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大型連休の前にあるテストでよい点数を収めたので、嬉々として家路に着いた。帰ってからすぐは祖母にただいまを言うのが家の習わしになっていたから、今日もそのように祖母の部屋に向かった。板間に正座をすると足が痛いが、今日ばかりは痛みより喜びのほうが勝っていたから、いつものように垂れ下がった眉ではなく笑顔でいられたのだけれど。 「こんなものに、意味はないのですよ」 厳格な祖母の冷たい言葉に、笑顔が一瞬で消えたのが、自分でもわかった。 「それよりあなたはもっと学びなさい、庵さん」 Yes以外の返事は聞き入れない祖母だったから、凍った表情でもいつものよう反射的にそのように答えたと思う。満足そうに、宜しい、さがりなさい、と言い放った祖母の声を聞いて、静かに障子を閉めたのは覚えている。 そして、気づけばここにいた。 夕焼けの近いこの時間。本来ならば稽古場で、声の大きい師匠を前に汗をかいていたはずなのに。いや、今日は家庭教師がくる日だったから、背後に迫るよくしなる長い物差しに怯えながら机に向かっていたか。 それなのにいま目の前に広がる景色は、稽古場の古臭い畳でも机の前に据えられた本棚でもなく、蕩けそうな太陽を反射して耀く川と、その周りに伸びる背の高い緑の草だ。 授業をエスケープする同級生は学校でも珍しくはない。見つかれば咎められもするが見つからなければ支障はない。見つかってもせいぜい、両手に水の入ったバケツを持ち廊下に立たされるくらいだからよくよく抜け出す生徒はいて、自分はしたことはないがいつも羨ましいと感じていた。 だからだろうか。一度くらい自分もしてみたいと感じていたから、逃げ出したのか。 しかし自分は、見つからなければ問題ないというような生易しい環境で生きてはいない。 帰ったら廊下に立たされるくらいでは済まないだろう。あのしなる物差しは両手に水の満杯に入ったバケツを持つよりも腕に堪えるから。 手元にあるいまにも風に浚われてしまいそうに揺らめく紙切れ。バツがひとつだけつけられたその用紙を握りながら思う。 飼われている犬でもあるまいし、ご褒美でももらえると思ったのだろうか。 自分は犬でもなければ人間でもない。 学んでもまだ足りないのだと言われ腹を立ててよいほど、あの家に生きてはいない。生きていると感じられていない。 でも、なんというか。 「…ゃしー」 自分の炎と正反対のをした夕焼けの空にぽつりと漏らした本音。誰にも聞こえないようにと呟く程度の音量で出したはずなのに、風にすら流されてゆくその音がなんだか哀しくて。 「悔しい」 今度は腹の底から、はっきりと言ってみた。言葉にしたら滑稽で、聞こえるように吐き出した分だけ嘘の気配がした。 悔しいのは悔しいけれどそれだけじゃない。 哀しいけれど、それだけじゃない。 なんと言えばこの思いに納得ができるのかと思案してもうまい言葉が出てこなくて、この感情に名前が付けられないのは、きっと自分にまだ知識が足りないからだと思った。 そうして、これだけ勉強しても自分の思いすら言葉にできないのでは意味がないと。 祖母が言った言葉の真意が、少しだけわかった。 |
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