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しとしとと雨音が鼓膜を震わせる。 灰色に染まった空はガキの頃に見た汚ねぇ河の水に似ていた。 外に出るのも何をするにしてもタリィと思うような天気。 いつもは何かと小言を吐く奴は今朝から姿が見えない。 雨の日はいつも同じ。 もう覚えてしまった。 奴は自分の部屋に篭って出て来ない。 猫のような奴だと思う。 「…いや………猫に失礼か……」 起き抜けに呟いた声は低く掠れていた。 窓の外を見ると滴が硝子を伝って行く。 肌を這う様に伝うその雨滴が堪らなく不快だった。 雨は好きじゃない。 何故ならそれはいつも自分の過去を呼び覚ます厄介な代物だからだ――――… 濁りそめ こんな憂鬱な日は女を抱くのにも飽き飽きする。 あいつのように俺もずっと部屋に篭ろう……。 ふとそう思った時に奴の部屋から音がした。 じっとしていれば在りえない程の音が静かな家に響く。 鬱としていた気分が一気に吹き飛んだ。 今まで在った手元の温もりを手離して床に立つ。 裸足に感じる感触は冷たく冷えた鉄の様だった。 「……っ…お前…何してんだ…!?」 慌てて駆け込んだ部屋は人の住む部屋ではなかった。 足の踏み場もない程に散らばった本、倒された植木。 何かで引き裂いたのか、床に綿が散らばっている。 奴が大事にしていた柔らかなクッション。 それは無残にも見る影が無い。 ドアの前で呆然としている俺に対し、ソイツは目の前で言った。 「貴方こそ何をしているんですか……?」 ニッコリとした吐気のする笑顔で奴は俺を向かえる。 笑っているのにそれは表面上でしかない。 「…家が壊されそうだから見に来たに決まってんだろ?」 頭を掻きながら言葉を告ぐ。 先程から感じる奴の切迫した雰囲気。 それは酷く冷たくて重々しい。 溜息を吐く。 「……大掃除でもしてたのか?」 皮肉を込めて呟いた言葉を奴は肯定する。 「えぇそうですよ?ゴキブリが出まして……」 指先に纏わりつく綿を叩き落しながら奴は言った。 ふわりとしたそれは、周りのものとくっ付いて重々しく落ちて、床の上にポソリと落ちた。 嘘だと言う事は誰の目にも明白だと分かる。 少し神経質な奴は綺麗好きだ。 あまりにも白々しい嘘に厭きれ果てる。 こういう時、自分と奴が似ているという事を知る。 表面上は何もない様でいても内面は本人にしか分からない。 そういう所は似ている。 他人が自分を分かるとすれば俺も奴も笑いながらソイツを殺す。 だが……、俺と奴は正反対だ。 考え方も行動も同一ではない。 だから分かる事もある。 「お前……何でそんなに苛々してんだ?」 決定打。 それに尽きる。 ヒュッ………という音がして脳内に衝撃が走った。 グラグラとする頭に廻る視界。 痛いというより熱い。 じわりと頭の中から染み出すように出てくるのは真っ赤な血液。 壁に頭を叩きつけられた。 奴の手を掴んだ手は、力が入らずに擦り抜けた。 その力は強く、びくとも動かない。 「…………………」 奴は何も言わない。 そこに在るのは感情を一切無くした奴の顔。 辛いのか、怒っているのか、苦しいのかさえも分からない。 だから止めようがない。 頭皮を辿る熱い滴だけが俺の感覚の全てだった。 脳幹までも叩き潰す様に奴の手が未だに俺の頭を掴んでいる。 もう痛いとも感じない。 聞こえて来るのは奴の静かな呼吸と雨音と己の立てる血脈の音。 声も出ない。 手も出せない。 何も感じない。 奴が分からない。 ここまでされても腹も立たない。 もう…どうしようもない。 「…………赤い…」 ボソリと呟かれた小さな言葉。 傷付けられた皮膚からは、血が滴り俺の髪を伝いながら床に落ちる。 床に散らばった白い綿は俺の血を滲ませて紅に染まった。 飛び散った俺の血は綺麗な華のようだ。 奴の手が俺の髪を辿る。 「…………赤い…………」 相変わらずの無表情。 女の肌に触れるかのように奴は俺の髪を梳いた。 丁寧に丁寧に触られて、やがて頭ごと鷲掴まれる。 『 』 時が止まる。 呟いたのは一体誰の名前だったのか。 それは俺には分からない。 だけど『八戒』と名乗る前の奴の名前も。 殺してくれと言っているような瞳も。 誰かのために奴が絶望を覚えたのかも知っている。 奴の手は届かない。 その手に掴むのは赤い赤い血。 自分を慰めるかと思われる熱い血もいつかは温くなりやがて冷える。 その鼻に衝く錆びた臭い。 しとどに塗れた赤い血液はやがて乾いて落ちる。 忘れたくても忘れられない傷跡を残しながら。 俺は奴に何も出来ない。 奴も俺をどうにも出来ない。 傷を舐め合う事も許さずに俺達は偽って行く。 それを愚かだと誰かは言うだろう。 心情を吐露して、癒してくれだなんて吐気がする。 『 』 奴は尚も届かない声を吐き出す。 背中を伝う血液は温かい。 視界は使えなくなった古いテレビのようにクリアには映らない。 力が抜けてズルズルと壁を伝うと、奴の手は俺から離れた。 届かない手。 届かない声。 届かない心。 血塗れの手が俺の頬を伝う。 ゆっくりとまるで大事な者へ触れるかの様に。 そんな奴を抱きしめようとした俺の腕は感傷に思えて途中で止まった。 錆び臭い匂いが鼻を衝く。 噎せ返る様なそれ。 奴の表情は静かだった。 耳に衝くのは雨音。 チカチカとする視界に目を閉じる。 ぬるついた手が俺の目を覆う。 『 』 吐き出された言葉は悲痛さを伴って俺の唇に落ちてきた。 暗い掌を見ながら、俺の意識は闇の中。 意識が無くなる前に聞いた言葉は、先程とは違って俺の名前によく似ていた。 綺麗な雨は地面へと降り注ぎやがて穢れてゆく。 透明な水は土の色へと様を変えて消えてゆく。 濁り、染まってしまった雨はもう元へは戻らない。 |
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