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悟浄が初めて彼を連れて酒場に来たその瞬間、私には分かった。 敵だと。 悟浄は私を見つけると「八戒」と簡潔に紹介した。八戒とやらは私をじっと見た。 悟浄が店内をまわって顔見知りに挨拶し終わるまで見ていた。 一周して戻ってきた悟浄が、いつもするように私に軽くキスをした。 それで八戒にも分かった。 私が敵だと。 悟浄を13の時から知っている。本人は15だと言い張っていたが13だ。13年分生きた匂いしかしなかった。私にはそういうことが分かる。15だろうが13だろうが酒場にふさわしい歳ではないが、誰も咎めなかった。説教でもしたら、このおそらく訳ありでろくに家もない不良児の面倒を見なくてはならなくなる。つまり子供に説教できるほど立派な大人なんかここにはいないという事だ。私も同様だったので、店内をうろうろする悟浄を酒場の隅の指定席でちらっと眺めただけだった。悟浄はしばらく無視し続けられていたが、物好きな誰かに呼ばれて賭博に加わった。そしてあっという間に卓の金を総取りした。 …場を読め、場を。 と私は思ったが黙っていた。案の定フクロにされて叩き出された。暇だったので外に様子を見に行ったら、悟浄はもう立ち上がってパンパンと服の汚れを払っていた。 なあ悟浄、子供の仕事は大人の機嫌をとって愛想振りまいて可愛がられることだよ。それから徐々に居場所を作ればいい。不本意でも「生きていく」というのはそういうことだ。私もそうやって今ここにいる訳だし、あんなにつっぱってたんじゃこの先、生きていけないよ。お節介だとは思うんだけど、一応。 悟浄は私に突然にっこり笑った。それからポケットの中身を見せてくれた。 …いやあのな。おまえな。それさっきの卓の金より多いよ。すったんだ。凄い腕だな。いい度胸だ。いや誉めてる場合じゃないよ。ばれたら殺されちゃうよ。殺されるならまだいいけど世の中変な大人がいっぱいいるんだよ。変な意味で子供好きな大人とかバラバラにして売っちゃうようなのとかさ。そういう奴を大勢知ってる。 しかし悟浄の逞しさに私はちょっと恐れおののき、今後の展開が楽しみになった。そこで、傍観することにした。 徐々に悟浄は本気を出した。その進度はまさに駆け引きだった。喧嘩も賭博もそのへんのチンピラに負けるような腕ではなかった。最初のフクロは計算のうちだったと認めざるを得なかった。賭博と女で食うと決めると生真面目にそっちの腕を磨いて、本当に15になった時には悟浄を子供扱いする輩などひとりもいなくなった。 「やる」 悟浄は付け合わせのピクルスを摘んで、八戒の皿にひょいと移した。 「嫌いなんですか?」 私は危うく目の前の自分の皿をひっくり返しそうになった。そんなことも知らないのか。私は悟浄の好き嫌いも把握していない男に負けるのか。 「酸っぱいのがどうも」 「へえ…」 八戒は嫌味なほど長い睫をパチクリさせた。 「可愛いですねぇ」 おいおいおいおいおいおいおいおいおーい。酸っぱいのがダメ=可愛いか。こいつは何でもかんでも可愛いで済ませる頭の悪い女ですか。言われた悟浄はちょっと黙った。 「…誰にでも苦手なもんくれえあるだろ」 6年も傍にいた私の目に狂いがなければ、悟浄は今照れている。よし、私の目は狂った。 「貴方の好みは把握しとかないと、食事作るとき困るでしょう」 はっはあ、この人は悟浄のうちの家政夫さんだ。そっかー!ってあり得ないあり得ない。 「いや待て、この際はっきりさせとこう」 そうだ、はっきりさせてくれ。私の心が乱れる一方だ。 「俺は別に嫁さんもらった訳じゃねえんだから」 「家事は趣味です。僕の料理が不味いならそう言ってください」 「言わねえ」 「…間違えましたよ。美味しいならそう言ってください」 おや、なんだか動悸息切れ眩暈が。寿命かな。私の理性が。 一度悟浄の喧嘩に加勢したことがある。ひとりが後ろから角材で悟浄に殴りかかったので、そいつの足を薙ぎ払った。飛んだ角材から出ていた釘で私は軽くケガをした。悟浄は何度も何度も謝って泣きそうな顔で手当をしてくれて、今まで人に謝られたことがなかったし、こんな掠り傷の手当をしてもらったこともなかったし、賭博の合間に隣に来て兄のこととか母親のこととか色々話してもらったこともなかったし、ああ私はできることなら悟浄に何でもしてやりたかった。持ってるものなら全部やりたかった。でも何もできず何も持っていなかった。だから悟浄を見ていた。悟浄は必ずひとりで入って来る。出ていく時に女を連れていることはあるが軒並みただの金ヅルだ。私にはそういうことが分かる。しかし今日はふたりで入ってきた。ふたりで出ていく。そしてふたりで家に帰る。これからずっとそうしていこうという気持ちでいる。お互いにだ。私にはそういうことが分かる。 悟浄が手洗いに立った隙に、私は八戒に近づいた。 八戒。 八戒は振り返った。さっきの穏やかな眼差しとはうって変わって、もうその目にははっきりと敵意があった。あんたは一般的に見て綺麗な顔をしている。まだ若いしいい人に見える。ヤバそうな匂いはどっさりするが大方の人間にはばれないよ。まともな相手が他にいるだろう。賭博で稼ぐチンピラを選ばなくてもいいだろう。私には悟浄しかいないんだ。悟浄だけが生きる楽しみなんだ。悟浄の背丈が今より20センチも低かった頃から知っている。あんたが未来永劫二度と見ることのできない悟浄を私は知ってる。私の勝ちだ。 「…悟浄」 八戒の声は極々低かった。 「と、同じ色ですね。貴方」 気が付いたら体が宙に浮いていた。悟浄に後ろから抱え上げられたと気付いた時には頭にパンと平手がきた。 「何やってんだおまえは!」 興奮と後悔がごっちゃになって体の震えが止まらない。こいつは色のことを言った。悟浄の色のことを。私には色が分からない。悟浄がちょっとない髪と目の色だってことは知っていた。それがどうやら悟浄の美点であることも知っていた。酒場の女が皆言った。綺麗だと。素晴らしいと。どれだけ辛かったか。ああどれだけ辛かったか。こいつは知ってて言った。私の目を知ってて言った。 「八戒、怪我は」 「大丈夫」 やっと震えが治まった。八戒がすぐさま手を引いたせいで傷は深くはなかったが、皮膚の表面がわりと派手に裂けていた。悟浄はかなり大型な私を抱いたまま落ち着かせようとぽんぽん背中を撫でた。暖かい。涙が出そうだ。出ないが。悟浄あんたが好きだった。本当に好きだった。だからあやまれと言われてもあやまれない。これでおあいこだ。なあ悟浄、見ただろ、機嫌をとって愛想振りまいて、やっと確保した自分の居場所が一瞬でなくなるんだ。私はもうあんたに会えないかもしれない。でも好きだった。好きだった。本当だ。あんたには分からないけど。永久に分からないけど。 マスターが救急箱を抱えてカウンターを廻ってきた。 「…こんな真似したの初めてだよ。八戒、何か怒らせるようなことやったのか?」 「ええ」 八戒は、静かにきっぱりと言い切った。私は驚いて八戒を見た。 あまりに静かなきっぱり具合に、マスターも悟浄も何をやったのかと聞き返すタイミングを外した。 「おあいこです」 反省してこいと追い出されて店の裏口で反省するふりをしていたら、表通りから店を出てきた悟浄と八戒の声が聞こえた。どれだけ離れていても私には聞こえる。随分耳も鼻もきかなくなったが、私には聞こえる。 「悪かったな、なんか散々で」 「平気ですよ」 「ほんとごめん、あいつ大人しくて今まで一度もこんな」 「なんで貴方が犬のことで僕に謝るんです!」 何故八戒が怒ってるのか、悟浄にはさっぱり分かってない。可笑しい。 大笑いだ。 私は自分の腕の中に顔を埋めた。 「いいんですよもう。噛まれなかったら僕が殺してましたよ」 「なんで!?」 「もういい」 …大笑いだ。 悲しいような複雑なような熱い塊がぐうっと喉まで上がってきてどうしていいのか分からない。 悟浄は私に色々なものをくれた。初めて謝ってくれて初めてキスをくれた。でも悟浄は私から何も受け取っちゃくれなかった。悟浄にとって私は何でもなかった。動物でしかなかった。受け取ってくれたのは八戒だ。私に妬いた。対等に憎んだ。私と分かり合った。悟浄がかけがえのないのと同じぐらい、もしかしたらそれ以上に、八戒もかけがえがないのだ。かけがえもなく大嫌いだ。 頑張れよ、と思ってみた。別に諦める訳じゃないが私はあんたより大人なんだし、もしかしたら八戒も綺麗な目をしていたかもしれないがそんなこと私の知ったことではなく、例えどんな目をしていたところで悟浄がそれを好きであることに変わりはないのだ。 そして悟浄がこれからもありとあらゆるものに無邪気に浮気して八戒がそのたび怒ることなど、犬の目にも明らかなのだ。 |
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