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「悟浄、キスしてください」 風呂上りだった。 秋も深まり、悟浄の苦手な冬の到来を思わせる肌寒さを感じる。 長袖とはいえいまだ薄手のシャツを羽織っただけの格好では纏わる空気も無遠慮に侵入してくる。素足のつま先からすっかりと冷え切った身体を温めるため久しぶりに風呂に浸かる気で夕食後早めにバスルームへと姿を消した悟浄のまったりと寛いだ風呂での充足は、出てきた途端言われた八戒の言葉に見事に吹き飛ばされてしまった。 「…はい?」 とりあえず訊き返す。 「はい?」 こちらもとりあえず訊き返してくる八戒だが、その綺麗な面に貼り付いた笑顔は自分の言ったことも悟浄の「…はい?」の意味もすべてわかった上でのものであってわざわざ訊き返す必要などない余裕と戸惑っているこちらを見ての感想を如実に語っているように思えるのは果たしてこちらの気のせいだろうか。 「きす?」 具体的な単語にして問いかけなおして。 「はい」 笑顔のまま、どこか嬉しそうに肯いた八戒に目眩がした。 どうしてこうも彼はこう、行動とかセリフがいちいち突発的なのだろうか。前の状況をある程度説明した上でそれに伴った行動を起こすとか、そういうものを考えてからの一拍がないばかりにこちらがどれほどの被害をいつも被っているのだろうかと好い加減気にしてみてもいい頃合いではないか。一緒に暮らし始めてなんだかんだと言い合ってきたが彼のこの突発性だけは何度言っても直らない。というかもともと直す気など更々ないのだろう、こうして人の悪い笑みを浮かべているのだから。 「悟浄、キス。してください」 その笑顔のまま繰り返す。 だからキスって、キスって… 「さ、魚?」 「バカですか」 お前だろ! 思わず心中で突っ込みを入れたことなど聞いてはいない(聞こえないのだけど)様子で八戒は、まあなんというか、ともったいぶった感じで理由を述べた。 「そういえば、悟浄からしてもらったことないなあなんて思いまして」 道端のお姉さん方には挨拶代わりにしているくせに。 しとやかな湯でぬくんだはずの身体が八戒のセリフに凍りついたように一瞬で冷えた。多少どころか多分に嫌味を含んだ言い方にトレーナーに包まれた背中の真ん中が薄らと寒くなる感覚。 大仰な音を立ててカーテンを閉めて振り返った八戒の上目遣いが恐い。口元は笑っているのにその緑の目だけ笑みとは違った異様に強い光が宿っている様。見るものを一瞬で黙らせる効果のあるその色。 ああ、怒っている。 「お前、まだ根に持ってんの? こないだ…」 「なんのことだか?」 言葉を遮って訊き返すセリフと笑顔が冬場よりも冷たい空気感を運んできてぞくりとした。 この前、珍しくふたりで買い物に出たときだったか。町の入り口で偶然にも、昔の知り合いに会った。 知り合いといっても過去一度だけ身体を絡めただけの仲であって、当時彼女にはちゃんとした恋人がいた。しかしその恋人も遠く仕事に出かけて帰ってくることもままならない状態で。きっと淋しかったのだろう、いろいろと相談に乗るうちにいつの間にかそういうムードになっただけ。現に彼女は翌朝のまだ日も昇らぬうちから宿を抜け出し遠く住む彼の元へと旅立っていったのだから。 そんな彼女との再会。すっかりと老け込んだ彼女の腕には幼い子どもの手がいくつもしがみついていて、ああ幸せになったのだなと安心した。それから二言三言言葉を交わし。 「じゃ、またね」 そういった彼女は赤い口唇を己のそれに重ねたのだ。 八戒の見ている目の前で。 気づいたときにはその女性の姿もなく、背後に感じる重い空気に恐れをなした悟浄は、先に帰ると言い残し言い訳もそこそこにその場を立ち去ったのだった。 もちろん帰ってからの数時間にも及ぶ言い訳や説明は容易なものではなかったが。 長い赤髪から滴る雫は先ほどの湯の温かさを少しも残さずにすっかり冷水と成り果てていた。首筋に垂れたそれが自分でも驚くくらい身体を震わせて肩にかけたタオルを頭から被った。いや、もしかしたら八戒の恐い視線を遮ろうとしていたのか。 「だからあれは、」 「あれって?」 タオルに潰されて響かない音では八戒の詰問には勝てないのだけれど、その視線を感じたままでいるほうがよほど勝算がないような気がして被ったタオルを外すことができない。誤解だ、とか勘違いだ、とかいろいろ、言いたいのに。 「………ゴメンナサイ」 「最初からそう言やいいんですよ」 悔しそうに呟かれた白旗を告げる言葉に呆れたように、だがどこか満足げに八戒は言った。 今日も惨敗。これまでいったい何戦何敗しているのだろう、そう考えて、思えば出会ったときからこいつには負け続けている気がしたから考えるのを放棄した悟浄はふわりとタオルを剥がされる感触についと顔を上げた。 八戒の目がそこにある。 「で、キスしてください」 「なんでそうだよ」 「これでチャラにしてあげますから」 覗きこむ格好で言われたセリフに悟浄の身体を一気に脱力が襲う。 つまり最初からそのつもりで。仕置きというか、躾というか。 これだから質が悪いんだこいつは。 かくんとうなだれた自分を八戒が楽しそうに見ているのがわかる。剥ぎ取ったタオルで髪から滴る雫を優しく撫でて拭き取る八戒の温かさに、なんだって自分はこんなにも安心するのだろうか、こんなに質が悪くて底意地が悪くて策略家で。 でも結局は、いいのだと許している自分。 これで連敗記録がまたひとつ増えた。 「つーかさ、」 がしがしと、頭皮をうるさく滑るタオル。頭を抱えられた状態で今度がこちらが上目遣いに見上げてやるのに、揺れる自分の髪と白のタオルに隠れて八戒の顔は見えない。時折見える電灯の明かりだけがやたら眩しい。 「して欲しいの?」 その音と光に紛れてしまいそうな小さな音であったのに、髪を乱していた手の動きが止まったことで八戒には聞こえていたのだと、わかった。聞こえなくてもよかったのに、と思う反面、なぜかほっとした自分がいた。 「というか、」 長髪から奪った水分で幾分重みの増したタオルをまたそっと剥がした八戒の深い緑が、電灯よりも強い光で悟浄の目を刺激した。形のよい口唇がゆっくりと、引かれる。 「して、欲しいですね」 艶然と笑まれたことでまた目眩が襲った。でもそれは先ほどとは違う、呆れではないなにかが身体をめぐった瞬間。魅入られたような。 「文法間違ってるぞ」 誤魔化すように俯いて、見当違いのところに突っ込みを入れれば、「あなたほどじゃないですよ」と笑んだ声が降ってくる。タオルの壁も取り払われて直接耳に落ちる声が熱い。 「嫌、なんですか」 「別、そうじゃねぇ、けどさ」 わざとのように一言一言区切って言えば、「けど?」と言葉尻を捕らえて揚げ足を取る八戒がものすごく、憎たらしい。 キスなんてそれこそただの男女間での挨拶代わりだと思っていた。好きだからしたいとか、相手の気持ちを確かめるためとかそういう概念で考えたことはない。だけど。 八戒のことを好きと知って、彼に好きと返されて。 その行為がなにか神聖なもののように思えてしまったから、もう、気持ちがないときのように簡単にはできなく、なった。 言葉を交わすよりも、口唇を重ねた瞬間に感じるぬくもりと吐息の熱とですべてが悟られてしまうような気がしたから。 恐くなったのかも知れない。 (つか、) 正直、すごく恥ずかしい。 (ってことくらいわかれよバカ) 「して、欲しいの?」 もう一度問うた。 そんなに、自分の気持ちが知りたいのかと。 「欲しいです」 こちらの問いかけの意味など理解していないのだろうに、きっぱりと言い切る八戒の口唇が誘うように笑んでいた。そういえば、と。ここ数日その薄く冷たい唇に触れていなかった。幾日か前に熱い一夜を過ごしたのみで、それ以来、その身体には少しも触れていない。そう思ったら、咽喉が飢えを訴えるように鳴った。 す、っと、それが当然であるかのような容易さで八戒の目が閉じられた。 近寄った顔の常人外れた美しさに戸惑う。長い睫毛と白い肌。体つきが変われば本当に、女性に見紛う程の整った顔立ち。美人と言う形容詞がこれほど似合う女は今までいただろうか。増してや目の前のこいつは紛れもない男だと、知っているのに。 薄い口唇に視線を落とす。微かに笑んだ形で引かれたそれはなにかの彫刻かはたまた芸術品か。それを自らが汚してしまって、果たしてよいのだろうかという危惧がふと、浮かんだ。 「なに…」 突然重い前髪を持ち上げられる感触に閉じられていた八戒の緑玉が薄く開かれるのを牽制するよう、見るな、と囁いて。 その曝された額に軽く口唇を落とした。 そしてつるりとした滑らかさを感じる間もなく、離した。 「…バカにしてますか」 微かに空いた沈黙のあいだに逃げるように八戒から離れて、さっと咥えたハイライト。飢えた咽喉にそれを流し込んだところで恨みがましい声音で吐かれた八戒のセリフに、毒の紫煙が微かに揺れた。 「だって、バカじゃん」 吐いた煙のようにどこか白々しく誤魔化してもきっとこいつには通用しない。逃げた理由もすべてわかっている。わかられてしまう。 「だから、あなたほどじゃない、って」 言ってるでしょう、と引き寄せられて重なった口唇。 「…、」 感じる、芸術品の物としてではないざらつきが口中を這う感触に飢えていた咽喉が飲み込むように鳴った。 ああ、与えられたと歓喜しているのが自分でもわかる、と思ったら。 「なに、遠慮なんかしてるんですか」 口中の温度を確かめる間もなく突き飛ばされた。たたらを踏んで見返した先で八戒が不機嫌に表情を作っていた。いっそ傷ついたような表情をしてくれればごめんと謝ることもできるのに、それを許さないような怒気を抑えた静かな声音が悟浄を打った。 それを見て、聞いて、なにも言えない。 「くっ付いてみないとわかりませんか?」 偽者か本物か。 「見かけだけじゃ惑わされてしまう?」 挑発的に投げつけられる言葉。低くもなく高くもない音程が今の八戒の抑えた本音を曝け出す。 「そんなんじゃそのうち、誰かに高値で買われてしまいますよ」 自分が最初に拾ったくせに。 くるりと背を向けられる。華奢な肩幅が精一杯悲しみと怒りに沈んでいてそれを必死に隠そうと歩む姿が痛々しかった。待てと、言いたいのに言い訳が見つからなくて。 だって恐かった。汚してしまいそうで。 歩く八戒は当然のように振り返らない。自分が引き止めなければ、きっとそのまま自室に消えるのだろう。そして悔しさと怒りに打ちのめされた表情を曝すのだろう。たったひとりで。自分がいるのに。自分がいるから。 逡巡していたら、廊下の暗がりに今にも消えようとする、直前に八戒が。 「イミテーションだって、それなりの価値はあるんですからね」 捨て台詞のように吐かれた言葉に箍が外れた。 駆け寄ってその背中に体当たりをかましたら、華奢な身体はそれをしっかりと受け止める強さで。 「…億出されたって売らねぇよ」 背中に落とした声。今度もきっと、届いているのだろうと確信する。だって、背から伝わるその鼓動が、速くなったのがわかったから。 「…じゃあ、兆、出されたら?」 試すためだろうか照れからだろうか、小さな声で訊かれたそれ。でもどちらでもいい、そんなの無価値だ。答えなんてこれしかない。 「安いだろ」 「じゃあ、不可思議」 「そんな単位、知らねぇ」 「バカですか」 「バカだもんよ」 いじけたようにそっぽを向いても、逃げないように捕まえたままの手首からきっと伝わっているのだろう、朱色の温度が。 「悟浄、キスしてください」 最初のセリフ。いまならその突飛な言葉の意味も理解できるような気がする。 きっと、彼も不安だったのだ、ろうか。 「目、瞑っとけ」 照れた顔を見られたくないから。 くすりと笑んだ音を残して引かれた眦に指を滑らせる。なめらかな表皮。でも温かい。 作り物じゃない。 「…、」 交わした接吻けは、冷えていた身体の芯をほんのりと温めてくれた。 |
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