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そ し て ま た 「 よ ろ し く 」 と

 空を見上げればどんよりとした鼠色の雲が敷き詰められていて、今にも雨が降り出しそうに見えた。昨日の雨が乾かないぬかるんだ土の上を、体重の分だけ深い足跡をつけながら、僕と悟浄は寺院から悟浄の家へと向かって歩いている。心なしか肌を撫でる風も冷たいようで、薄手のコート1枚では少し身震いがする。悟浄にはわからない程度に、ほんのちょっとだけ体を震わせてから隣を歩く悟浄を見ると、僕よりは少し厚手のコートを羽織ってはいるが前は全開で、いつも通りに煙草を咥えながら平然とした顔をしている。と思ったら、僅かに眉間に皺が寄っていたから、やっぱり寒いと思ってるんだろう。
「寒いか?それ」
 迂闊だった。気付かれない様にしていたつもりだったけど、悟浄は僕の先ほどの震えを見抜いていた様で、とても唐突に、ちらりとこちらに視線と言葉を投げる。少しだけ、イタズラを見つかった子供のような表情で驚いた僕は、慌てて視線を前方に移して声だけで応えた。
「まあ、ほんの少しは。もしかして、さっき身体が震えたの見えました?」
「あー。ま、そんなとこ」
 そうしてまたちらっと視線を悟浄の方に向ければ、悟浄も僕と同じく前を見据えたまま応えていたようで、その目に僕を映してはいなかった。同居し始めてからまだほんの少ししか経ってないけど、本当にこの人はこういった些細な変化に目ざとくて困る。どうでもよさそうな、気まずそうな態度をとる時だってあるくせに、それでも常に気にかけてくれているのがわかるから嫌だ。
「悟浄だって、そんなに前全開にしてたら寒いんじゃないですか?眉間に皺を寄せてますけど」
「まぁ、ほんの少しは」
 今度はちゃんと悟浄の方を見て話しかければ、さっき僕が言ったばかりのセリフをそっくりそのまま返されてしまった。
「よく気付いたな、お前。案外そういう所目ざといよな」
 会話の法則上、次は僕が話す番なので、「…何だか雨も降りそうですし、早く帰った方が良さそうですね」等と言おうとした時に突然、悟浄がそんなことを言い出した。思わず僕は足を止めて悟浄の顔を見る。
「…?何の?」
「いや、俺の眉間に皺が寄ってるって。そんなに意識してた訳じゃないし、この程度だったら本当に周りに気付かれたことなかったからさ」
 足を止めた僕に合わせて、悟浄も足を止める。少しだけ僕よりも前にいるから僕の方を振り返って、笑いながら左手の人差し指を眉間に当てた。
 というか、何を言っているんだろうかこの人は。それはまるっきり僕のセリフであるはずなのに。
「そうだったんですか?結構はっきりわかると思ったんですけど…でも、それを言うなら悟浄には敵いませんよ」
「俺?」
 今度は僕がそう切り返せば、とぼけた様な顔で小さく首を傾げる。わざとかな、と思ったけど、別にはぐらかしている訳ではなくて、どうやら本当にそう思っているみたいだ。悟浄と同居し始めてからもう一つわかったことがある。それは、この人が自分以外の人間には神経質を通り越して敏感なくせに、自分のこととなるととんとわからず無頓着であるということ。だからきっと、今のこのリアクションは本当に僕の言葉がわかってないということで。
「僕が身体を震わせたことですよ。絶対に気付かれないようにしたつもりだったのに」
「あー、それか。いや、それこそお前、俺の眉間の皺よりもよっぽどわかりやすかったって」
 ようやく思い当った悟浄は納得した顔で頷いた。せっかくの僕の努力を「よっぽどわかりやすい」の一言で片付けられたのはちょっと腹が立ったけれど、それにしたってこの言い草。本当にこの人は自分のことをわかってない。
「悟浄って、今みたいなちょっとした変化にすごい目ざといですよね。同居してからわかりましたけど、全然僕のことなんか関係ないみたいな態度とっておきながら変な所でおせっかいだったり、人が気付いてほしくないことまで気付いたりして。おまけに自分のことは何もわかってないんですから、本当にその性格どうにかならないんですか」
 何だか心にふつふつと沸き上がるままに一気に言葉を紡いでしまった。しかも気合が入りすぎて思わず息継ぎなしで。対する悟浄は、いきなりのことに、無言でぽかん、とした顔をしてしまった。沈黙がだんだんと僕の心を冷静にしていくのに比例して、流石に勢いに任せすぎたかと思い何かフォローでもいれようとした時に、悟浄が口を開く。
「…何言ってんだ?俺がおせっかいで、しかも自分には無頓着?」
 悟浄らしくもなく抑揚のない声で言われたので、少しだけ僕はまずったと思った。慌てて口を開こうとすると、またもや悟浄に先を越される。
「そりゃまるっきりお前のことじゃねーか!急に何を言い出すかと思えば、良くも自分のこと棚に上げてそんなこと言えるなお前。ええ、八戒!何だよ急に、何でそんなとげとげしい物言いされなきゃならないんだ俺は?俺何かお前に悪いことでもしたか?」
 これにはこっちがびっくりした。悟浄もどうやら思いのままにしゃべったらしく、興奮している様子が良く見てとれる。こちらも急に悟浄の、おそらくは本心を聞かされて、ぽかんとした顔になってしまった。何で急に?そんなの。そんなこと。
「してますよ、悪いこといっぱい。これでもかってくらい」
 今度は僕が抑揚のない声で話せば、悟浄は少しだけ神妙な、真剣な顔で僕を見た。
「…昨日のことだったら、悪ぃ。わざわざお前の手をわずらわせることもなかったんだけど…」
「そうですよ。僕があんなに、あなたに鷭里さんのこと注意したのに、そりゃあ僕は以前のあなたと鷭里さんの生活なんて知りませんけどね、それでも今同居しているのは僕なんですよ?ちょっとは話聞いてくれたっていいじゃないですか。いっつも僕の触れて欲しくない所まで気付いて、見て見ぬフリをする優しさはあるくせに、他人のことになると自分のことなんかどうでもよくて、本当に馬鹿な人ですよねあなたって人は」
 タガが外れたように、勝手に口が動く。何でだかわからないけれど自分でも止められなくて、目に映る悟浄は真剣な顔のままで。
「その度に、今回みたいなことが続くんじゃあ僕だって疲れますし。何度言ってもあなた聞かないんじゃあ虚しくなってきますし。さっき、なんでこんなこと言い出したのかって言いましたよね?なんでじゃないんです、今だから言うんです。昨日あんなことがあったから今言うんです。怖かったんですよ!」
 久しぶりに腹の底から声を出した気がする。言い終わったと同時に鼻を冷たい液体が打った。懸念していた雨が降り出してしまったみたいだ。頭は冷静に、早く帰らないと風邪をひいてしまうと思っても、心がそれを許さなかった。
 『怖かった』。口に出すと急に実感を持って体を電撃の様に駆け抜ける。悟浄だって雨に打たれているはずなのに、何も言わずに僕の言葉の続きを待っているようだった。
「…これから先、あなたと同居していくことが怖いと思ったんです。僕は、鷭里さんみたいにあなたと共通の趣味を持ってる訳でもないし、彼ほどあなたのことを理解できていないじゃないですか。そんな僕が、あなたにこれからもそんな無茶させるなんて、もし何かあったらなんて思ったら寝覚めが悪くて敵わないし、そんなあなたを止められないなら僕はあなたの側にいても仕方ないんじゃないかって」
 今度は、喉の奥から搾り出すような声。一体今の自分はどんな顔をしているんだろう。僕を見る悟浄が少しだけ苦笑したのを見たら、随分情けない顔をしているのかとも思ったけれど、もしかしたら、それは終わりを告げる諦めの笑顔かもしれないと、直感で思った。僕に無理をさせるようなら、ためらわずに同居の解消を提案するだろうこの男は。でも、僕が言いたいことはそんなことじゃない。
「あ、謝るのはやめて下さいね。あと、同居を解消する、とかいうのも、認めません」
 打って変わって、強い声音。先手を打った僕に少々悟浄が驚いた顔をする。だから、最後とばかりに一気に畳み掛けた。
「さっきのは、僕の決意表明です。落胆して、この生活を止めようと本気で思ったら、昨日あんなことはしてません。あなたに傘を届けるようなまねなんかしてません。これからも続けようと思ったから、僕の思ったことを言おうと思っただけです。止めませんよ、同居。もう僕は腹を決めたんですから。あなたが雨の日に傘を忘れる様な事があったら、また昨日みたいに届けますからね。2つあればそれぞれがさして雨を凌げばいいし、1つしかないなら相合傘でもしたらいいんです」
「相合傘…」
 僕のセリフに思わず悟浄が呟いた。言いたいことを言い終わった僕は、大人しく口を閉じる。平気そうな顔は、ちゃんとできているだろうが。内心は悟浄の反応が怖くて仕方ない。
 しばらく、互いの耳に届くのは雨が世界を打つ音だけだった。その間、僕達は視線を逸らすことなくずっと見詰め合っている。と、ふいに悟浄が大きな溜め息をついた。それも、両手を腰に当てて、肩を竦めてわざとらしく大げさに。ついでに俯けた顔が僕を再び捕らえた時は、苦笑。だけど、さっきとは違った、例えるなら、子供の必死な弁解を聞いた後の母親のような、それ。
「傘がなけりゃ、一緒に雨に打たれればいい。今みたいに、な。だろ?」
 そして、言われた僕はまるで子供みたいに。謝ったことを許してもらえた子供の様に、嬉しかった。
「…濡れちゃいましたね」
「濡れたな」
 本当はもっと他に言葉があったはずなのに、口に出た言葉はそんなものだった。そして、悟浄の答えも。
「早く帰らないと、風邪ひいちゃいますよ」
「それは勘弁だな。お前に風邪ひかれると、俺の栄養状況が著しく悪くなるから」
 雨を吸ってすっかり重くなったコートを握ってみる。本当はそんなことより、その悟浄の言葉の意味を知りたい。あんな啖呵を切ってはしまったが、悟浄は僕と同居することを良しとしてくれるんだろうか?
「お前が言いたいこと言ったみたいだから俺も言うけどよ」
 そんなことを考えていると、悟浄の言葉が耳に届き、僕はいつの間にか俯けていた顔を上げて悟浄を見る。
「基本的に、俺は自分に正直だから、自分と性に合わない奴を置いとくほど物好きじゃねぇ。確かにお前と鷭里は違うが、そんなこと当たり前だ。正直、お前といて居心地が悪いと思ったことだってある。けど。それ以上に、お前といる方がはるかに面白いし、居心地いいと思ってる。それは忘れんな」
 いいんですかそんなこと言って。忘れろと言われても絶対に忘れませんよ、僕。墓場まで持っていきますから、覚悟して下さいね?
「んじゃあまぁ、とっとと帰ろうぜ。このままだとマジで洒落にならねぇって」
 言いながら、悟浄は空を見上げる。そうすれば、僕からは表情を見ることができないから、きっと照れ隠しをしているんだろう、悟浄は。
「そうですね。もし寝込んだら、身の回りの世話一切、手厚い看護をおねがいします」
「縁起でもねぇこと言うなって」
 言い合って、それからちょっとだけ無言で、2人同時に笑った。声に出した訳じゃなくて、何かを確認しあうような、そんな笑顔を。
「じゃあ、ダッシュで行くぞ!遅れんなよ!」
「僕の方が足長いんですから、悟浄こそ遅れないようにして下さいね」
「んだとコラ!」
 子供みたいに、競争しながら悟浄の家へと向かう。
 今はまだ恥ずかしいから言わないけれど、家に着いたら改まって畏まって、丁寧に頭でも下げてから言おうと思う。



 「改めて、よろしくお願いします」、と。

色々こんぺい糖】子ねずみさまより
子ねずみさまよりいただきました。私、ここにいるふたりがすごく好きです。なんかもうすごく無邪気でいい。すてき。このふたりはおたがいに腹の底にあるものを曝け出せる唯一無二の存在だと実感できるお話です。本当にありがとうございました。大事にします。
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