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梅雨が明けたばかりの7月中旬、雨ばかりでうんざりしていた時期を過ぎれば、今度は照りつける陽の暑さに項垂れる。今朝の天気予報では真夏日を宣言していて、ようやく顔を出せる太陽が朝から激しく自己主張をしいた。ましてや外にいれば尚更それを感じる訳で、じっと駅のホームに置かれているベンチに座りっ放しの俺は、全身から静かに吹き出る汗の気持ち悪さと格闘しながらある奴を待っていた。 そいつと約束したのは、今日の午前11時にここで待ち合わせすること。腕にはめた時計は既に針を11時から20分過ぎた所を指している。ふと針が早く進んでるんじゃないかとホームにある時計を確認すればその時間は同じで、そういえば昨日の夜にしっかりと時間が狂っていないか確認したことを思い出す。…今更ながら、もしかしてそいつは来ないんじゃないかと思う。所詮、子供同士の遊びごと。ましてや一般的に言う性別の壁がある関係で、どうしてここまで本気になれるのだろうか、と。 さっきから寄せては無理やりに押さえ込んでいた不安が再び訪れる。その不安から逃れるように、俺はまた目の前を通過する列車や、ホームで列車を待ってる人を眺める。決して、奴を探すようなことはしない。俺はそんなに女々しい人間だと思わないし、奴の為に一喜一憂する自分が未だに悔しいと思うからだ。周りを見飽きたら、また何度目か分からない、俺の右隣にあるリュックを開けて持ってきた物を確認する。最小限の下着と着替え、それから、お気に入りのMDと遠足に持ってく程度のお菓子と、口座から残さず下ろした俺の全財産。特に今まで欲しいものの無かった俺は、昔から貰った小遣いやお年玉を貯めていたからそこそこの額はある。足りないものがあったとしたって、今の世の中24時間眠らないコンビニ行けば大抵のものは手に入る。 そうして確認が終わったら、俺はまたぼーっと奴を待つ。死んだ魚の目みたいな眼で中空を見つつ、気にしないと心の中では強く思い、しかし眼の端で捉えたホームにある時計が指す時間は、11時30分。見なきゃよかったと自己嫌悪に陥って俯く俺。多分、奴がここに来なかったら、俺は泣く。っていうか、既に泣きそうになってる。悔しいっつーか、悲しいっつーか、むかつくっつーか。あ、やべ。本当に泣きそうになってきた。目頭が熱い。このまま俯いてたら絶対に一滴零れる。でも、顔を上げたくても上げられない。どうしようもなく、自分が惨めな気持ちになってきた。 ぴとっ 頭の中がグルグルして、この世のどん底に陥ってしまいそうになっていた俺の意識が、突如頬に感じた冷たい感覚に、一気に現実に引き戻される。驚いて反射的に顔を上げれば、俺の後ろから申し訳なさそうな、それでいて妙にのほほんとした声が聞こえてきた。 「…すみません、お待たせして」 顔を見なくても十分すぎるくらいわかる。その透き通った水みたいな声。俺の大好きな声だ。 「…遅刻は1分につきキス1回って言ってなかったか?俺」 振り向かずに言えば、苦笑した奴は俺の頬に当てていたジュースを外して、俺の隣までやってくる。俺と同じくらいの大きさのリュックを肩から外して、俺の左隣に腰を下ろした。 「そんな嬉しいこと言ってましたっけ?だったら後1時間は余裕で遅刻してきましたよ、僕」 笑いながら俺の顔を覗きこむ。俺は悔しいからじと目でそれを見返してやった。 「お前、本当に遅刻したの悪いと思ってる?」 本気半分を冗談半分の笑いに包んで言ってやれば、奴はもう1回苦笑して、手に持っていたジュースを俺に向かって差し出した。 「そう思ったから、こうしてジュース買ってきたんじゃないですか。暑いなか悪いことしたなぁって思って」 そう言った後すぐには行動を起こさないで、奴が動揺するだけの十分な時間をとってから、俺は伸ばされた手からジュースを受け取ってそれを開けて口へ運ぶ。隣からはあからさまにほっとした雰囲気が伝わってきた。ざまあみろ。この俺をあれだけ不安にさせたんだ、これくらいは当然と思って受け取っとけ。 隣の奴は、俺がジュースを飲むのを見ると、自分も買ってきたジュースに口をつけた。実は待ってた俺よりここまで歩いて来た奴の方が暑かったんじゃないかと思いながら、喉を通る冷たい感覚に俺の機嫌は一気に直っていく。随分現金なもんだ。ふと、奴の横に置かれてるリュックの中身が気になって、俺は素直に聞いてみた。 「ああ、これですか?えっと…」 聞かれた奴は正直にリュックを開けて、確認しながら口を開く。 「そうですね、最低限の下着と着替え、それから、お気に入りの文庫と腹のたしになる程度の食料と、あるだけ下ろしてきた貯金。それと、日記」 俺の荷物と大してどころかほとんど変わらない中に一つだけあった、聞きなれない単語。こいつが日記つけるなんて初耳だ。 「お前、日記なんかつけてんのかよ」 驚いて俺が言うと、奴は笑って俺を見る。 「今まで言ってなかったんですけどね、あなたと会ってから毎日日記をつけてたんですよ、僕。あなたとの大切な時間を、何とか残しておきたいな、と思って」 そう言ってリュックから取り出したのは、使い込んでいる様子が一目でわかるすすけた緑青色の表紙のノートだった。「へぇ」と言いつつ中を見ようと手を伸ばすと、うまいタイミングでそれをかわして奴は再びリュックの中に戻す。残念そうに見ていた俺に、全く違った話題を口にする。 「そういえば、学校休んじゃいましたねぇ。まだ夏休みまで1週間あるのに」 知ってたくせ、今思い出した様な口調。だから俺も、今思い出した様な言い方で答える。 「あ〜…でも、ま。あと1週間だから問題ないだろ」 頬に当てたジュースが、暑さでバテた体に潤いを運ぶ。ちょっとした沈黙の後、再び奴が口を開いた。 「学校、騒ぎになったりしませんかね?無断で休んじゃったわけだし」 どこか後悔した様な口ぶりに聞こえた。奴の家はそこそこ裕福で、家族だってしっかりいて、暖かい環境に包まれてたから、こんな風に家を出てくるなんて初めての体験だったのだろう。 「…そんなもんじゃねぇ?駆け落ちって」 答える俺の声が、自分でもわかるくらいに震えていた。今回のことを誘ったのは俺だ。奴はそれに何の疑問も持たないで即、OKを出した。でも、それが同情とかだったらって、思わなかったら嘘になる。奴にとっての掛け替えの無い暖かい家族を捨ててまで、俺に付き合ってよかったのかって、何度だって思った。今の言葉も、優等生だった奴が起こす初めての行動に戸惑っているから、と考えることもできるが、もともとこんなこと、奴は望んでなかったのかもしれない。今ならまだ、ここにいる俺達は引き返すことができる。何事もなかったかのようにそれぞれ家に戻って、無断欠席したことを起こられてちょっとへこんで、それだけで今までの日常に戻れる。 手の平が嫌な汗をかいている。心臓の動きが失神しそうなくらい早くなって、さっきまであんなに暑かった体が今は寒くてしょうがない。今、俺が口を開いてたった一言を言うだけで、全てがなかったことにできる。奴のことを思うなら、それが一番いいことなんだ。だったら、迷わないで言ってしまえばいい。言って… そう思った時、突然奴の右手が俺の左手を掴んだ。とてもとても強い力で。突然の出来事に俺の体は大きく跳ねてから動きを止める。何を言っていいかわからず、俺の口は中途半端に開いたまま小刻みに震えていた。どうしていいかわからなかった俺の頭は混乱して、けど、たった一言奴が漏らした声を、しっかりと耳が拾った。 「…来てないんじゃないかと思ってました…」 周りの喧騒に飲まれてしまいそうな、小さな小さな声。混乱した頭でよく聞き取ったと、俺は心のそこから今の俺を神様に感謝した。 ああ、こいつも俺と同じだったんだ。よく考えたら、同じじゃないはずがない。世間的に絶対に良い目で見られない関係の俺達は、いつだって隠れるようにお互いの気持ちを確認してきた。 「自分だけ、馬鹿みたいに喜んで…でも、ふと思ったんです。ここに来て、あなたがいなかったらって。今までのは全部、僕の勝手な思い込みだったんじゃないかって。そう思ったら、途端に怖くて、足が動かなくなって…」 だから、遅れたのだと。途中で切れた言葉は、まるで搾り出したように呟く声から容易にその続きを想像できる。俺も奴も、どうしようもない臆病で。でも、ここに来たってことは、俺達の気持ちは同じだって、ことで。 それを確信したら、急にまた目頭が熱くなった。でもここで泣いたらかっこ悪いから、こんな時まで虚勢を張ろうとする俺は、泣く代わりに奴の手を奴以上に強く握り返した。 「…俺も、お前が来ないかと思ってた」 俺の呟きを、ただ黙って奴は聞いている。まるで懺悔の様な気持ちで、俺は言葉を紡ぐ。 「お前を待ってる間ずっと、俺の言ったことは間違いだったんじゃないかって。お前のこと苦しめてるだけで、全部迷惑だったんじゃないかって…」 言葉途中で、奴が手にこめる力を一際強くした。だからそれ以上、俺は何も言わなかった。 それから暫く、俺達はお互い黙ってただ手を握り合った。途中何人かの人がこちらの方を見ていったけど、そんなこと俺達にはどうでもよくて。この気持ちの悪い暑さの中で、互いに感じる手の中の熱がただ心地よかった。この熱さがあれば、俺も奴も、生きていける。 ふいに、俺達のいるホームに列車の到着を告げるアナウンスが入った。それは俺達が乗ろうと思っていた列車だ。もう、互いに躊躇いはない。それがわかったから俺は、顔を上げて前を見た。 「…行くか」 ぽつりと呟いた言葉。奴の耳には十分届いたはずだ。大きさは小さかったが、迷いの無い強い口調だったと我ながら思う。 「…ええ」 答える奴の声も、先ほどとは打って変わって、この青い空のように何かを吹っ切った、この先にあるものを見据えるような強いものだった。 そっと、どちらともなく手を離す。この熱を失うのはちょっともったいなかったが、これからはいつだって、手だけじゃなく全身に感じることができるものを惜しむ必要はない。2人同時に立ち上がって、2人同時にリュックに手を掛けて。ホームの際に向かって1歩踏み出した時に、思い出した様に俺は口を開いた。 「日記」 「え?」 唐突な俺の一言に、奴は反射的に俺の顔見て聞き返す。そんな奴のアホ面に、俺はいつもの笑顔を浮かべて言う。 「日記、今度からは俺もつけさせろよ。これから先ずっと、お前と一緒に」 突然の申し出に、一瞬言葉に詰まった奴は、すぐに俺とおんなじ様にいつもの笑顔で答えた。 「いいですよ。…日記の中身が見たいだけで言った言葉じゃないですよね」 最後は半分ほど本気で疑った目を向けられたが、それには答えず俺は人の悪い笑みを浮かべるだけにしといた。それ以上は奴も何も言わず、俺から視線を逸らして列車の来る方を見つめる。俺も奴と同じ様にそっちの方を見てみたが、ふいに、奴の翡翠の様な綺麗で心地よい目が見たくなって、うっかり名前を呼んでしまった。 「八戒」 呼ばれた八戒は、まるで呼ばれるのをわかっていたかのような笑顔でこちらを向く。 「何です?」 聞かれたけど、正直に目を見たかったからなんて言うのは究極に恥ずかしかったので、苦し紛れに言い訳を考える。 「…いや、ただ呼んだだけ」 思わず目を逸らして、女の様なセリフを吐いてしまった。ていうか、もしかして今のセリフの方が正直に言うより恥ずかしかったんじゃないだろうか。熱くなっていく顔を自覚しながら恥ずかしくて目をあわせられないでいたら、今度は八戒の方が俺の名前を呼んできた。 「悟浄」 恥ずかしかったが、コイツに名前を呼ばれるのがとんでもなく好きな俺は、条件反射の様に言われた方を向いてしまう。そこには案の定満面の笑みの八戒がいて、俺はしどろもどろになりながらやっと口を開く。 「…なんだよ」 そんな俺の様子に動揺することもなく、八戒はその笑みを崩さないまま再びしれっと言ってのけた。 「ただ呼んでみただけです」 ただでさえ真っ赤な顔が、更に赤くなっていくのが感じたくなくても十分に感じられる。俺を見ていた八戒は、耐えられないといった様子でついに吹き出した。腹を抱えて笑う八戒をじと目で睨む俺。こんな風な他愛ない時間が、どうしようもなく柔らかくて優しくて、愛しい。 目の端が、遠くからカーブしてくる列車の姿を捉える。どんなことになるかわからない俺達のこれからは、波乱万丈に過ぎていくに違いない。 でも今はコイツがいればそれでいいし。 きっとこれからも、コイツがいればそれでいいのだろう。 |
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