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壁に掛けた時計の音がいやに大きく聞こえる殺風景なコンクリートの部屋でテレビも点けずに、悟浄はひとり椅子に腰掛けていた。 いつもは気にならない壁の薄い灰色が目にうるさく刺さる。見なければよいのに、と思って目を瞑り視界を完全に閉ざしても瞼の裏にはやはりその灰色がちらついて、舌打ちと一緒に薄く目を開いてはわずらわしさに辟易することを繰り返して。 苛々する。 朝からずっとこれだ。目の前に振り払えない砂嵐が舞っているような、拭っても拭い切れないインクの染みを見つけたような、どうにもならないのにどうかしたくてどうしていいのかわからない、空虚な存在感のフラストレーションが悟浄を苛んでいた。 理由は、わかっている。 「あー」 長く伸びた赤が擽ったくて、髪を掻き毟りため息をつく。 そうして開けた視界に入った、テーブルの上。 空の灰皿。 新品のように磨かれたそれは嫌味を含んだ銀光を放って、天井や壁の灰色よりも強く悟浄の目と神経を刺激した。 「あー」 何度目かのため息を、もうひとつ。 「吸いてぇ…」 情けない声を上げて灰皿を撫でるその指先には、声と同様力が込められていない。 「禁煙なんて、無理だっつーの」 そう、彼はいま禁煙中。 悟浄にとって生きるうえで欠かせないもののひとつ、煙草。自他共に認めるチェーンスモーカーの彼は、一日でひと箱、ふた箱は軽く空けてしまう。放っておけば食事も摂らずに一日中煙とヤニで過ごしてしまうぐらいなのである。 そんな不健康極まりない生活をごく当たり前のように送ってきた悟浄が、しかし昨日からは一本も吸っていない。 それはなぜかといえば。 「…あいつ、帰ってこねぇな」 買い物に出たはずの同居人のにこやかな顔を思い出し悟浄はポツリと呟いた。 なにを隠そう、この同居人こそが今回の禁煙の原因だ。 同居人、こと猪八戒との生活を始めてもう随分のときが経過した。それに伴って自分たちもそれなりに成長してきたと思う。 しかし、果たしてそれがよい結果を生んだだろうか。 出会ったときには想像もできないほどの成長を遂げた八戒は、その中身を見事白から黒に大変身させてしまった。薄倖美人、意志薄弱な面をしてやることのエグイ彼。変身したというより本性を現したといった感じだが、当の本人は「周りに感化されたんですよ」と軽くあしらってその笑顔で周りを閉口させている。 その黒い笑顔は特に悟浄には効果絶大で、本人もそれをわかっているだけにそれを武器にやたらと無理難題を押し付けてくるのだった。 今回の禁煙も八戒の一言が原因で。 「部屋、臭くなるからやめてくださいね」 そう言って、残り僅かとなったハイライトをゴミ箱に放ったときの八戒の、黒い笑いといったら。 「恐ぇんだっつの」 思い出し、ひとり背中にいやな汗をかいている自分のことなど知らぬ存ぜぬで八戒は、今頃楽しく夕食のお買い物中だ。 今日の夕食は天ぷらと蕎麦だったか、出掛ける前に八戒が言っていた。なぜ大人しく天ぷら蕎麦にしないんだと訊いたら、「だって悟浄、萎びた天ぷら衣嫌いじゃないですか」と笑顔で返されて言葉が出なかったのを覚えている。 (って、そんなん律儀に覚えてる俺もどうかと思う…) 八戒が出掛けてからもう二時間ほどが経とうとしている。ちらり、と見た時計の針は四時ちょっと過ぎ。いつもならとっくに帰ってきているはずの時間だが、おおかたどこかのセールにでも引っ掛かっているのだろうか、全く帰ってくる気配がない。 「…」 時計の音がカチカチと、耳障りなほどに響く。 あたりの様子を伺うように横目で部屋の中を見回す悟浄。その朱の目に、なにやら企んだ色がちらり、と浮かんだ。 「家主は俺だ」 誰に対しての抗議なのかアピールなのか、拳を力強く握り締めて厳然とした口調で呟いた悟浄は、音を立てないようにそっと椅子から立ち上がると自室へと足を運んだ。それも心なしか忍び足で。 薄暗い渡り廊下のようなものを数歩進んだところ、木製白塗りの扉。起き抜けに小さく開け放したままでいたそれを、自分ひとりだけが通れるほどの間隔を足して。 まるで忍び込むように侵入した自室は、八戒によって綺麗に整えられていた。昨夜、口淋しくてつい食い散らかしたガムや飴などの包み紙や、苛ついてうまく寝付けずに乱れたはずのシーツなどは痕跡もなく、どころか、窓や壁までぴかぴかに拭いてあるのに少し驚いた。 どうしてやつはこんな無駄なことが好きなんだろう。部屋なんて生活していればすぐに汚れるし、極論掃除なんかしなくても人は生きてゆける。寧ろなにもかも美しくあったら、きっと汚すのが怖くて息もできないだろうに。 そう思ってため息のように深く呼吸した悟浄は、ふと気づく。 気のせいか、はたまたこの二日弱の禁煙による賜物だろうか、長年にわたって悟浄が染み付けてきたはずの強烈な煙草臭が、若干だが薄くなっているように、感じた。 「…」 すごいと思うよりもなんだか物足りない感じがして、悟浄は部屋の入り口で腕を組んで憮然とする。慣れきった匂いがしないだけでこんなにも淋しいとは思いもしなかった。 だから、なににも執着なんかしないと誓っていた、のに。 これではいつか訪れるだろう彼との離別には、どれほどの寂寥感が伴うのだろう。 (っかつく) いらぬことまで考えて毒づいた。気づきたくなかった事実とそれを気づかせた原因がとてつもなく憎らしく感じる。 こうとなったからには、怒られようがなんだろうが絶対に煙草を吸ってやる。 そう決心した悟浄は、それでもやはりの忍び足で、ベッドヘッドのほうまで歩を進めた。白いシーツが広る整えられた布団の横にある木製のサイドボードは、この家を購入したときに付属として備え付けられていたものだ。以前はなにを仕舞うでもなく放置状態であったのが、八戒がここに来てからは立派にその役割を果たしている。無遠慮に部屋に侵入しては好き勝手整理整頓してしまう八戒から少しでも物を隠そうとするならば、いっそ扉に鍵でも取り付けたほうがいいのだろうが。 とにもかくにも鍵よりも、今は煙草のほうが優先だ、そう思って古びて少しささくれ立った取っ手に手をかける。微か耳障りな音を立てる一番下の引き出しを、こっそりと開けて。 「…ナメてる」 そこにあるはずのカートンがすべて綺麗に消え去っていることに愕然とする。おおかたどこかに隠したのか、それとも丸ごと捨てられてしまったのだろうか燃やされてしまったのだろうか。八戒ならやりかねないその行動を想像して、今度は絶対に、部屋に鍵をつけよう、と堅く心に誓う悟浄であった。 (なんて、これで諦める悟浄様じゃないぜ) 一瞬不覚にも涙を流しそうになったことを振り捨てるように頭を振って、勢いに中途半端に伸びた髪が横面を打つ痒さに眉を寄せた悟浄は、髪を一纏めにしながら今度は、壁際へと方向を転じた。 灰色の壁にかかった針金のハンガーに、みっともなくぶら下がる黒いジャケット。いつだったか出かけたときの名残のままに引っ掛かっているそれに近寄り、悟浄は左の胸ポケットのあたりを探り出した。 確か、こないだ飲み屋で最後の一本を酒に濡らして吸えなくしてしまい、しかし貧乏性の自分は、捨てるのももったいなくてそのまま突っ込んでおいた、はず。 「っしゃ、みっけ」 勝利者のような声音で引っ張り出したその手元には、多少曲がってはいるがまだ充分吸えそうなハイライトが挟まれていた。勢いに紙巻から中身の葉が散らばる。 「家主は、俺だ」 もう一度、今度は自身に言い聞かせるように呟いた悟浄は、はたしてその煙草を口唇に挟んで肌身離さず持っていたジッポでもって慣れた手つきで火を点けた。 ここぞとばかりにうんと吸い込んだハイライトはどこかしけった味で、悟浄の薄汚れた肺に消えていった。 開いた窓から堂々と注ぎ込んでくる爽やかな初夏の風。 夕刻に近づいて空は青から紫、そして赤へと色を塗り替えはじめている。冬場よりもゆっくりと染まり行く空を見ていると時間も忘れてしまいそう、といつもは思うのに、今夜の悟浄はちょっと違っていた。 そわそわと部屋を行き来する悟浄の背中、長く垂れた髪が左右に揺れる。禁煙中の禁断症状ででもあるように落ち着かない様ではあるが、先ほどこっそりと吸いさした煙草のことを思えばそんなことなどありえないはずで。 時計を見れば、いつもならとうにキッチンで八戒がなにやら忙しなく立ち働いている時間だ。たまに遅くなるときの時刻を考えれば、たぶんもうすぐ、八戒が帰ってくる。 歯も磨いた、風呂にも入った、髪も身体も手指のあいだだって、きちんと洗った。 ばれるはずはないと思っているのに、どうして心音はこんなにもばくばくと鳴るのだろうか。きっと先ほど吸い込んだニコチンと二酸化炭素による酸欠だろう、と小一時間も前に吸い込んだ煙にすべての責任を押し付けて悟浄は、やるともなしにソファに腰かけた、途端。 ノックが聞こえた。 控えめであるそれがまたも心臓を揺らした。 大丈夫大丈夫大丈夫、呪文のように繰り返して。 「おか、えり」 不自然に声が震えたことに構ってなどいられなかった。初夏にあてられでもしたかのように焦った身体から汗が噴出す。八戒の姿を確認した途端またも竦んだ身体を叱咤した。 扉を開けて佇む同居人の整った顔は、いまだこちらを向いていない。足元に視線を落として脱足のために身体を屈めている。 大量に買い込んだのだろう、靴を脱ごうとするたびにがざがざとうるさく鳴くビニール製の袋がその華奢とも取れる白い腕に、手に食い込んで微かな痕をつけているのを見てすごくいやな気分になった。人の所有物に勝手なことをするんじゃない、などと八戒に言ったら喜んだ上に「気持ち悪い」と一蹴されそうなことを考えて、痕をつけたいのなら自分の腕にしろ、と文句を言うような勢いで八戒のその腕から荷物を奪おうと近寄る悟浄は、そもそもの事情などすっかり忘れているのだろうか。ことひとつにしか集中できない質、八戒の腕についた傷跡だけで我を忘れられる、ある種器用な人間だ。 ソファから玄関まで数歩。憤懣やるかたないという感じで大股を広げて玄関に向かう悟浄。 と、玄関まであと一歩というところで不意に八戒が顔を上げた。 そういえば、八戒はまだ一言も喋っていない。なぜ今ではならなかったのか、無防備に近寄った状態で恐い事実に気づいてしまった悟浄の動きがその場でぴたりと、制止した。一時停止のスイッチが入ったような見事な止まりっぷりだ。あるいは誰かに操られたかのように。 その誰か、とはもちろん。 「吸ったんですか」 ただいまもなしに唐突に言った八戒に、二の句が次げなかった。 それを確認した八戒が。 「吸ったんですね?」 付加疑問の形に変えて問いかけてきた。 これは非常にヤバイ。 「な、なにを?」 荷物を奪おうとしていた手元が空中で支えもなしに綺麗に浮いている。自分の差し出した浅黒さは八戒の腕の白さと妙なコントラストを生み出していてコンクリート張りの壁と溶けてしまいそうだ。そんな風に感じて、自分の目がぼやけているのではないかと勘違う。瞬きをするのも忘れたように見開いた目を、八戒に向けることができない。 「煙草ですよもちろん」 訊いた言葉に返した声。なんとまあ、冷め切った声音だこと。 恐。 (いや、恐くない) 一瞬恐れ慄いた自分を叱咤した。 大丈夫、こいつはカマをかけているだけだ。誘導尋問と同じ、白状するのを待っている。ならば。 家主は、俺だ。 「吸っ…」 ってねえよ。 意気込んでそう言おうとした言葉は顔を上げた瞬間見た八戒の、他に表現のしようもないほど、ひたすら恐い無表情に押しつぶされて、消えた。ひ、っと吸い込んだ息の合い間に音もなく気道下に落ちてゆく言葉の無音の悲鳴を、この男にも聞かせてやりたいくらい、だが、無理だ。叶わない。そして敵わない。 悟った悟浄の悲鳴の代わりに出てきたのは。 「い、ました」 あまりに正直な自供だった。 家主は誰だと、こっちが訊きたい。 「はあーあ」 これ見よがしにため息をつかれて、いまだ在空していた腕がその空気の音とともに下がっていった。 「悟浄ってもっと我慢強い人だと思ってたんですけどねえ…」 嫌味ったらしくぶつくさ言う八戒。生えてきた恨みを直結して根に繋げ永々と懐に抱え続けるタイプである彼は、意外といえば意外だしらしいといえばとても彼らしくて、同居を始めて、初めてそれを知ったときの気持ちといったら笑ってしまうほかないというほど滑稽だった。しかしいまはそれが、笑えないほど恐い事実として悟浄の目の前にぶら下がっている。振り払ったら棘でも出てきそうだ、綺麗な薔薇には棘があるなんて誰が言った言葉だろう、憎らしいぐらいこいつにぴったりではないか? 俯いたまま、八戒の恨みを振り払った瞬間を想像して鳥肌が立った悟浄は、ここは無難に謝って平穏無事にやり過ごすしか手がないと思案した。しかしそもそもはこの性悪男の支離滅裂な提案に端を発しているわけで。元来の性格かはたまた育った環境からか、謝るのが苦手(というか嫌い)なタイプに育ってしまった悟浄にとって、果たしてこの状況で勘のいい八戒に対して心のこもってない謝罪をいかに巧みにそれらしく伝えるかというところが問題点であり最大の難関であった。 悟浄が熟考している横で八戒はひたすらに嫌味を言い続けている。 なんというかある意味、よくもまあと感心してしまうくらいくるくる回る思考に、決して遅れたりなんかせずにぴたりとついてくる口元の動きを見ているだけでも面白いものはある。ここで突然接吻けでもしたら、その動きはぴたりと止むのだろうか。謝らねばならないのにそんなふうに考えた自分は相当阿呆だ。 そう、謝らねばならない。なんとかうまく、八戒の勘を潜り抜けて。 「大体悟浄はですね…」 しかしこう、なんというか。 「しかもあのときも…」 立て続けに言われ続けると。 「好い加減にしてほしいんですけどあなたときたら…」 天邪鬼心にも火がつく、というか。 「つまりバカなんですよ、バ・カ」 ぷつん、と。 なにかの切れる音が、聞こえたような気がした。 「うるっせぇな! 大体元はてめぇが勝手に決めたことじゃねえかよ!」 狭い我が家は籠もったように音が響く。夜中にラジオをつけていると、小さい音であるのに家中にか細く反響しその小ささが逆に神経を逆撫でるのだ。たぶんコンクリート打ちっぱなしの造りがそうさせているのだろうが、いまのところ男ふたり暮しでそんなに不自由とは感じていないわけだから改善しようとも思わないのが現状だった。 そんななかでのこの悟浄の大音量。突然響いた常ならぬ音に驚いた家屋はその音を吸収することも拒否して。結果、跳ね返り響きあい反発しあったそれは、耳障りな超音波に似た耳鳴りという名の波紋を残して狭い部屋にわだかまった。 そうしてようやく訪れたのは、沈黙。先ほど響いた音など嘘だと錯覚するような、叫んだ悟浄自身、居たたまれない、と感じるような、静けさが支配する空間。 見つめた八戒の目は揺るがない。悟浄も、逸らさなかった。逸らしたら負ける気がした。 「あなたが、」 やがてぽつり、と、八戒が呟いた。 「むかつくんです」 …は? 突拍子もなく言われたそのセリフに訊き返そうとした口唇は簡単に塞がれて、悟浄の、は? は音になる前に吸い込まれていった。代わりにビニール袋が落ち込むがさり、という音が聞こえて。 髪にそっと手が触れた。 いつもの接吻けだった。情事に傾れ込む前の、八戒が誤魔化すときの。重なる直前に見えた翠玉はやたら切ない色だったのは気のせいか。 「っ、」 侵入してきた生温い生き物が主体である八戒とは別物のように巧みに口中を犯す。歯列を閉じる、なんて甲斐のない抵抗だ。優しくなぞるその仕草で簡単に開いてしまう。慣れた仕草で探るそれは知り尽くした領域内でここぞとばかりに暴れた。 瞬間的に瞑った瞼は八戒が上顎を撫でるたびに痙攣するように揺れる。止めた息は長くは持たず、やがて鼻からは濡れた吐息が漏れた。 「だから、バカなんですよ」 朦朧と霞む視野で捕えた八戒の顔は、とても綺麗に歪んでいた。 煙草は、一本吸うごとに二十秒の寿命を奪うという。 そんなことを心配している自分を知られてしまえば滑稽だと鼻で笑い飛ばされるのがオチだろう。 それでも、吸い込んだ煙が命を侵しているというのにそ知らぬ顔で死に近づく彼を、ひどく恨んだ。自分を置いてゆこうとしてるようでひどくむかついた。 だから、なのに、…それなら。 「悟浄、一本もらえますか?」 「へ、吸うの?」 「ええ」 自分もそう、なってしまえば、いい。 なんてね? |
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