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小 冬 日 和

「猪悟能は死んだ」
 そう、仏門では最高僧としてあるはずの高貴な三蔵法師様は、坊主であれば剃髪すべきはずの光を纏ったかのような金の髪を靡かせて、坊主であれば決して口にしないような俗世的な言葉で、簡単に、そう言った。
 一瞬、住み慣れた室内で朝から散々に降り続いている雨音と時計の音が、やけに響く。
 猪悟能は、死んだ?
「冗談だろ?」
「俺が冗談を言うように、見えるか?」
 見えるわけがない、というか存在自体冗談みたいだというのに、それ以上冗談を吐かれてもこちとら困る。困るけれど。
「冗談、だろ」
 再度、そうあってくれと願うように呟いて、思う。
 冗談のほうがまだ、笑える。
 そう、冗談のほうがまだ、救われたのに。
「神は誰も救わねえ」
 だって、まだ雨は止んでいないのに。
「あいつが選んだ末路に口出しはできない。お前も、俺もな」
 叩きつけられた言葉を最後に姿を消した金髪の、扉を閉める音に我を取り戻す気力もなくて。
 雨音は止まない。あいつはもういない。
 空っぽの室内でただその事実だけが空中に漂って、時間など気にも留めず茫洋とそれを眺めてから、音に誘われるように外に出ようともがいてみた。
 玄関に下りて靴を履く、扉を開けて外に出る、それは日常気にも留めないほど簡単な作業なのにいまはひどく億劫で面倒で、素足のまま濡れた地面に降り立つ。森林を抉り取ったかのように建てたこの家は、目線の高さだけでは鬱陶しく繁る樹ばかりしか見えないから、それから逃げるように、落ちてくる雨粒の元凶を探るように空を見上げた。
 空が高い。雲も遠くて、おおよそ春とは思えぬ気温に肌がわななく感触。冬のようなそれらとふりやまない雨に心にわだかまっていた春の柔らかな暖かさもとたんに冷えてゆく。
 雨粒ひとつひとつを数えるよう、一文字一文字区切って、頭の中で反芻する言葉。
 猪悟能は死んだ。
 そうか、死んだのか。
「案外、呆気ねえな」
 く、と咽喉を鳴らして苦笑を漏らせば視界に白息が見えて。
 ああ、あのときと同じだ。
「…寒」
 凍えて悴んだ手のひらでさらししっぱなしの肩を撫でて、もう片方で、頬に流れた雨を拭った。
 泣くなよ。
 兄貴の言葉を思い出す。
 泣かないでください。
 被った彼の笑顔と、言われた覚えのないセリフが頭をよぎる。
 泣かねえよ。
 お前のためになんざ、泣いてやらねえ。

001はじまりの合図(20041205)
彼らのはじまりは、終わりの合図。
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