←戻 |
毎日が夏休みならいいのに。 ぽつりと言われたその台詞になぜだか無性に苛立って、声の主を押し倒した。場所はちょうどいい具合にカーペットの上だったが、たぶん身構える間もなく唐突に、力任せに倒された彼は肩のあたりを痛いくらいには打っているはず。けれど謝るのも悔しい。一体なんなのだろう。 「僕は嫌です」 自分でもよくわからない苛立ちだったので、誤魔化すようにそう言った。まあ誤魔化す、と言っても出てきた台詞は嘘ではない。 実を言えば夏は嫌いだ。というか、汗をかくことが好きではない。 身体的にも精神的にも汗をかかないというイメージを貼り付けられている自分だが、それは間違いだ。単に耐えているだけ。心頭滅却すれば火もまた涼し、を地で行っているだけだというのに、冷徹というレッテルを貼られるのは正直心外である。だからといって熱くなって反論するのもくだらないのでしないだけ。 「聞いてる?」 「聞いてますよ」 押し倒した先から責めるように問いかけられた悟浄の声にすらりと答えながらも、実際は聞いてなどいなかった。自分でも驚くほどの無視っぷりだったのだが、いつものようにやめろとか待てとかいう制止を喚いているだけだったから、聞く意味も特にないと耳が判断したらしい。 悟浄の言った「夏休み」とは、たぶん三蔵からの依頼が途切れたことだろう。仕事を引き受けるようになってからは連日連夜うるさいくらいに鳴っていた電話の音が、確かにここ数日ピタリと止まっている。 三蔵の責務している場所は寺院というだけあって、盆のこの時期は相当忙しいらしい。忙しいのであればこちらに雑用を振ってきそうなものであるが、いかんせんその職にとっては一世一代のイベントともいえる神聖な時期である。三蔵がその神聖さをどれほど慮っているかは別として、自分たちのような身分のものが手伝える事柄は万に一つもないのだろう。 増してこの時期の寺院は焚かれる護摩も通常の比ではなく、経の音も途切れはしない。まあ法力の弱い僧たちの唱えるものなのでさほど力があるわけでもないし、半分は人間である自分たちにとってなんら影響を及ぼすものではないといっても、やはり滅邪の元に唱えられるその声はあまり気持ちのよいものではない。最後の電話の折に「当分暇をやる」と言った三蔵は、その台詞にしても声音にしてもこちらを気遣っている様子など微塵も見せなかったが、ひねた言い方は彼の十八番だ。 こちらとしても、現行金銭的に逼迫しているわけではない。依頼を引き受けるようになったひとつの要因でもあるそれが満たされてしまえば、わざわざ汚れ役などやりたくないというのも本音だ。それによって生計を立てているわけだから文句を言えた立場でもないが、盆に入る直前まではそれなりに押し付けられすぎてもいたから、暇をもらえることは確かにありがたい、のだけれど。 まあ正直、手持ち無沙汰になった、というのも事実で。 いざ仕事がなくなってみてわかる。仕事がないと、外に出る理由がなくなってしまうのだ。 もちろん日々の食料や消耗品などの買い物もある。趣味としてどこぞの盛り場へ遊びに出るのもひとつだろう。休みだからといって閉じこもっている必要などない、けれど、そうではなくて。 自分のためになにかをすることに意味があるのかということ。 自分の欲求を満たすための遊びは無論のこと、家の雑事にしたってそうだ。掃除洗濯果ては食事の用意に至るまで、突き詰めれば自分が気になるからしているだけ。まったくもって自分の趣味である。同居人のためと考え直したところで、当の本人に「そんなことやらなくてもいい」と言われてしまえば意味などない。やってもやらなくてもいいなんて言われてしまうことではなく、もっと頭を空にするような責務が欲しい。 アクティブなわけではない。ただ動いていた方が紛れる。暑さも、この苛々も。 自由に慣れていない。しなければならないという事柄に追い立てられていないと、生きている気がしない。人に奉仕することでしか精力的になれないなんて、器用貧乏とはよく言ったものだ。 なのに、こちらの気も知らずにのうのうと堕落を堪能している彼。増して延々続けばいいなどと、どの口が言うのか。 考えていたら段々とむかっ腹が立ってきて、腹いせに悟浄に対して痛いくらいの刺激を加えた。気づけば彼の衣服もほとんど剥ぎ取っていたようで、考えに没頭しほぼ無意識であったというのに我ながらすごいものだと感心する。わかっている、こんなのは八つ当たりだ。でもそもそも彼が余計なことを言わなければ、なんてお門違いにも思ってしまうから。 だから夏など嫌いだというのに。 「…ッ、おい、」 「少し黙っててくれませんか」 自分でしておきながら喘ぐ悟浄の声がうるさくて酷な注文をつけてみた。途端素直に口唇を噛み締めて喘ぎを抑える仕草。それもまた憎たらしくて、手を伸ばして今度は口唇を解くように撫でればこちらの思いを察して安易に綻びる。珍しく成すがままされている彼の意図がわかりやすすぎて余計に苛立つ。つまりこちらの機嫌を損ねないようにしているのだ、わざとらしい。 「なんかお前、苛ついてる?」 吐息の合い間、窺うようにそう問いかけられるその悟浄の声にゴマをするような響きを耳が感じて、自分でも鼻が膨らむのがわかった。 「苛ついてたらなんだっつーんですか」 「…べつに」 憤慨も露わにそう答えたら視線をそらされた。どうせ怖いとか、思っている顔だ。右手を忙しなく動かしながらもしっかりとその表情を見詰めて、常々思っていたことを改めて感じる。 悟浄はきっと、自分が家にいないほうがいいのだろう。 自分はあれだ、彼にとったら口うるさい母親などといったポジションで。自分がいない方が好き勝手気ままにできる。休みが続けばいいなどと口では言いながら、本当のところ依頼が多いほうがいいと感じているに違いない。朝早くから叩き起こされないで済む。充分な惰眠も貪れる。顔もあわせないで済む。 ところがこちらの様子がなんだかおかしいので、さてなぜだろうと考えた。三蔵から依頼を押し付けられすぎていた日々を思い、ああきっと家事や仕事で疲れてでもいるのだ、と思い至った。だから調子を合わせるために「したくなきゃしなくていいんだぜ」と日々の雑事を無意味にし、続けて冒頭のせりふを吐いたのだ。まさか仕事がないから苛ついているのだとは思わなかったのだろう。 見当違いの方向に気遣われても嬉しくない。こんな風に誰かの我慢の上に成り立つ自由などいらない。 夏特有の湿った空気が満ちているこの部屋はいても立ってもいられないほど息苦しい。夕刻近くになってようやく風が出てきたと思い先ほど窓を開けたはずなのに、作った通り道と風の吹く方向が違うのかなかなか吹き込んでこない。わざわざ道を開けたというのになぜそこを通れないものだろうか、素直に通ってくれていればこんなちんけな家の壁を迂回する必要もないだろうし、こちらも気が済むというのにと、捻くれた吹き方をする風に対して無駄とは思いつつ眉をしかめる。 苛ついているせいだろうか、やたら汗をかく。そのせいで額に張り付く重い前髪がうざったい。 「ああもう、」 思わず出てしまう舌打ちも、普段のように誤魔化すのすら面倒だ。 「やってられない」 苛立ちと共に吐き出した言葉。仕事の足りない日々も、それに安住している彼を見ているのも、自分で仕掛けておきながらこの情事ですら、本当に、やっていられない。 と、唐突。 ぷっと、なにかの吹き出す音が聞こえた。 「…」 タイミングがタイミングだったので、一瞬どこから聞こえたのかわからなかった。ぐるりを見渡しながら、それらしい音を出すものを探してみる。右手にあるテレビの下に設置された一時間ごとに音を出すデジタル時計が午後七時をさしていたのでその機械音かと思ったが、日々聞いているそれはぷっ、というよりもっと電子的なピッという音であるので違うだろうと推測する。次いで背後を振り返ってキッチンの辺りを眺め、先ほど仕掛けた炊飯器が米をはじかせた音だろうかと思ったが、それとはなんだか違う音の気がした。煮え切る前の米の悲鳴とは違う、もっと耳につく、人為的な、笑いの混じった感じの。 はたと思い至って、下敷きにした悟浄を見る。 そういえば先ほど堪えきれないというように自分の腕で目元を隠していたか、出ている箇所は顔の下半分のみで、見えている唇は軽く引き結ばれていたが、よくよく見れば口唇の端がひくひくと動いている。特に刺激も加えていないのに、だ。 まさか堪え切れなかったのは笑いだったというのだろうか。 信じられないという思いでそっと被いを剥がしたら、変にひしゃげた目元があって、まさかを目の当たりにした自分がようやく、先ほどの音は悟浄から漏れたのだと悟った。 まじまじと見詰めた先でひしゃげた目元が笑いの形に整えられてゆく。 「…なんですか」 憮然としながら訊けば、「い、いや」などと、申し訳無さそうに言いながらも笑い止まない、どころかますます大きくなってくるその様。情事の最中だというのに色気もくそもない笑い方で、仕舞には腹を抱えて左右にゴロゴロと転がりだした。先ほどやっていられないなどと思ったことではあるが、こんなにも無碍にされると逆に腹が立ってくる。 転がる様が鬱陶しかったのでとりあえず腹の上に乗っかって体を固定した。それでも痙攣したように笑うので、微妙なバイブレーションが体に伝わってきて座り心地の悪いことこの上ない。 「なんなんですか」 「悪い悪い」 責めるつもりで言った言葉なのに悟浄の振動に震える自分の声は間抜けな響きでもって部屋に溜まって耳障りだった。悪いなどと悪びれもせずに謝る悟浄の声も同じで癇に障るので、「そうじゃなくて」と言いながら聞き分けのない子どもを叱るように、彼の顎を掴む。睨む勢いで目を覗き込んだ。 「なにがおかしいんですか」 「いや、あのさ、俺おまえの、そういうの、」 笑いを堪えて途切れがちに言いながらこちらの眉間のあたりを指差して眉をしかめられたそれで、ようやくそこに変な力を入れていたことに気づいた。悟浄を固定していた手で慌てて自分の眉間を撫でてみたら指先にボコボコとした感触を受け取る。 しまったと思った、けれど時既に遅し。力んだ力を抜いてみたものの指先に感じる凹凸は多少しか変わらない。鏡で確認しなくてもわかる、長いこと力んでいたせいで盛大な皺が刻まれてしまっているらしい。 慌てて伸ばしてみても指先を放せばまた元に戻るその感触にまた苛立ち力んでしまえばまた深く皺が出来て慌てて力を抜こうと努力して、そんなこちらの慌てた様を見ながら悟浄がまた笑い始めるものだから、バカにしているのかと言おうとした、ところで。 「あんま見ないから、ちょっと、嬉しい」 途切れ途切れに言われた台詞に呆ける。 嬉しい? 人が苛ついているのが? 皺ごときに慌てているのが? 自身はといえば、手前勝手に八つ当たりされているというのに? 嬉しい? ああそうか、アホなんだ、このひとは。 気づいたら、あれだけ腹に据えかねていた暑さも苛つきも、どこかに吹っ飛んでいった。癒されたとかそういうわけでもない。単純明快な答えに、呆れた。 「なんだよ、もっと見せろよ」 脱力した思いで体を動かす。ようやく腹の上からどけてやったというのに、こちらの腕を引きとめてからかいを続ける悟浄の手を、こちらが先ほどされたように無碍にしてやる。 「もう無理です」 「なんで」 「うるさいなあ、ほっといてください」 「今度は拗ねるのかよ、おもしれー」 八つ当たり気味に投げたソファのクッションをぽんと受け取りながらゲラゲラと品のない笑い方をしている悟浄を放っておいて、洗面台に立った。鏡に映る自分の顔の、眉間辺りを確認したら案の定皺になっている。というか、眉間ばかりか鼻骨のあたりも縦に皺。街行く人たちに整った顔をしているだなんだと言われているから、というのは別段関係ないし増して悟浄が綺麗な顔だとか言ってくれるから、というのはまったくこれっぽちも関係ないが、自分の顔に、これでもそれなりに気を使っているというのに。 ともかく今日はヒアルロン酸クリームを塗って寝ようと決め、泣きそうな思いで両の手で引き伸ばしている最中。 「夏休みっていいよな、毎日こんな八戒様が拝めるんだぜ」 そう、背中越しに聞こえた台詞。鏡の中の自分が一瞬呆気にとられたような顔をして。 ああ、もう。やってられない。 先ほどと同じことを思ったはずなのに、先ほどは深く刻まれていただろう眉間の皺は、不思議と浮かんでこなかった。 |
←戻 |