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八戒という名の男が我が家に居を決めてから、初めての冬のことだった。 寒い寒いと呟くにももう飽きた冬の気温はそろそろと氷点下に近づいて、吐く息は既に白を通り越して吐いたとたんにダストになるほどだ。空は高く晴れ晴れとしているけれど太陽はその分遠くのほうに耀くから、窓に張りついた薄霜が溶けることなく毎日毎日降り積もる。湯をかけても溶けないそれはすでに何層になったのかもわからないほど分厚くて取り除くのも面倒だった。 そんな状況だからまあ当然といえば、当然のことだ。体温が低くあまり寒さを感じないせいか、冬を十数日も数えた今日まで毛布と肌がけしかかけていなかった八戒もさすがに寒さを訴えた。数ヶ月前には死にそうな態を晒していたわけだからそれは本当に至極当然のことで、むしろこの寒さの中それだけの薄い状況で寝ていた彼を尊敬すらする。 が、しかし。 「布団、ないんですね」 「そうらしい」 特別、人が泊まりにくるわけでもなく遊びにくるわけでもない殺風景な部屋には、薄汚れたカーテンと煙草の焼け跡だらけになった小さなテーブルと椅子のほかには、自室にあるベッドだけしか見当たらない。もちろん通販カタログに載っているような賓客用豪華組布団一式セットなんてどこをどう引っくり返しても見つかるわけなんかなくて。 「どうしましょうか、ね」 本来なら荷物の掃き溜めとなるべくある押入れを引っくり返してこねくり回して、好い加減ふたりともその空っぽさに疲れ果てたところで珍しく、幾分か途方に暮れたように八戒が呟いたその声が、寒さに固まった室内に変に反響して消えてゆく。きん、と耳に残った虚しいほどの音が、なんだか本当に途方に暮れているようで、自分も途方に暮れたように空虚な押入れの前で立ち尽くした。 どうしようか、な。 途方に暮れながら心の中で呟いて、自分も考える。というかどうするもこうするも、後々のことを考えると買いに出ないとならないことにはどうしようもないのだが。正直自分は、寒いのが嫌いだ。いくら彼が寒いと言ったって、わざわざ外に買いに出るのも億劫だった。 「どうすっか」 もう一度、今度は声に出して呟いた。答えをくれるようにびゅうと鳴った屋外の風が窓枠の隙間からこっそりと入り込んで背筋を撫ぜた。 寒い。 まあ、考えても仕方がない。この寒さで凍られても困るし、とりあえずは寒がりの自分が二枚もかぶっている薄い羽根布団の一枚でも分けてやろうかななんてふと思ったところだった。 「買ってきますよ、僕」 思いがけず八戒から聞こえた言葉に少し驚く。 買いに出る、ということはこの寒さの中、わざわざ町まで出るということだろうか。 いや、それよりもまず。 「金、あんの?」 「まあ、少しなら」 驚いたというより、悪いけれど、嘘なのではないかと疑った。入手する伝すらないこの男が、どうやって? 猜疑心の固まりの眼差しで見詰めていたら答えを差し出すように八戒が、「労働の報酬ですよ。バイト程度ですけど」と言いながら給料の入った紙封筒をポケットから出した。その様がなんとなく自慢げに見えたのはたぶん、気のせいではないだろう。 一緒に暮らしていながら、八戒と自分はまるで接点のない生活をしている。夜に起きだし朝に眠る自分と、規則正しい生活を送っている彼と。この生活パターンを考えれば当然のことながらの繋がりなどできるはずもなく。唯一の繋がりといえば、ときたまに早く起きだした自分が賭場前に昼食兼夕食をとっているときくらい、だろうか。そう、今日のこの時間のように。 この時間以外はたして八戒がなにをしているかは実を言えばまったく、知らなかった。たぶんこの、自分がまったく知らなかった、考えようともしなかった時間に労働をしてその報酬を溜めていたのだろうと、その自慢げな態から推測する。 「なんの仕事?」 なんとなくだが気になって、訊いてみた。 「言うほどのことじゃないです。雑用みたいなもの」 はぐらかされただけだった。 それでも、八戒が働くのだから自分のようなヤクザな仕事ではないことだけは確かだと思う。酒が好きで夜が楽で、そんな自分では夜の賭場くらいしか稼ぎ場所がないというのに。まったくたいしたものだ。 ところでこっそり仕事に行くのは、本当は世話になりたくないからだろうか。 「俺も行く」 先の八戒のセリフと同様思いがけず自分の口から吐き出た言葉に少し驚く。寒いのが嫌いであるはずなのになぜわざわざ、と自分に問うが答えはない。 好奇心で、八戒の私生活を覗いてみたいと思ったからかもしれない。 「それは、かまいませんが」 一瞬躊躇うような間が空いたような気がした。自分がついてきたら不都合でもあるのかと思ったが。 「僕って華奢なもので。荷物、持ってくださいね」 笑いながら言う彼に少し、後悔。 街までの結構な距離を取りとめのない会話で埋めて歩いた。会話の内容はとくになにも覚えていない。それほど取りとめのない内容だったのだろう、途中などお互いに話す言葉が尽きてほとんど無言だった。 寒さも、会話の途切れもなにも頂点に達したところでようやくたどり着いた街並みは季節の変化に敏感ですっかりと冬の装いに変わっている。この寒さのせいだろう、露店やなんかもさっぱりと撤去されていて実に歩きやすいから、自分たちのような常人よりも少しばかり大柄な男ふたりが肩を並べて歩いても余裕はたっぷりあった。 「寒くないですか」 「さみいよ」 当たり前の問いに当たり前だと答えて、視線の端に見えた布団屋の店頭に安堵した。 店内に入った途端通販カタログに載っているような豪華組布団一式セット、とまではゆかずとも、そこそこ温かそうで豪華そうな布団が目についた。外気にあてられて寒かったからかもしれない、思わずふらふらと近寄ったら隣でも同じように吸い寄せられたであろう八戒が自分よりも先にその柔らかい羽毛に手を突っ込んでいた。即決めだ。 「俺が、出す」 「いいですよ、」 会計でちょっとした押し問答。八戒があくせく働いてせっかく貯めた金をここで散財させてしまってよいものかと思案した結果出した提案はすぐさま否決された。無碍にも程がある。それとも出てゆくときにはこの布団を花嫁道具にするつもりなのだろうか。 それから少し買い物をした。彼に必要な生活雑貨を、そういえばまともに持っていないことに気づいたからだ。 買い物途中道端で、あるいは店の中で自分の知らぬ誰かに声をかけられている八戒を尻目になんとなくだが疎外感を感じた。 こいつはべつに、わざわざあの狭くて汚い家に住む必要はないのではないだろうか。自分などと同居をする必要はないのではないだろうか。 同居を決めたのはきっと、ここでは自分以外の知り合いがほかにいなかったからだろうと思う。三蔵とかいういかれた坊主にでも頼れば住居など安易に斡旋してもらえるだろうにそうしてもらわなかったのは、妖怪化した身を恥じたからだろうか。 なににしても、あのコンクリートの小さな家に八戒が居を決めたときといまとでは、状況は明らかに変わってきているのだ、と感じる。 金を貯めているのももしかしたら、出てゆくことを見越してなのかもしれない。 大荷物を抱えながら家までの道を歩いた。手のひらも手の甲も冷たくて擦り合わせたいのに、荷物を抱えているからできそうにない。隣を歩く八戒の手ぶらを思わず恨んだ。 そういえばといま気づく。慌てていたのかなんなのか、手袋もマフラーも家に置いてきてしまった。氷点下に近い気温では裏起毛の分厚いコートだけではさすがに凌げない。重い荷物を抱えているのだから少しは汗でもかくかと思いきや、額にかいた汗が木枯らしに拭かれて余計に寒さを実感したりもする。思えば八戒もこのくらいの寒さの中いままで寝ていたのだろうか、酷い仕打ちをしてきたなあ、とも実感した。だったらこの荷物の重みくらい、代わってやってもよいのだろう。 そう思った途端に荷物を奪われた。 「ねえ悟浄?」 なにをするかと問う間もなく、八戒が呼んだ。隣に半歩進んだ距離にいるはずの彼を横目で振り返ったら、視線の行方には彼の姿がなかった。足を止めたらしい。 仕方なくこちらも足を止めて振り返れば、数歩の距離で空いた道の先に案配のよい抱え方を模索するように荷物をこねくり回しながら佇む八戒がいた。 「布団、僕が買ったんですよね」 「?」 「食器も、僕が自分で買ったんですよね」 いまいちなにを言いたいのかがつかめなくて、こいつは自分で出した金すらも覚えていないのだろうか、痴呆の始まりかもしれない、と妙に心配になったが、どうやら八戒の訊きたいことはそれではないらしい。 これから重大な発表でもしようかというのか、改まったように深呼吸をして、吸った空気の冷たさにむせた八戒を訝しむ。なにが言いたいのかと寄せた眉根で打つ相槌に、八戒の咳き込んで吐いた息の、凍ったダイアモンドダストの輝きが被さった。 「つまり、なに?」 八戒の呼吸が収まるまでが耐え切れなくて、訊いた。 「えーと、つまり。これからは、家賃も出します、から」 途切れ途切れで答えたけれど、つまりのところが詰まっていない。 大体家賃なんてものは必要ない、と言う前に畳み掛けるように繋げられる息継ぎで八戒の鼻が赤くなっていった。というか鼻どころか、耳まで、顔全体まで赤くなっているのは一体どうしたことだろう。寒いから、なのか。 「あの家、もう僕のものですよね?」 しどろもどろに言い繕う八戒を、なにが言いたいのだろう、とわけがわからないまま見つめていた。彼が居を決めたときから自分はすでにそうした気持ちで八戒と暮らしているわけだし。今更そんなこと、確認しなくても。 「だから、」 一呼吸。 たぶんこれから言う言葉が、きっと詰まるところの答えなのだろう、咳払いをする八戒に緊張しながら、ふたりのあいだを駆け抜けた木枯らしに身を竦ませた。 「これからもずっと、一緒にいてもいいんですよね?」 呆気。 一体どんな重大な文句が出るかと思いきや、そんな、ことか。 鼻を赤く染めながら言うほどのことだろうか? 「いいんですよね?」 まあ。 「そうしたいなら、すれば」 しつこく言い募った八戒の吐く息の白さが冬空の中で眩しい。その眩しさに目が痛いから、素っ気なく言って荷物を抱えたままあらぬ方向に目を向けるしかできなかった。 帰り道、自然とつながった手のひらに落ちた雪は、透明な雫を引いて深い深い大地に、ただ吸い込まれていった。 |
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