、といっても、実際目の前でことが起こったら誰だって驚くだろう。現にあのときの自分は相手を眺めて邪魔、などと思う、ひどく冷静な判断を下した。たとえば叫ぶだとかたとえば助けを呼ぶだとか、その場に最もそぐった判断は他にもあったはずなのに、酔っていたというにはあまりに冷静すぎた感想が逆におかしくて、あとから思えば思うほどああ、あのとき自分は驚いていたのだな、と自覚する。 そう、誰だって驚くはずだ。 目の前に自身の臓物を垂れ流した男が、雨にびしょ濡れて倒れていたのだから。 しかも死んでいるかと思いきや蹴り飛ばしてみたら、意外にもその目で見詰められでもしたら、それはもう酔いも冷めるというもので。 自虐的な思考で歩いていたときだったからだろうか、この髪と目の色を嘲笑っているかのような視線だったからむかついた。通り道で死なれても困るからと言い訳をしながら拾ってきたけれど、単純に腹いせだ。イタチの最後っ屁のように死の間際にひとのことを小馬鹿にしてくれたそいつを、文句のひとつも言わないまま死なせるわけにはいかなかった。 自宅に置いていた大半をそいつは昏睡状態で過ごし、意識を回復してここが地獄ではないと気がついた途端に行ってしまった。まともに会話をした日なんて片手の指で足りてしまうほどで、時間にしたらもっと短い。けれどその呆気ないともいえる時間の中で気づいてしまった。 彼に自分の淋しさを紛らわせていたこと。 「血のように見えたから」 そう言った彼に少なからず救われたこと。 結局のところ似たもの同志で傷を舐めあっていただけだったのだろう。けれど、 「猪悟能は死んだ」 あの衝撃とか困惑とか嫌悪とかいったものは、きっと一生忘れられない。それは、最終的には生きていてよかったのだからなどという笑い話に転じるものではなく、むしろ思い出すだけで吐き気がするような不の感情。 だってそうだろう、ともに数年を過ごしてきて、同じ食卓の飯を食ってきた男があのとき、もしかしたら、死んでいたのかもしれないなんて。 相手の死を恐れるほどに依存をしているつもりはなかった。 だがそれは、あくまで「つもり」でしかなかったらしい。 森の奥深くにジープを停めて寝息を立てるメンバーの中、自分はひとり俯いて寝た振りをしている。三蔵と八戒の会話。散歩に行ってくると残して席を外した彼の背中を薄目を明けて見守りながら。 胸糞悪い。 心中で毒づく。 自分がこの場を抜けるときにはなにも言わない三蔵にもむかついた。たぶん、「自分では役者不足だがおまえならあいつの気持ちも汲めるだろう」という意図なのだろうが、認められているのだと実感するにはこちらの気持ちがささくれ立っていて、結局は人任せ、適材適所当てはめて自分は傍観するつもりなのだろう? と捻くれた感想しか浮かばない。 「忘れた振りは、してたんですけどね」 ジープから少し歩いたところだった。思いがけず近くで聞こえた彼の自嘲的な声。普段なら漏らさないはずのその独り言がやけに神経を逆なでする。いつもより簡単に忍び寄れることも、罪と書かれた麻雀牌を握り締めているその手も。 本当に、すべてが胸糞悪い。 「おまえ、生命線短えな」 会話の糸口を探すようにそう声をかけたものの、ついで頭の中に浮かんできたセリフに選択を誤ったことを知る。滑り出そうになるその言葉を煙草の煙と共に必死に飲み込んで、その重量に吐き気を催した。 あのとき、死んでたんじゃねえの。 「ほんとだ、短い」 こちらの思いを知りもしないで素直に認める彼の情けなく垂れた眉がなんとも腹立たしい。他愛のない軽口を言い合いながらもいつものようなキレもない返答が弱っているだろう彼の精神面を喚起させて。 座り込んだ足元の地面が苛立ちに揺れている錯覚。 「起こしちゃいましたか」 同じ空間、息もかかりそうなほど近くで現実と夢にうなされている男がいるのだからおめおめと寝てなどいられるわけがないのに。 白々しくそう言った八戒を視界から追い出しながら意趣返しのようにこちらも白々しく呟いた。 「おまえさんのシケた面、拝んでやろうと思ってよ」 風が薙いだ。その間がなんともいやらしい。そのせいで、彼の顔に徐々に浮かんでくる自嘲的な笑みをついつい覗き見てしまって、ついで言われるだろう言葉すらも感じ取ってしまう。 「あのとき、どうして僕を助けたんですか」 言うと思った。 「放っておけば野垂れ死んだ、そうなるべきだったのかもしれない僕を」 もう一度、風が薙いだ。もう少しうるさく鳴ってくれれば聞こえない振りも出来たのだろうが。 まったく馬鹿げている。おまえがそれを思い出させるのか。 右手の親指と人差し指でつまんだ煙草のフィルターが知らず込めてしまったらしい力に潰れて、変な音を出した。八つ当たりだ。 「…そういう訊き方するやつには教えてやんない」 「やっぱりなあ」 言われて思う。 ぶん殴ってやろうか。と。 だから正直、おあつらえ向きだった。 「これがてめえの望みだろ」 「なにやってんだよ三蔵!」 悟空の悲鳴のような声にもひるむことなく、こちらの心臓に真っ直ぐ向けられた銃口。敵に言ったはずの三蔵のその言葉が自分の心に落ちた。 ああ、望んだのはきっと俺だ。 「ぜってえ、死なねえ」 「減らず口閉じんと舌噛むぞ」 口を閉じる、笑いも噛み殺す。 俺は卑怯だ。 「悟浄!」 ほら、これでおまえも、この瞬間を忘れられない。 俺は、卑怯だ。 |
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