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季節の変わり目にありがちなここのところの激しい温度差で、どうやら見事に体調を崩してしまった、らしい。 「つまり夏風邪ってやつですか」 自室のベッドで、額からは汗を流しながらしかし寒そうに首筋まで布団を被っているところに、八戒の小馬鹿にしたような声が降りてくる。まあセリフの意味を考えれば実際小馬鹿にしているのだろう、仰向けに見上げた天井にちらつく彼の黒髪だけで冷めたその表情を安易に推測できるから。 「もーすぐ秋だし」 悔し紛れだか苦し紛れだかに吐き出した掠れた声は、自分の咽喉から出ているとは思えないほどハスキーだ。起きて気がついたらすでにこの状態、つまりは煙草と酒と風邪とで見事に潰れてしまったらしく、その声を聞いた八戒から早々に禁煙令が出たのは言うまでもない。いつもは手を伸ばせばすぐに届く距離に置かれているハイライトがいまはなぜか八戒の穿いている細身のズボンの、尻ポケットの中にある。取ろうと思えば取ることのできる位置に揺れている八戒の尻からそれを奪取するのは、たぶん、三蔵の弾を避けるよりも、悟空から食べ物を奪うよりも、難しい。現にさっきっから手を伸ばしては払われ、痴漢だ、とわけのわからない暴言を吐かれを繰り返して、ついには口の中に体温計を突っ込まれた。どうせだったらわきに挟め。 「こんだけ暑けりゃ夏も同じですよ」 「だって昨日は寒かったじゃねえか」 体温計を咥えながらもごもごと、かつぜつの悪い喋りで子どものような反論を試みる。口を開くたびに落ちそうになりつつかちかちと音を鳴らすそれのせいで歯が痒い。 そう、昨夜は寒かったのだ。賭場に出かける間際に玄関の扉を開けたら涼風というよりも木枯らしに近い風が吹き込んできて思わずドアと、カギまでも閉めた。それから慌てて自室に引き返し、なにをしているのかと覗き込んできた八戒を尻目に真冬用の分厚いコートを引っぱり出して改めて玄関先に立った悟浄を、そんな格好で出かけるんですか、と呆れた顔で見送った八戒は、たぶん悟浄が極度の寒がりであるということをまだ知らない。 「寒いの、駄目なんだよ」 「で?」 昨夜告げることのできなかった重大な、そう、自分に取ったらこれ以上ないほどに重大で重要な事実を言ったのに、心配してくれるどころか冷めた眼差しで一瞥された。 「それから明け方暑くなったからって酒の勢いで川に飛び込んだりするのはバカって言わないんですか」 「…」 「しかも着替えもしないで風呂に入りもしないで、布団で勝手にガタガタ震えてりゃ世話ないです」 反論の余地なし。むっと口を噤もうとしたところで体温計を取られて閉じた歯が舌に食い込んだ。 「うるせえなーもう、バカでいいからほっとけかまうな」 「あなたがうるさく喋りさえしなければ僕もうるさく言いません」 人の言った、一に対して倍以上もの罵声を返してくるやつのセリフではない。 「独り言だし」 「それは失礼いたしましたね。あ、三十九度ですって、おめでとうございます」 すっぽ抜いた体温計を眺めて言われた言葉に、なにがめでたいのかと思う。喋り続けていたのだからまともな温度も測れていないだろうに、嘘吐き、と噛んだ痛みでひりついた舌を思い切り伸ばして。 大体病人に対しているのだからもう少しくらい優しい言葉遣いとか気遣いとかできないものだろうか。 たとえばここでこうしているのがもしあのバカ猿とか生臭坊主だったりしたら優しい言葉とかかけてやってるくせに。こっちが弱って反論できないでいるところにつけ込んでいつも以上もの嫌味を言われているようでなんだか理不尽な気がしてならない。 だから、結局の原因となった自分のバカな行動を棚に上げて腹の中で呟く。 病人は気が弱いんだよ。労われ。 不意にいつもの調子で、悟浄、と名前を呼ばれた。顔を上げてなに、と口を開いたところでなんか黄色い塊を口の中に放られた。 「咽喉、痛いんだったらそれでも舐めててください。バカ用にお粥でも作ってきますから」 失敬な言葉を残してさっさと洗面器やらタオルやら体温計やらの看病道具を片付けに入った八戒に、反論しようと口を開けば溶け始めたそれがやったら甘くて咳き込んだ。 「なにこれ、」 「甘露飴。のど飴なんてないです」 ああ、よく露店やなんかで売っている黄色い砂糖の固まりか、そんなものうちにあったか? と思いながら舌先でそれを転がしてその甘さに辟易する。飴なんてのは所詮砂糖を煮て固めただけのものだろう? 身体に悪いことこの上ない。 病的な甘さに病気も逆に悪化しそうだと眉を顰めながら。 「知らねえと思うけど、」 煙草同様、カフェインは咽喉に悪いのだと却下された苦いコーヒーが飲みたい。 「こういう甘さ、だめなんだよ俺」 「そうなんですか? 我慢しなさい」 またまた一蹴。片付けを終えて部屋をあとにしようとしている八戒の背中は、もう話すことなどないから大人しく待て、と暗に語っているようで取り付く島もない。あーとかうーとか適当に、呼び寄せる言葉を捜しあぐねてみたりもするけれど黄色い塊が口の中で邪魔してうまい言葉も見つからない。体温計のほうがまだよかった、甘くないから。 煙草、吸いたい。 「煙草吸ったら、犯しますからね」 思った途端、心の中を読んだかのごとくナイスタイミングで駄目押しをされた。 看病道具を抱えながら行儀も悪く内開き扉の空いていた隙間に足先を突っ込んで押し開けて、いままさに出てゆこうとしている八戒の背中は、呼び止めるのも気が引けるほどの無言の威圧を醸し出している。その背が、なんだか苛立っているようにも思えるのは気のせいだろうか。考えてみれば数時間前、自室に自分を呼びにきたときから少し、おかしかった。 もしかして、これでも心配しているとか。 もしかして、意外と動揺しているとか。 扉を開ける勢いが強すぎて跳ね返ってきたそれを、ああもう、とか苛立った声と肘で除けている八戒をまじまじと見詰める。扉の角が肘に当たってたぶん痺れているだろう腕を、抱えている看病道具のせいでさすりたくてもさすれない、その様を検分しながら。 きっと、自分の予想は当たっている。 「わっかりづら」 布団を被って苦笑を噛み殺したら歯に当たった飴が、からん、と鳴った。 まったく、おちおち病気にもなっていられないなんて、世話の焼ける。 「オイ、忘れもん」 扉に挟まっている八戒を、ひらひらと手を振って招きよせる。 「?」 「半分やる」 疑問を抱えて近寄ってきた彼のTシャツの前襟を掻っ攫って力任せに引っ張って。 やたら甘い黄色い飴を。 「てめえも味わえ」 風邪も、うつってしまえばいい。そうしたら、口うるさく蔑みながら看病する奴の気持ちもわかるに違いない。 「僕は悟浄と違いますからかかりませんよ、夏風邪なんて」 「…それ、すげえ失礼なんですけど」 ふたりの口唇の隙間、欠けても残るその味を、八戒が理解してくれるように。 |
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